さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
九月も半ばを過ぎ、むせるような金木犀の香りがどこからともなく漂ってくると、山谷(やまたに)光莉(ひかり)はむしょうに人恋しくなるような心地に囚われた。
まるで世界を一新するかのように、残暑の熱がゆっくりと引いていき、あとひと月もすれば湿度を孕んだ瑞々しい空気はやがて凛とした清々しいものに変わる。まわりの景色はだんだんと油彩画のように色を重ねづけされていく。
石川県金沢市にある老舗食品メーカー『山谷食品』の試食室。
スーツの上から作業着に腕を通して、胸元まで伸びた栗色の髪をひとつに束ねると、光莉は手袋をつけた手で試食用の新作のさつまいもレーズンバターサンドを 摘まみ、さっそく大きく口を開く。猫のように円らな目をぱちくりと輝かせ、舌に広がる甘味に思わず頬を綻ばせた。
「光莉ちゃんは、よう食べるお嬢さんやね。ひょっとしてそれが美人の秘訣なんやろうか?」
工場の従業員、三津早苗に茶化され、光莉は笑顔を返事代わりにする。
「美人かどうかはわからないけど、食べるのが仕事だもの」
そう。色気よりも食い気なのね、と誰かに笑われようと、これは光莉にとって一種の職業病なのだから致し方ないのだ。
光莉は山谷食品の企画部商品開発チームで働いている。父・山谷幸雄が代表を務める会社だ。
小さな会社ではあるけれど、古くから繋がりのある農家との契約を大事にし、石川の名産品を使い、独特の味に拘ったスイーツや秘蔵の製造方法により日持ちする土産用の惣菜などを販売する老舗ブランドとして、幾度かメディアに紹介されたこともある。
地元の素材を大切にし、地元の魅力を伝えていこう、という創業者の理念は祖父から父の代へと引き継がれ、光莉も将来は継ぎたいと思っている。
「地元、か」
ふと、窓の外を見た。 美しい彩りを添えていく世界の中にただひとつ変わらないもの――十代の頃に置き忘れてきた淡い初恋の記憶が、脳裏に蘇ってくる。
――幼なじみのあの人は、今頃どうしているのだろう。
小学生の頃から中学二年の終わり頃まで、光莉は東京都内の学校に通っていた。そこで共に過ごした彼のことを、季節が巡るたびにそうして思い浮かべる。時が過ぎるにつれ、だんだんと記憶の色は曖昧にぼやけて、その輪郭すらわからなくなっていくのに、なぜかこの季節に見る夢の中では彼が成長した姿を鮮明に思い描けた。
むしょうに会いたくなる。でも、会えなくてもそれでもよかった。なぜかわからないけれど、彼とはずっと繋がっていられる気がするのだ。
この感情は、遠い秋の日に残してきた想いのせいだけれど、未練というのとは少し異なる。ただ、あの頃とても輝いていた初恋の思い出を、いつまでも記憶の中にコレクションしていたいだけだった。
そんなセンチメンタルな気持ちをよそに、先週、二十八歳を迎えた光莉には浮いた話ひとつなく、栗、芋、餡……という文字を見るだけで猛烈にわくわくしているという状況なのだけれど。
気を取り直し、別のスイーツを試食しようと口を開きかけたときだった。父・幸雄 が手招きをしているのが見え、光莉は一旦試食していた手を止め、幸雄の元へと行く。
「どうしたの、お父さん」
「光莉にお願いがあってね」
幸雄からの話は、大企業・常盤(ときわ)グループの創業記念パーティーに招待されているので、代理で参加してほしいというものだった。
「私が東京に……?」
「ああ。本当はひとりで行かせたくないんだが……今週末はどうしても別の用件で都合がつかなくてね。光莉にしか頼めないんだ」
幸雄は娘の目の前で両手を合わせた。人のよい父のこのおねだりの表情に、娘の光莉は弱いのだった。
「一応、言っておくけれど、私だって暇ではないのよ? 今、企画が走ってるところだし、毎日こうして試食をしてるところで……」
「ああ、もちろんわかっているさ。だが、このとおりだ」
