さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「光莉ちゃん、ちょっと買い物に付き合ってもらえない?」
出産予定日を二週間後に控えたある日の朝、台所で片付けをしていると、早苗に声をかけられた。
「もちろんいいですよ。何を買うんですか?」
「これから出産に向けて必要なものをそろそろ用意しないといけないじゃない? リストアップしてみたのよ。ベビー服とか玩具なんかも見ておきたいし。今はどんなものがあるのかしらね」
早苗が光莉の出産を楽しみにしてくれていることが嬉しくて、つられて光莉まで気持ちが浮上する。たしかにこれから必要なものはたくさんある。雑誌やネットなどで情報を収集しているだけで、なかなか外には出歩けていない。必需品ならばすぐ近くの店であらかた揃えられるし、この先のことを考えると贅沢をする余裕はない。何よりあまり人の目に触れたくないという警戒心が常に先立っていた。
光莉が申し訳なさそうに表情を曇らせていると、早苗が光莉の手を引っ張った。
「こっちへいらっしゃい」
「えっ……早苗さん?」
「気になるなら、変装していきましょうよ。楽しそうじゃない?」
手を引かれて早苗の部屋に行くと、ウィッグ、つけまつげ、サングラス……普段着ないような派手な洋服。それらがテーブルの上にずらりと並んでいて、光莉は唖然とする。
「近所のみんなから集めたものだから、大したものはないけれど……ね」
「さすがにこれは……逆に目立つかも」
「だめかしら」
光莉はううんと首を横に振った。早苗の気持ちが何より嬉しかったのだ。
さっそくふたりはおめかしをして出かけることにした。しっかり化粧をして、帽子と眼鏡をするだけでもだいぶ違うだろう。何より早苗が隣にいてくれるということが心強い。
ベビー用品メーカーの中に入り、早苗は率先して光莉に必要なものをかごに入れていく。
「本当のお母さんみたい」
母が生きていたら、今頃こうして一緒に買い物をしていただろうか。
高校生のときに母が急逝した。そして、父も亡くなってしまった。律樹とは離れてしまった。光莉はますます孤独を感じてしまう。しっかりしなければ。自分のお腹には子どもいる。守らなければいけないのだから。
「光莉ちゃん」
早苗に声をかけられ、光莉はハッとする。気を抜くと考え事をしてしまう。
「ちょっと深呼吸しましょうか」
「え?」
「いいから、肩の力を抜いて、ね?」
早苗に言われるがまま、ふうっと呼吸を整える。
「輪島は、あなたのもうひとつの故郷と思いなさいな。そして私のことは第二の母だと思って、何でも頼りなさい。私もあなたのことを娘のように思ってるんやからね。だから、甘えられるのは嬉しいのよ。遠慮される方がずっと寂しいものよ」
「早苗さん……」
彼女の言葉は何よりも心強かった。
「さ、ベビー服、見てみましょうよ。可愛いのたくさんあるわねえ」
早苗が声を弾ませ、光莉の腕を絡める。
光莉は思わず頬を緩ませた。久しぶりに何もかも忘れて買い物を楽しんだ。
金木犀の香りが漂いはじめる頃――。
光莉は出産予定日どおりに男の子を生んだ。
葵(あお)生(い)と名前をつけた。庭に咲いている葵の花が、夏から秋へと移り変わる清々しい青空の下、まっすぐに空へと伸びた茎や葉の間から上を向いて空を仰ぐように咲いているところを見たときに思いついた。
俯きがちな気持ちをすくいあげてくれるような鮮やかな赤色・桃色・黄色・橙色・紫色・白色……色とりどりの花に心を癒された。
この子の人生がまっすぐに光りが降り注ぐ道でありますように、彩りに満ちた人生でありますように。胎動を感じながら夏の日に想いを馳せていた。
生まれたてのときは、まるでおさるさんのような人間らしくない顔をしていたのに、ひと月経過する頃にははっきりと律樹の面影を宿し、光莉はたまらなくなって泣きながら我が子を抱きしめた。
