さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす

 二週間後――。
 大豪邸を目の前にした光莉は思わず息を呑 んだ。
 地元の金沢にも立派な屋敷や文化遺産の街並みが並んでいるし、東京に暮らしていたときだってそれなりに立派な邸宅を見たことはあったけれど、豪邸と呼んでいいのはここくらいのような気がしてしまう。ひとつお城といってもいいくらいだ。それくらい圧巻の造りだった。
 経済界を動かす常盤グループCEOが当主を務める由緒正しい家柄の常盤家。そのご子息との政略結婚。つまり、光莉はこれからここの長男の妻という立場になるのだ。
 開いた門の先には整備された池と噴水があり、迎賓館のような大邸宅の奥にさらに敷地があり、そちらには歴史を感じさせる武家屋敷が佇んでいた。
 これだけ広い敷地と建物では、きっと使用人も多数召し抱えていることだろう。
(本当に私なんかに務まるの――?)
 覚悟を決めたつもりになっていただけだったかもしれない。考えが甘いと誰かに指摘されてもおかしくはない。
(けれど、他に選択肢なんてないじゃない。後戻りなんてもうできないんだわ)
 光莉は律樹と共に幸雄の病室を訪れたときのことを思い浮かべていた。

『結婚だって?』
 以前に比べて顔色がよくなっていた幸雄の様子を窺い、光莉は父に報告することにしたのだが、いきなり一緒に現れた律樹を見て、幸雄は表情を硬くした。
『君は……』
 父が表情を変えた理由を、光莉はすぐに察知した。以前に、父が何かを言いかけていたのは、会社が傾いていること、そして政略結婚のことを、光莉に相談したかったのだろう。父はすでに政略結婚のことを知っていたのだ。
 父が気に病んでしまわないように、事前に律樹と打ち合わせしたとおりに、光莉は演じた。
『彼が以前、うちを建て直す代わりに私との結婚を持ち掛けたことは聞いたわ。でも、心を決めたのはそのためじゃないの。親身に相談に乗ってもらっているうちに、彼のことを頼もしいと思ったの。それで、ふたりで話し合って、結婚することに決めたのよ』
『いや。やはり、こんなことはだめだ。娘をやるわけにはいかない。亡くなった母さんだって悲しむ。考え直してくれ』
 幸雄はベッドから起き上がる勢いで、光莉のことを庇おうとしてくれていた。
『違うのよ。お父さん、私がよく話をしていた、りっちゃんのこと、覚えているでしょう?』
『それは彼の口からも聞いた。条件付きの結婚とはいえ、光莉を……大事にすると。そう言ってくれたね?』
 幸雄は縋るような目で律樹を見た。一方、光莉は驚いて律樹の様子を窺った。そんなふうに伝えていたなんて彼は一言も言っていなかったのに。そして、懲りもせず、彼の言葉に期待しそうになる自分の感情を、光莉はぐっと抑え込んだ。
『はい』
 律樹は表情を変えず、そして言い淀むことなく、幸雄をまっすぐに見る。傍目から見れば、真剣さが伝わってくる気迫に溢れていた。
『光莉は、彼を信じるのか? それでいいのか?』
 複雑な感情を押し殺し、光莉は頷く。
『こういう形だったけれど、私は……りっちゃんのことが好きだったし、もちろん昔と今ではお互いに変わったこともあるけれど、でも、久しぶりに話をしたらやっぱりお互いに気が合って、何回か会ううちに、彼と結婚したいって思ったのよ。さっき伝えたことは本当よ』
 半分は本心だが、内心後ろめたさを感じて表情を強張らせてしまった光莉の代わりに律樹が前に出た。
『僕も同じ気持ちです。光莉さんを……愛しています。今では一日も早く結婚したいと思っているんです。光莉さんのことは僕が幸せにしますから、どうか僕に任せてください』
『そうか……お父さんはてっきり……』
 幸雄を安心させるために、光莉はわざとらしいくらい明るく振る舞った。
『そういうことなの。だから、お父さん、早く元気になってね』
 幸雄は複雑そうな表情を浮かべながらも、ホッと胸を撫で下ろし、寂しげに微笑んだ。
『光莉がそう言うのなら。ふたりで決めたことなら……』