父は若い頃に東京の商社に勤めていたが、光莉が中学二年のときに先代である祖父が他界。実家のある金沢に移り、祖父に代わって三代目社長として山谷食品を継いだ。
父が社長に就任して以来、東京の食品会社とも業務提携を行っており、地元に愛されるだけでなく全国に素晴らしい商品を届けられるよう日々商品開発に勤しんでいる。
光莉が高校生の頃に母が急逝 し、それからは父と親子二人三脚で慎ましく暮らしてきた。光莉は父を尊敬しているし、金沢での暮らしも、この仕事も、社員のことも工場の従業員も、みんな大好きだ。いつか父の右腕になって父を支えられる人物になれたらいいとも思う。
そんな尊敬する父から大事な用事を頼まれれば、光莉としても断れないというもの。
常盤グループはホールディングスカンパニーとして様々な事業を展開し、幾つもの子会社を管理している。昨今は特に食品部門に力を入れているようで、数年前に金沢の郷土料理や名産を使った食品のコラボ企画でお世話になった。山谷食品と常盤グループとの付き合いはそれほど長くはないが、その企画をきっかけに、山谷食品の名前が世の中に広く知れ渡ることとなったのだ。
そういう恩義があるから、招待を無下にすることなどできないし、何より大企業の創業記念パーティーなのだ。山谷食品の代表として、ある程度の肩書を持つ者が必要なのだろう。光莉は役員などではないが、経営者の娘という立場であれば、何かと交流しやすいことがあるかもしれない。
「もう、仕方ないな」
「ありがとう。光莉」
「東京かぁ。向こうに行くのなんて何年ぶりだろう。あ、せっかくだから、ついでに色々見て来られたら嬉しいな。ほら、視察という名目でね」
光莉は幸雄に期待の目を向けた。父は娘の言わんとすることを理解したようだった。
「ああ。もちろん数日ゆっくりしてきて構わないよ。会いたい友だちもいるだろう」
「やった。じゃあ、お言葉に甘えて、出張ついでに有給休暇をいただいちゃいまーす。スイーツ巡りしちゃおう」
お気楽な娘の様子に笑ってから、父は朗らかに微笑んだ。
「逞しいね。頼んだよ。次期社長」
「ちょっとー何を言ってるの。引退なんて気が早いんじゃない? お父さんにはまだまだ頑張ってもらわないといけないんだからね?」
「あ、ああ、そうだね……」
幸雄が表情を曇らせ、どこか遠い目を外へと向けた。心なしか疲労感が漂っている。
「お父さん? どうかした? どこか調子でも悪いの?」
光莉が様子を窺うと、幸雄は我に返って困ったように微笑んだ。
「ああ、いや。そんなことはないよ。光莉は、その、彼氏はいないのか」
幸雄の唐突な質問に、光莉は目をぱちくりとさせてから眉間に皺を寄せた。
「いきなり何の話? まさか縁談とかやめてよね」
不自然な話の流れに、光莉が怪訝な顔をすると「ははっ」と幸雄は軽やかに笑い声を立てた。
「いやぁ。仕事一筋では寂しいじゃないか。誰かいい人がいるなら紹介しなさい。おまえには一日も早く幸せになってほしいと思ってるんだ」
「あいにく。今はそんな人いないよ。それに、私はちゃんと幸せだから心配しないで。ほら、この仕事が大好きだしね。まあ、ちょっとそろそろダイエットは必要かも……だけど」
「光莉……実は、今後のことなんだが……」
と、幸雄が何かを言いかけたときだった。
「社長」
専務の川(かわ)岸(ぎし)が書類を手に足早にこちらへやってきた。
「先日のご相談の件ですが――」
「ああ、待ってくれ。その件は上でしよう。私も話したいことがある」
幸雄が川岸の発言を牽制し、光莉に「東京行きの件はあとで」と言い残した。
光莉は背を向ける幸雄に手を振り、それから川岸に頭を下げた。
先ほどまで父の顔をしていた幸雄は、既に社長の顔に戻っている。
(……東京かぁ)
それにしても幸雄が何かを言いかけていたことが、光莉には少しだけ引っかかった。なんだかいつもより元気がないような気がする。急に彼氏がどうとか言い出すのも不自然だ。
(もしかして、また工場のおばちゃんたちに何か言われたのかな?)
