この胸が痛むのは
あの日の事は、今でも鮮明に思い出せる。



殿下と『死人還り』を決行したアグネスを助け出そうとした9月の雨の午後。
ノックをしたが返事もなく、鍵を使って入った
クラリスの部屋には何かが確かに居たと、思う。


天気は雨だったが、トルラキアと違ってバロウズはそれなりに残暑が厳しい頃なのに、閉めきられた部屋は肌寒く、空気が重く澱んでいた。


殿下からは何があっても、口も手も出すなと言われていて、ノイエは扉の前で待機した。

殿下に抱かれたアグネスが、頭を左右に振っていて、その後殿下はカーテンを開いて、新鮮な空気を取り込もうとして、振り返り動きを止めた。


ふたりからは離れていたから何を話していたのかは、耳の良いノイエにもはっきりとは聞き取れなかったが。
ただ、殿下がいつも温厚な顔を見せていた
アグネスに対して、珍しく怒りを露にしたのは
わかった。


俳優となってから、人の表情をよく観察するようになってわかったことがある。

人は怒りが過ぎると悲しみに襲われ、そして絶望する。
まさに今の殿下がそうだった。
< 668 / 722 >

この作品をシェア

pagetop