この胸が痛むのは
さっきまで、フォードと呼んでいたのに、今度は殿下か。
忘れるのは俺じゃない、君だ。
君にクラリスを忘れてほしいんだ。


「姉を偲ぶ、と言うけれど。
 俺は君の母上と姉上に毎年花を送っているだけだよ?
 それを君は何か誤解しているのかな。
 ……では、今年で最後にすると約束しよう」

「いいえ、来年も、再来年も。
 殿下のお心が求めるままに」


変格意識下では間違った記憶に囚われると、聞いていたが。
アグネスのなかでは俺は毎年、クラリスを偲んでいる事になっているのか?


否定しても、説明しても、話が全く通じていない。
俺の心が求めるもの?
アグネスにはわかって貰っていると、思っていた。
どう返事を返せばいいのかわからなくて、曖昧に微笑んだ。


やはり、温室から出なくてはいけないと思った。
アグネスに戻っているのなら、この間に連れ出そう。


「喉が乾いたんだ、お茶を貰えるかな」

「気が利かなくて失礼致しました。
 直ぐにご用意致します」

彼女は俺より先に立ち上がったが、もう俺の手を取り、引っ張ったりしない。
それで俺は彼女をエスコートして邸内に戻った。

温室の中の薔薇の香りと、外で降り続く雨の匂い。
何が現実で、何が怪しなのか、境界線がわからなくなってきた。


自分が楽天的過ぎた事に、俺はやっと気付いた。
< 603 / 722 >

この作品をシェア

pagetop