あなたが生まれてきてよかったと思える人生でありますように、母としてできることを尽くそう。光莉は心に誓った。
それからは怒涛の日々だった。
数時間ごとに起こされ、眠れない中で母乳をやり、頻繁におむつを替え、泣く理由がわからず途方に暮れ、不慣れな育児に追われる日々。
しかしそれに比例するように葵生への愛おしさが胸に溢れ、律樹のぶんまでこの子をずっと愛していくと改めて決意をした。
そして、輪島市にきてから二度目の春が訪れた日。生後六ヶ月を過ぎた葵生を 抱いて、光莉は早苗の家を出ていくことになった。
ここにきたのは妊娠して間もない頃だ。だいぶ長い間の居候になってしまった。
「早苗さん、長らくの間、たくさん甘えさせてもらってありがとうございました。大変お世話になりました」
「私の方こそ光莉ちゃんと一緒にいられて本当に楽しかったのよ。ありがとう。明日から寂しくなるわぁ。ずっとここにいてくれてよかったのに。お父さんに似て、本当に真面目な子やねぇ」
早苗は名残惜しむように葵生をあやしつつ、光莉にやさしい眼差しを向けた。
「ひとりだと思わないようにね。ここにはいつでも遊びにきていいんよ。困ったことがあったらいつでも何でも相談して。もちろん何もなくたっていいわ。たまには声を聞かせて。連絡よこしなさいな」
「はい」
寂しい気持ちはあったが、早苗とはこれが別れではないのだと思うと、とても心強かった。
早苗の家を出た日、最寄りの駅まで見送りにきてくれた颯太と待ち合わせをし、彼とはそこで別れの挨拶をした。
「颯太くん、今まで色々お世話になりました」
「いいよ。そんなかしこまったこと言わなくて」
「心が折れそうだった日々に颯太くんがいてくれてよかった。本当にそう思ってるもの」
光莉が心から感謝を告げると、颯太は決まり悪そうに肩を竦めた。
「あなたの心を奪うまではいかなかったけどね」
結局、光莉は自分の中にある想いを捨てきれずにいた。だから颯太に甘えることはできないし、彼を愛することはできない。出産したあと、改めてそう伝えていたのだ。このあとの行先はお互いのためを思って颯太には伝えなかった。
「まだ言ってるのね。忍びさんは往生際が悪いのかしら」
しんみりしないように、光莉はわざとおどけてみせる。颯太もまた笑った。
「悔しいからさ、あんまり言いたくないけど、でも、次に会えるのはいつになるか分からないし、ちゃんと伝えておくよ。光莉さんには誰より幸せになってほしい」
「……ありがとう」
腕の中にいる葵生があーあーと声を上げる。颯太は指を伸ばして葵に握らせた。握手、と颯太が言うと、葵生はきょとんとして彼を見上げていた。
「この先、いつか誰かと一緒になりたいと思う日が来るかもしれないし、奇跡が起きて、いつか、兄さんと一緒になれる日が来るかもしれない。どんな形であっても、あなたが笑顔でいられる日があったらいい。やっぱり思い出だけじゃ人は生きていけないと思うから」
元気で、と彼は手を振った。
金沢市の実家ではなく少し離れたところにアパートを借りた。しかし颯太には住所を教えなかったし、彼とは今度こそもう二度と会うことはないかもしれない。
颯太が遠ざかっていくのを眺めながら、光莉はぼんやりとこれまでの日々を思い返す。
律樹のことを忘れて、颯太と一緒に新たな人生を共に生きていく道を選べばよかっただろうか、と一度も考えなかったわけではない。
彼の言うとおり、思い出だけで生きていくのは辛すぎる。誰かに寄りかかりたい日だってきっと出てくるだろう。ひとりで子育てをしながら働くのは想像している以上に大変に違いない。
それでも光莉は胸にある想いをずっと愛していたかった。長い間、初恋の日々をずっと覚えていたように、律樹と過ごしてきたそれぞれの日々、彼に愛された日々、その事実を、思い出を、ずっと覚えていたかった。
自分勝手で我儘で傲慢な考え方かもしれないけれど、ずっとこれから先も忘れることなく、葵生を育てながら律樹のことを想っていたいのだ。