娘をいつまでも独り占めしていたらかわいそうだとか、いい人を早くお婿さんに迎えたらいいのにとか、いわゆる井戸端会議のようなものだけれど、おばちゃんたちのパワーに押されている父の姿を思い浮かべ、光莉はふふっと笑う。
会社のトップでありながら、誰にでも愛される父の様子は、微笑ましい。そして真面目な父は彼女らの言い分を本気にして悩んだのかもしれない。
(……っていってもねえ。結婚なんてまだまだ考えられないよ)
光莉はため息をこぼす。
「さて、出張の申請をしないとね」
光莉はさっそく今いる工場から隣のオフィスの方へと移動する。
――このときは、自分の身の回りに何が起きているかなんて考えもしなかった。
* * *
週末、光莉は幸雄から招待状を預かり、東京都内のホテルに赴いた。パーティーはホテル内のボールルームの方で行われることになっている。
スーツに身を包んだ光莉は、受付を済ませたあと、緊張しながら会場の中へと入っていく。
豪奢なシャンデリアが吊るされたホールには幾つか円卓が並び、シェフが料理を振る舞うブースができていた。中央の舞台の下手側にはグランドピアノが設(しつら)えられ、上手側ではオーケストラが生コンサートのために待機をしている姿が見える。
光莉は入口付近に待機している配膳係からシャンパンを受け取り、会場の中を見渡した。
ざっと三百名くらいだろうか。女性は着物やドレスを着ている人もいてパーティーをよりいっそう華やかに彩っている。男性はそのぶんスーツやネクタイのデザインで式典に色を添えていた。
こんなに豪華なパーティーに参加するのは初めてなので落ち着かない。既に錚々たる企業の人間が参加していることに気付き、光莉はすっかり圧倒されていた。
(この場に招待されるということはとても名誉なことなのね)
光莉は改めて身を引きしめる。
山谷食品の代表代理なのだから、会社に恥じないように謹んで行動しなくては。
と、そのとき。
後方のドアが開いた。
会場の中に甘い金木犀の香りが流れてくるのを感じて、光莉はつられるように振り返る。
その香りは、あの胸を甘く締めつけるような想いをこみ上げさせ、光莉を遠い過去へと引き戻した。
光莉は彼が近づいてくるのを、夢のような気持ちで眺めていて、足に根っこが生えてしまったかのように動けないでいた。
「失礼」
その声にハッとする。
上背のある、さらさらの薄茶色の髪から覗かせた、目鼻立ちの整ったその人にたちまち目を奪われた。立ち居振る舞いに上品な色気が漂う彼は、まるで絵本に出てくる西洋の王子様のようなといっても過言ではないかもしれない。しばらく恋とは無縁な光莉は久しぶりにときめきを感じてしまった。
しかし光莉が気になったのは彼の美しい容姿というよりも雰囲気だ。理知的な眼差しの中にまとう独特の穏やかな空気感、そして、なんともいえない懐かしさを彼に感じていた。
(あれ、ちょっと待って。まさか、ひょっとして)
彼の姿が光莉のよく知る人と重なっていく。やがて、走馬燈のように過去の記憶が次々と呼び起こされていく。
(嘘。こんな偶然があっていいの)
かつて光莉が恋をしたその人の、夢に描いていた将来の姿そのものだったのだ。
あっという間に通り過ぎていった彼の背に引き寄せられるように、光莉は彼を追いかけてしまっていた。彼が他の招待客と会話をしている表情や仕草につい魅入られる。少し斜めに傾けた輪郭に記憶の面影がぴたりと重なっていた。
光莉は、思わず「りっちゃん」と声をかけそうになったが、今の自分の立場を思い出して踏みとどまる。
もどかしい。けれど、この場で幼い日の綽名で声をかけるのは失礼だろう。いくらかつて仲良くしていたとはいっても、もう十年以上月日が経過しているのだ。
はやる気持ちをなんとか抑えて、挨拶の切れ間に、光莉はよりいっそう胸を高鳴らせながら、おもいきって彼に声をかけた。