『そうよ。だから、お父さんが気にする必要なんてないのよ』
『……ありがとう、光莉。律樹くんも、ありがとう。どうか、娘を幸せにしてほしい』
『はい、もちろんです』
『光莉も、必ず幸せになるんだよ。おまえには、誰よりも幸せになる権利があるんだ』
 父の手の温もりが強く、光莉の胸にまで届いた。本心を隠して笑顔で頷いた。
 お互いに気が合ってなんて嘘。結婚したいだなんて嘘。愛し合ってなんていない。律樹に嘘をつかせたのは光莉なのに、彼の嘘に傷つきながら、父を騙していることに胸がちくちくした。一週間後、検査を終えて自宅で療養することになったあとも、結婚の話をするたびに申し訳ない気持ちだった。

 江戸時代から続く名家・常盤家の慣習では、まずは数ヶ月、本家に滞在し花嫁修業をするらしい。それを終えたら挙式を行うことになっている、と告げ、簡単に荷造りをして東京へ出てきた。別れの挨拶もそこそこにさっさと去って行った娘のことを、幸雄は今どんな気持ちで想っていてくれるだろう。信じてくれていることを願うしかない。
「光莉」
 名前を呼ばれてハッとする。
 律樹が肩を抱こうとする。光莉はとっさに身を強張らせた。それが伝わったらしい。彼は手を引っ込め、その代わりに光莉の手を引いた。
「緊張しているのか? あれほど威勢がよかったのに、今は借りてきた猫みたいだな」
 揶揄するように言われて 、光莉はついムッとする。
「それは、あたりまえよ。私は一般家庭で育ったわけだし、初めてお会いするわけだし」
「心配するな。顔合わせの挨拶をしたら、今日はそれで終わりだ」
「……うん」
 そういえば、律樹だって元は一般家庭だったのだ。母親が亡くなったあと、この家に連れてこられたときの気持ちはどんなものだったのだろう。
「何か気になることがあれば言えばいい」
「りっちゃ……律樹さんは、この家に入るときに怖くなかったの」
 封印した名前を呼んでしまいそうになり、光莉は慌てて言い直した。
「そんな場合じゃなかったからな。当時の俺に拒否権はなかった。それからは、世話になった分、恩返しのつもりで、常盤家の長男として父の期待に応えられるようにした。まぁ色々あったが……あっという間の時間だったよ」
「そう、でしょうね」
 常盤グループの中で地位を築くことがどれほど大変か実際のところはわからないが、並々ならぬ研鑽が必要だろうということは想像がつく。時間に追われるように、彼は努力を続けたに違いない。それこそ、人が変わってしまうくらいに。
「行くぞ」と促され、光莉は頷く。
 門が開き、長いアプローチを行くと、玄関の前で燕尾服を着た男性が待機していた。
「おかえりなさいませ」
 律樹に目配せをされ、光莉は頭を下げるだけに留める。彼は執事だろうか。これだけのお屋敷なのだから使用人の数も多くいることだろう。
 広々とした応接室に通されると、何名かがその場に集っていた。
 派手な化粧をした赤いワンピース姿の女性と薄い縁の眼鏡をかけた黒いスーツ姿の男性がそれぞれソファに座り、ドアの側にはメイド服を着た女性が数名控えていた。
「その子が、お義兄さんの婚約者? ふぅん。なんだか地味ね」
 ソファに座る派手な化粧をした赤いワンピース姿の女性が、品定めをするように光莉の頭のてっぺんからつま先へと視線を滑らせた。彼女は巻き髪が似合う瓜実顔の美人だが、美しい顔の下には冷たさが滲んでいるようだった。
「そうかな? 僕はなかなかの美人だと思うよ。ねえ、兄さん」
 眼鏡をかけたスーツ姿の男性は、切れ長の目をさらに細め、嫣然と微笑む。しかし目の奥が笑っているようには見えない。毛色の違う動物を観察するような好機の目で光莉を眺めているといった様子だ。
 光莉はいたたまれない気持ちで、身を硬くしていた。すると、律樹がそっと光莉の肩を抱いてくれた。
「そんな言い方は失礼だろう」
 律樹の手に力がこもる。彼の表情が険しい。
 意外な彼の行動に、光莉は驚いていた。彼自ら庇ってくれるとは思わなかった。