たとえこの先、律樹が他の人を選んで、新しい家庭を築くことになったとしても――。
――それから半年以上の月日が流れ、巡る十一月の初旬。
(――常盤修蔵が退任……)
九月に一歳を迎えた葵生の誕生日から約二ヶ月が過ぎたある日のこと、テレビで常盤グループCEOの退陣のニュースが流れた。
グループ企業の独占禁止法に触れる恐れのある不正、談合による下請けいじめなどの疑いから、公正取引委員会による家宅捜査が入ったらしい。緊急逮捕、公正取引委員会の調査、株価が暴落、ニュースの中にショッキングな文字が次々に映し出される。
光莉はしばらくテレビに目を奪われて茫然とし、律樹のことを思い浮かべた。
律樹はどうしているのだろう。常盤家の人たちは。そこまで考えてから、光莉はハッとして頭を振った。もう自分には何ら関係がないことだ。
光莉は週休二日のフレックスタイム制をとっている会社の事務の仕事をはじめた。万が一出勤できないことがあってもテレワークでカバーできるようにバックアップしてくれるところに魅力を感じた。何より内勤業務であることに安心感がある。新しく覚えることが多くあってしばらくは休みの日でさえも勉強の日々だったが、安定した収入があるということが何よりの支えになる。
本当は、食品会社に勤めることや、山谷食品に戻る道も考えた。けれど、さすがに時期尚早だろう。今はそのときではない。何より安定した生活を優先しなければならない。子育てには一日も休みはないのだ。
初めて保育園に預けたとき、光莉と引き離されて大泣きした葵生を見て、光莉も泣きそうになりながら後ろ髪引かれる想い で出社したものだ。しばらくはその繰り返しに耐えながら必死に働いた。葵生と一緒に生きていくために、立ち止まっている暇はなかった。
「あーくん、保育園に行くよ」
光莉は今日もバタバタと出かける準備をしていた。葵生も一歳を過ぎて歩きはじめてから、より 活発になって、ひと筋縄ではいかなくなった。
きゃあきゃあ言いながら部屋を駆け回る我が子をやっとの思いで捕まえ、心からの愛を込めてまんまるの頬へキスをする。
「まっま」
最近、ママという言葉を覚えたらしい。頻繁に口にし、抱きついてくる葵生を愛おしく思う。この子だけ側にいてくれたら他には何も要らないとさえ思うほどの強い気持ちがここにある。それが今の光莉の支えだった。
この日は残業で遅くなってしまい、いつものように仕事を終えた光莉は、すっかり暗くなってしまった外を見て焦った。
暗くなるのも早くなったし、窓の外を見てママが来るのを待っている葵生のことを思うといたたまれなくなる。
何とか預かり時間のうちに保育園に到着し、門を通ろうとしたとき、急ぐあまりに目の前にいる人とぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
光莉は慌てて謝った。
改めて相手の顔を見たとき、光莉は信じがたい思いで立ちすくんだ。
「どう、して」
あまりにも突然のことに混乱し、光莉はそれ以外言葉にならなかった。
別れたときより髪は少し伸び、以前の柔らかな雰囲気と比べ、情熱をみなぎらせた野心的な貫禄を感じる。一瞬、別人かと見間違う けれど、まぎれもない律樹がそこに立っていたのだ。
「やっと見つけた」
律樹は安堵とも昂揚ともとれるような表情で、声を震わせていた。
やっと見つけた、という言葉をどう捉えるべきか。光莉は声にならないままその場から動けずにいた。
光莉が保育園にくることがわかっていたということは――当然のことながら、光莉に子どもがいるというのを彼は知っていたのだ。いつ、そしてどこで知ったのか。
「輪島市の港町付近で暮らしているっていうことは知っていた。そのあと、どこにいるかわからなくなって……君のことをずっと探していたんだ」