「こんばんは。ひょっとして、律樹くんよね? 高(たか)橋(はし)律(りつ)樹(き)くん?」
光莉が声をかけると、彼は驚いたように目を見開いた。色素の薄い瞳が揺れている。その瞳の色にも懐かしさを感じて、光莉はこみ上げてくるものを感じ、息が止まりそうになった。
「君は――」
戸惑う彼の顔を見て、光莉はハッとし、慌てて一枚の名刺を差し出した。
「突然ごめんなさい。私は光莉。山谷光莉よ。中学まで一緒だった――」
いくら自分が覚えていても彼が忘れていることだってあたりまえにあるだろう。ショックだけれど、でも、化粧をしているし、昔とは異なる容姿からはすぐ想像がつかないだけかもしれない。なんとか思い出してほしくて、必死に言葉を紡ごうとするので精一杯だった。
「山谷食品……」
彼は名刺を見て、ぽつりと呟く。
「ほら、金沢の父の実家に戻って、私も今そこで働いているの。今日は父の代わりにここへ」
久しぶりに会えて感動の方が先立ち、久しぶりとか嬉しいとか短い言葉がこぼれるだけで、それから何を話したらいいかわからなくなる。舞い上がっている光莉を尻目に、彼は仏頂面を浮かべ、ふいっと視線を逸らした。
「――知らないな。人違いしているんじゃないか」
「え?」
「急いでいるので、これで失礼するよ」
「あっ」
名刺が手から離れ、慌てて掴もうとするものの、彼の足に滑り込み、踏まれてしまう。
彼は一瞬立ち止まった……かのように見えたが、しかし冷たい一瞥のあと背を向け、さっさと行ってしまった。
残されたのは、足跡のついた無残な四角の紙だけ――。
茫然として立ちすくんでいた光莉は人の視線を感じてハッとすると慌てて名刺を拾い上げた。
人違い? じゃあどうして驚いた顔をしたのだろう。ただ急に声をかけられたからだろうか。あれは、他人の空似だったのだろうか。
光莉は首を捻った。
少し遅れて、腹が立ってきた。
たとえ人違いだったとしても、あの態度はないのではないだろうか。こちらも急に声をかけて申し訳なかったけれど、せめて名刺だけでも交換するとか、少し話を聞いてくれてもよかったのに。
悶々としている間に、会場にアナウンスの音声が響き渡った。
「えー会場にお集まりの皆様、本日はお忙しい中こうして会場まで足を運んでいただき、誠にありがとうございます。このたび、司会を務めますのは――」
司会が紹介をはじめるさなか、光莉は先ほどの動揺をなんとか抑えようと、隅の方へ移動した。さっきの彼の態度に傷つき、悶々とした気持ちがどうしても晴れない。
女性ふたりがひそひそと会話をしているのが聞こえてきた。
「りつきさん、素敵よね」
りつき、という名前に光莉は耳をそばだてた。
「ほら、あそこ」とひとりの女性が壇上の下手に控えている男性の方へと羨望の眼差しを注ぐ。
もうひとりの女性も同調し、深く頷いた。
「ええ、本当に」
(りつき……って、ほら、やっぱり夢なんかじゃない)
急いでいたのは本当だったのだろう。それにしても彼の態度が解せなくて、光莉はもやもやしてしまう。引き続き、彼を目で追っていると、女性たちの噂話が続いて聞こえてきた。
「常盤家に優秀なDNAを残したくて、常盤社長の養子にしたっていう噂はあながち嘘ではなさそう」
「養子じゃないわよ。愛人の子をわざわざ本宅に呼びつけたのでしょう? 腹違いの弟の方はあまり賢そうな人ではなかったけれど。母親の違いかしら。それとも、ご当主の方の血を濃く引き継いだのかしらね」
光莉は弾かれたように女性ふたりの方を振り向いた。彼女たちは訝しげな表情や気まずそうな表情を浮かべ、光莉の側から離れていった。
――常盤社長の養子。
――愛人の子。
――腹違いの弟。
――ご当主の方の血。
あまりの情報量に、光莉は混乱していた。
(どういうこと?)