なぜ探していたのか、その答えを問いたい。彼もずっと想っていてくれたということなのか。
それとも――。
ふと、修蔵のことが蘇ってきて、光莉の顔からさっと血の気が引いた。連れ戻しにきたのではないか、と。
しかし律樹はすぐにそのことを察したらしく、即座に首を横に振った。
「君から奪うものなんて、もう何ひとつないよ」
寂しげな律樹の表情に、胸が締めつけられる。彼がどんな想いで過ごしてきたかを考えたら何も言えなかった。むしろ、光莉の方が彼から奪ってきたのだ。葵生のことも――。
「あおくんのママー!」
保育園の玄関の方から保育士の声がして、光莉はハッとする。律樹を尻目に、葵生の手を繋いでくれている保育士の方へと駆けだした。
「ごめんなさい。お迎え遅くなってしまって」
「いいえ。とってもおりこうでしたよ。お友だちとも仲良く、給食もいっぱい食べましたよ」
「ありがとうございます。今日もお世話になりました」
「まっま!」
両手を伸ばして葵生がよたよたと歩いてくる。光莉も同じように両手を伸ばした。
「ただいま、葵生」
ぎゅうっと抱きついてくる葵生を抱き上げ、同じように小さな体をぎゅうっと抱きしめ返してから、光莉はそろりと律樹の方を見た。
ずっと真実は隠しておこうと思っていた。けれど、光莉が葵生を預けている保育園を訪れたということは、もう既に知っているのかもしれない。
「あおい……っていうんだね。どういう字を書くの」
律樹が控えめに尋ねてくる。
言葉にしたら、空白の時間に彼を想い続けたことが一気にこみ上げてきてしまいそうで、光莉はスマホの画像を見せた。それは、出産したときに命名の筆をとったときのものだ。
「葵生……いい名前だ」
律樹が目を細めて名前を指先でなぞる。それから葵生を見つめた。葵生はきょとんした顔をして光莉にしがみつく。
「ま、ま?」
「あーくん、ごめんね」
光莉は葵生の髪をやさしく撫でながら、こみ上げてくる涙を必死に我慢した。
そうだ。律樹から葵生を奪い、葵生から律樹を奪った。律樹のぶんまでひとりでこの子を愛していくと決めた。あのときはそうするしかなかった。けれど、今になって思う。自分は間違っていたのだろうか。
「光莉」
「ごめん、なさい」
喉の奥がひきつれそうになる。身体は強張ったまま、一歩も動けない。
「いや、俺の方こそ、突然来て、驚かせてごめん。明日、改めて話をする時間をもらえないか?」
「でも」
「約束する。君とこの子が怖がるようなことは絶対にしないし、君たちの生活を脅かすことなんてしない」
信じてほしいと、律樹の真剣な眼差しが訴えてくる。
「番号は変わってないから。ちょっとでも、会える時間があれば教えてほしい」
光莉が戸惑っていると、律樹はそう言い残して、じゃあと踵を返した。意外に強引なところは変わっていないらしい。
黒い立派な車が待機していた。仕事帰りにここに寄ったのだろうか。
律樹を乗せた車が去ったあとも、光莉は葵生を抱きしめたまま、その場からなかなか動けずにいた。
その日の夜、光莉は葵生を寝かしつけたあと、スマホの連絡帳を眺め、何度もため息をついた。律樹に連絡をする勇気が持てなかったのだ。ここで接点を作ってしまったら、引き返せない気がしたから。
『君から奪うものなんて、もう何ひとつないよ』
律樹の言葉には嘘がない。それだけはわかる。それなら、どうして律樹は現れたのだろう。何を話そうとしているのだろう。
『約束する。君とこの子が怖がるようなことは絶対にしないし、君たちの生活を脅かすことなんてしない』
わざわざ東京から金沢に出てきているということは数日滞在しているということなのか。
もう二度と会わない、会えないと思ったのに。
結局、連絡ができないまま朝を迎えてしまっていた。
今日は午前中で仕事が終わる。保育園に預けた葵生をすぐに迎えに行って帰ろう。忙しい律樹がずっと金沢にいられるとは思えない。彼と会わずにいる時間を作っていれば……。
そう考えていたのだが、ふとこんなときになぜか颯太の言葉が蘇ってきた。
『これから先はどうするの。ずっと、雲隠れっていうわけにもいかないんじゃない』
律樹だって葵生が自分の子どもだということにはきっと気付いているだろう。彼とはきちんと話をするべきなのかもしれない。
結局、光莉は葵生を保育園に預けたあと、律樹に連絡を入れ、仕事の後会う約束をした。
光莉は迷った末、律樹を家に招いた。カフェなどで気軽にできる話ではないと思ったからだ。狭いアパートの部屋に案内するのは気が引けたが、この際もう致し方ない。
律樹はそれよりも壁にかけられた絵や、写真の方に興味をそそられていたようだった。見られて困るようなものはないが、なんだか落ち着かない。
律樹は葵生を見てどんなふうに感じただろう。自分に似ていると思わなかっただろうか。昨日からずっと鼓動が騒がしい。
「えっと、今、お茶を入れるね。コーヒーの方がいいかな」
そういう声が上ずってしまう。
一旦冷静にならなければと思い、そそくさとキッチンに逃げ込もうとしたとき、とっさに律樹の手に腕を掴まれ「……あっ」と声がこぼれた。
気付いたときには抱きしめられていて、慌てて離れようとするけれど、律樹はびくとも動かなかった。体温と共に律樹の香りが漂う。彼のその匂いに懐かしさを覚え、たちまち胸の奥が騒がしくなっていく。
「律樹さん……」
離れてほしくて名前を呼びかけたのに、反対に彼の腕がさらにきつくしまった。久しぶりに律樹を直接感じて、息ができなくなるかと思った。
「君にひとり背負わせてごめん」
律樹の声が震えていた。
ああ、やっぱり彼は気付いていたのだ、と光莉は察した。伝染するように光莉の身体も震えてきてしまう。
「俺から離れたのは、あの子を守るためだったんだろう?」
涙がこみ上げてきて、我慢しようと思ったのに無理だった。勝手に嗚咽が漏れてしまう。
「……っ」
縋りつくようにして光莉が身を預けていると、律樹は髪を撫でて何度も強く抱きしめてくれた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい。私……っ」
「俺の方こそ、すぐに気付かずに悪かった。本当はもっと早くこうしたかった。迎えにくるのに随分時間がかかってしまった。どうか許してほしい」
律樹はそう言うとそっと光莉を離した。
「光莉、もう一度、俺と一緒になってくれないか。今日はそれを言いたくて会いにきたんだ」
まさかそんなふうに言ってもらえるとは思わず、光莉は目を見開く。
「そんな」
「常盤家のことも会社のことも色々片がついた。もう誰にも邪魔はさせない。君を不幸にしたりしない。あの子と一緒に三人で幸せになりたいんだ」
「……私は、あなたを置いて出ていってしまったのに?」
「君は、守ろうとしてくれたんだ。そうだろ? 色々あったが、今は俺が常盤家の当主を務めている。もう、君を脅かすことはなにもないんだよ」
「でも」
「俺は、今でも君を愛している。君は俺のことを、もう愛してはいないか?」
愛してる。光莉だって一緒だ。律樹のことを今でも愛している。ずっと愛している。
忘れたくたって忘れるはずがない。
ずっと覚えていたかった。
日に日に律樹に似てくる葵生を見ているうちに忘れるばかりかますます愛おしさは増すばかりで。
色褪せていくどころか、会いたい気持ちがどんどん募っていた。
会いたい、会いたい、会いたい。
あなたに会いたい。
どれほど数えたかわからない。果ての見えない未来を想像したとき、律樹が側にいないことを考えただけで、光莉は何度も絶望した。
わかっていた。思い出だけで生きていくなんて無理なのだ。ただ、強がっていなければ、あっという間に脆く崩れてしまうから、精一杯言い訳をしていただけだ。
実際、こうして律樹を目の前にしたら、触れたくて抱きしめられたくてたまらなくなっている。
今も変わらない想いが胸にある。