たしかに光莉の知る方の『りつき』は母子家庭だった。けれど、常盤社長の養子になったとか、愛人の子だとか、腹違いの血だとか、それらは全く知らない情報だ。
光莉が知らない方の『りつき』は壇上に立ち、挨拶をはじめようとしていた。
「――本日はご多忙の中お集まりいただき、誠にありがとうございます。常盤グループ代表取締役に代わりまして、私が皆様にご挨拶をさせていただきます」
皆の視線が一斉に彼へと集中する。彼は本社常務取締役・経営企画部部長という肩書のようだ。スクリーンの紹介文にはグループ会社管理戦略課チームという表記が添えてある。会社の経営における詳しい話はわからないが、これを見ただけでも彼が優秀な人材であることは伝わってくる。
光莉は幻を見るような気持ちで、彼を見つめていた。
高橋律樹――光莉が会いたかった彼は、小学校のときの同級生だった。小学校二年生で同じクラスになってから中学校二年生まで付き合いがあったので、ふたりは幼なじみの関係といっていいだろう。
腑に落ちないまま、光莉は彼との思い出を振り返っていた。
彼はあまり人と接することが得意ではなく、普段は無口だった。自分から友だちを作ろうという気がないらしい。休み時間や放課後はよく図書室の誰もいない窓際の席にひっそりと座っていた。
光莉は他の子とは違う律樹の存在をいつも気にかけていた。仲良くなってみたいという好奇心からだったかもしれない。彼を見つけると、遠慮なしに彼の隣に座った。
最初の頃は鬱陶しそうにされたが、そのうち彼は諦めたのか、光莉を受け入れ、だんだんとふたりは普通に話をするようになった。本が好きということもあり、博識な彼は実は無口とは程遠いほど話し上手で、光莉は彼の口から紡がれる物語の真相などを聞くのが楽しかった。
物静かな律樹と、快活な光莉とでは正反対だったが、一緒にいて居心地のいい存在だった。そう思っているのが光莉だけではなく、律樹も一緒だったら嬉しいと思っていた。
それは、きっと初恋だった。
中学生になると、律樹と光莉が付き合っているという噂が流れた。仲の良さをからかわれた。しかし実際は、光莉が勝手に片思いをしていただけで、告白をしたりされたりという関係ではないし、彼とはずっと友だちのままだった。せっかく築いた絆を壊したくなくて、光莉は勇気を出して告白することができなかった。ただ、ずっと側にいたかったのだ。
しかし光莉が中学二年のときに祖父が急逝し、父が祖父の会社の後を継ぐため、両親と共に金沢に行くことになった。お互いに別れを惜しみ、光莉が金沢へ行ってからも、彼とはメールのやりとりをしていたけれど、高校に入学してから音信不通になった。小学校や中学校の同窓会が開かれても、彼は現れなかった。そのあと、彼がどうしていたのかは知らない。
あれから十年以上もの歳月が過ぎた。
壇上にいる彼と、光莉の知っている彼とは違うのかもしれない。それに、あの態度を振り返れば、彼はあえて知らないふりをしたということだ。何か事情があって知られたくないということだろうか。気付かれたくなかったから驚いて戸惑っていたのだろうか。
いくら目で追っても、律樹はこちらを見ようとしない。光莉の様子を気にかけるそぶりもない。光莉はまるで透明人間にでもなったような気分だった。
(りっちゃん、私はあなたにずっと会いたかったよ。どうしているかずっと気になっていた)
結局、連絡が途絶えたまま会えなくなってしまった。
いつか、大人になった彼と会える日が来たら、今度こそ友だちのままじゃなく……そんなふうに思い描いていたこともあるけれど、あのとき勇気を出して告白できなかったのに、今さら、そんな夢みたいな話があるわけない。律樹の振る舞いに、嫌というほどそのことを思い知らされる。
(せめて、あなたに何があったのか、聞いてはいけない? 知りたいと願うのは、私の勝手なわがままでしかないのかな。私は、このまま知らなかったふりをして、あなたを忘れた方がいいの?)
パーティーはつつがなく終了した。予定どおりの進行だった。父の代理でパーティーに参加するという使命は無事に果たせた。色々な企業の人と話をすることができたのはよかった。
けれど、光莉は落ち込んでいた。とても観光する気分ではなかった。
ひとまずホテルの部屋に戻って休もうと、エレベーターの方へ足を向けたときだった。携帯が鳴って、光莉は隅の方へ移動し、通話に出る。
『大変やよ。光莉ちゃん、社長が――』
早苗の切迫した声が聞こえてきた。
父が倒れたという報せだった。
「お父さんが……」
光莉は頭が真っ白になった。
「わかった。すぐに帰るわ」
光莉はホテルの部屋の荷物を急いでまとめてチェックアウトを済ませる。それから駅の時間を確認し、ロータリーに止まっていたタクシーに手を挙げた。
移動しやすいようにスニーカーに履き替えていた光莉は、腕に抱えていたパンプスの片方が転がっていったことに、このときまったく気付いていなかった。
それが誰の手に渡っていたのかも――。
「山谷、光莉――」