彼への恋しさや愛おしさは募るほどにここにある。
「光莉」
光莉、光莉……と、慈しむように名前を呼びながら、律樹が髪に触れ、頬に唇を寄せ、それから、唇を求めてきた。
抗うことなんてできなかった。触れた瞬間、全身に震えが走った。
いつの間にか、酸素を奪い合うみたいに、乾いた心を満たしたくて、夢中でお互いを求め、息ができなくなるくらい口づけを交わしていた。
「怖がることをしないって約束をしたのにな……ごめん。だめだ」
「私もずっとあなたに会いたかった……!」
光莉の言葉を聞き、律樹が勢い余ってソファに光莉を押し倒した。
「君が欲しい。今すぐに欲しい。どうしても……止められない」
律樹の身体を受け止めてからは、彼がくれる口づけや愛撫に溺れるだけだった。
「律樹……さんっ」
律樹のことが怖いわけがなかった。怖いのは、どれほどでも彼を欲している自分の中にある彼への深い想いの方だ。尽きなく、果てなく、恋焦がれてしまう。律樹と同じだ。箍が外れたらもう止められない。
「光莉っ」
息をつく間もない嵐のような愛撫だった。溺れるように彼の腕に抱かれ、恋しさや愛しさをすべてぶつけるように、焦がれながら堕ちていく。
離れていた時間に変わってしまった部分だってあるかもしれない。一瞬だけ不安に思い強張った光莉の心ごと溶かすように律樹は触れていく。
律樹の大きな手が、光莉の形を確かめるように這わされていく。会えなかった月日を埋めるように、情熱を注ぎ込んで。どれほどでも貪欲に迎え入れて。
お互いが唯一無二の存在であることを刻み込んで。何度でも上り詰めて震えてしまう。
ああ、ずっとこうしたかった。抱かれたかった。彼の温もりを感じたかった。死ぬほど会いたかった。あなたのことが欲しかった。
身体のずっと最奥で、律樹の情熱を感じながら、光莉は両手を伸ばして、律樹の頬に触れた。
「愛してる。光莉……っ」
愛している。
誰よりも、心から、愛している。
「……律樹さん、愛してるっ」
ずっと心の中に閉じ込めていた言葉が、余すことなくこぼれていった。
混沌とした白い世界を彷徨いながら、汗ばんだ重たい身体を受け止め、光莉は浅い呼吸を整える。
脱力した律樹の重みを身体いっぱいに感じて、信じがたいような夢を見ているような気分だった。
* * *
幸雄の墓の前で手を合わせたあと、律樹は常盤家の騒動の全容を教えてくれた。
ニュースに流れた一連の報道の裏側で、律樹が調査をしていたらしい。トップの不祥事により経営陣刷新を発表し、新たに重役ポストについた律樹は常盤グループの信頼回復のために奔走している。律樹は虎視眈々と契機を窺い、諦めていなかったのだ。
光莉と一緒に幸せになるためには、あのときは準備不足で、引き留めても修蔵の目から逃れられないことを知り、手放すしかなかった。だが、彼は未来を掴むためにずっと動いてくれていた。
光莉が、葵生のために未来を選んだように、律樹もまた光莉と一緒になれる未来を繋ぐために、一緒の方向に向かっていたのだ。
修蔵が捕まったあと、麻美と雄介は家を出て行き、使用人達には新しい勤め先を斡旋したらしい。律樹は都内のマンションでひとり暮らしをしているという。
「じゃあ、あのお邸は手放したのね」
「ああ。とはいえ、歴史ある建物だから、これからは迎賓館として活用してもらうつもりでいるよ」
短い間だったが、律樹と一緒に過ごした邸での思い出を振り返る。怖いことや苦しいこともあったけれど、律樹と再会して想いを結び合った場所でもあった。
光莉は父の幸雄を亡くし、妊娠に気付いたあとすぐ、東京から石川の輪島市へと移り、葵生が生まれて金沢に戻ってきた。葵生は今年の九月に一歳を迎えた。
常盤家を出てからまもなく二年――。
大人になって律樹と再会してから彼と一緒に過ごした時間の方が短く、離れていた月日の方が長い。
それでも律樹は想っていてくれた。変わらぬ想いのまま愛してくれていた。
そのことに胸がいっぱいで言葉にならない。
そして光莉もまたどれほど時が経過しても色褪せない彼への想いを感じていた。
「君のお父さんの前で、君に伝えたいことがあるんだ」
律樹がそう言い、光莉の方へ向き直った。
「俺と、結婚してほしい」
目の前には婚約指輪が差し出されていた。
「この指輪は……」
はっきりと覚えている。律樹が贈ってくれた婚約指輪だ。忘れるはずもない。あのとき、どれほど嬉しかったことか。
「これは君に誓った想いが詰まってるから、持っていてほしい。そして、遠回りしてしまったけれど、今度こそ……結婚式をしよう。ふたりで、そして三人で幸せになろう」
律樹の想いを込めたプロポーズに、光莉の瞳から涙が溢れていく。
「はい」
金木犀の香りがふわりと漂い、懐かしさと愛おしさを同時にくれる。心地よい風のざわめきは祝福の声だろうか。ふたりの間に天から降りてきたような光がまばゆく輝いていた。
ふたり揃って保育園に迎えに行くと、葵生はいつものように光莉をめがけて抱きついてきたが、隣にいた律樹を目にした途端、きょとんと首を傾げた。それからもごもごと口のあたりを動かしている。だんだんとパパという存在を知りはじめたらしく、迎えにきた他の園児のお父さんの姿を目で追い、改めて律樹を見た。
「あーくん、あのね」
光莉が葵生にどう言おうか考えあぐねていると、葵生はおずおずと小さな手を伸ばした。
「えっと、抱っこしてもいいのかな?」
一番戸惑っていたのは律樹の方だった。
「ぱっぱ?」
一生呼ぶことがないかもしれなかった言葉を、今、葵生が口にした。その衝撃に、光莉はこみ上げてくるものを感じ、言葉にならないまま思わず口元を押さえた。
「呼んでくれるのか、葵生……」
律樹が泣き笑いするみたいに表情を崩して、それから葵生を抱きしめ、頬ずりをする。
「ぱっぱぁ!」
すっかりお気に入りになったらしい、律樹にしがみついて離れない葵生を見て、光莉もまた律樹と似た表情をしてしまっていたかもしれない。
「月並みな言葉かもしれないけれど、運命ってあるんじゃないかと思う。離れてしまうことも、引き寄せられることも……俺と君の間には、きっと」
そうなのだとしたら、これから先はずっと一緒にいられる運命でありたい。ずっと共に歩いていける人生でありたい。
それから――。
三人で帰宅して簡単に食事を済ませたあとも、葵生は律樹にべったり甘えていた。はしゃいで疲れたらしい膝元に身を寄せたままブランケットに包まりうとうとしている。そんな親子の様子をいつまでも眺めていたいと思いながら、光莉は引き出しに仕舞っていたあるものを律樹に差し出した。
「これは……」
母子手帳だ。最初のページには御守が挟んである。
昔、律樹がくれた御守だった。色褪せて、年季が入ってはいるものの、大事にしている。
「なつかしいな」と律樹は言ってから、側においてあった鞄を開いた。
「君に言われてから、鞄の中に入れていたんだ。昔君がくれた、比翼連理の御守……」
「懐かしい」
「今なら理由はわかるよな?」
光莉は顔を赤くし、頷く。
「もちろんよ」
「これからは一緒にしておこう」
「うん」
律樹の手が伸びてきて光莉の頬をやさしく撫でる。それから彼の顔が近づき、唇を啄んだ。間近に見つめられると、愛しい気持ちが溢れ出していく。今もずっと彼に恋をし続けていることを思い知らされる。
「……足りない」
律樹の情熱的な眼差しを受け、光莉は頬を赤く染めながら愛しい夫を咎めた
「これからはいつでもできるでしょう?」
「そうだね。それでも、たくさんしたいんだよ」
じりじりと迫られ、光莉は困惑しながら、必死にふたりの間にいる天使の存在をアピールする。
「……もうっ。律樹さん、大事なこと忘れてない?」
「忘れてないよ。大事なふたりの子なんだから」
むにゃむにゃと目をこすっている葵生の頬に、ふたりしてそれぞれキスをした。
最愛の我が子への想いを込めて。