「いいか? 品定めするような目で彼女を見ないでくれ」
 律樹はそう釘を刺してから、彼らに光莉を紹介してくれた。
「彼女は、山谷光莉さん。俺の妻になる人だ」
「初めまして」
 光莉は即座に頭を下げた。そして、律樹が光莉の方を見る。
「光莉、弟の雄介(ゆうすけ)と、弟の妻、麻美(あさみ) さん」
「どうも」と雄介が光莉から目を逸らさずに言った。相変らず貼りつけたような微笑を浮かべながら。
「よろしく」
 と、麻美はそっけなく言った。彼女の声にも温もりは感じられない。
「よろしくお願いいたします」
 光莉は失礼がないように、せめて愛想よくしておこうと笑顔で挨拶をしたが、やはり反応は薄い。彼らはそのまま身じろぎすることなく見物をしている。心から歓迎してくれているといった様子はない。無論、そんなことは百も承知の上だけれど、胃がきりきり痛くなってくる。
「光莉」
「は、はい」
「向こうのふたり。執事の田中(たなか)に、メイド長の白井(しらい)。これから君の世話係になる人だ」
「本日はお目にかかれて光栄にございます」
 燕尾服の白髪の男性が恭しく頭を垂れる。その隣にいるメイド服を着た中年の女性が冷めた目でこちらを一瞥し、同様に頭を下げた。彼女を筆頭にならぶ年若い女性たちも揃って礼をとった。
「何かお困りのことがあればお声がけください」
「は、はい。よろしくお願いします」
 光莉は目が回るような思いで、彼らの名前と顔を記憶に留めようとするが、すぐには覚えきれないかもしれない。
「父さんは?」
 律樹が雄介に問いかけると、
「まもなく帰ってくるらしいよ。こんな日くらい早く帰ってきてもいいのにねえ」
 雄介が他人ごとのようにそっけなく言った。
「お義父様はあなたみたいに暇じゃないのよ」
 麻美が皮肉っぽく言って悪戯に微笑むと、雄介が口を挟んだ。
「聞き捨てならないな。誰が暇人だって?」
「あら。図星で怒るなんて、自覚があるようね」
「君のその可愛げのない態度はどうにかならないのかな」
 どうやら雄介と麻美の夫婦仲はあまりよくないらしい。気まずい空気が漂う。光莉は一層いたたまれない気持ちになる。
 律樹は辟易した顔をし、ため息をこぼした。
「夫婦喧嘩はあとにしてくれ」
「ごめんなさい。お義兄さんがそうおっしゃるなら」
「ふん」
 雄介が不機嫌に表情を歪め、鼻を鳴らす。ハラハラしていると、玄関の方から物音が聞こえてきた
「あら、噂をすれば。帰ってきたみたいね」
 麻美が言った。
 たちまち光莉は新たな緊張に身を包む。自然と背が伸びていた。
「――やあ、遅くなってすまないね」
 秘書を従えてやってきたのは、常盤家の当主、常盤修蔵(しゅうぞう)――。
 メディアで見たことがあるけれど、実際に目の前にすると、その威厳に気圧されてしまう。
「お忙しいところ時間を作ってもらってすみません」
 律樹はかしこまったように言った。親子の間にどことなく距離が感じられる。少なくとも、光莉と幸雄のような親しい親子関係ではないのだろう。
「構わないよ。それで、山谷食品社長のご息女というのは貴方のことかな?」
「は、はい」
「よくぞ、ご決心されましたね」
 もう何度目かわからない品定めの視線。けれど、修蔵はすべてを語らないまでも、その一言で、光莉の内心を裸にしてしまう迫力があった。すべてを見透かされてしまいそうな、彼の眼光の強さにぎくりとする。
「……っ」
「そんなに萎縮しないでくださいよ。我々はあなたを歓迎するために集まったのですから」
 両手を大仰に広げ、修蔵は目尻に皺を刻む。麻美と雄介はそれぞれそっぽを向いている。さっきの喧嘩で夫婦間には冷たい溝ができてしまっている様子だ。修蔵も何かを察したようだが、あえて指摘はしなかった。
「……ありがとうございます」
 粛々と、光莉は修蔵の言葉をただ受け止めることにした。
「ただ――」
 と、修蔵が声のトーンをさげた。
「うちに入るからには、相応の覚悟と、教養を磨いてもらわねばならない。以前のように自由に振る舞える とは思わないように。それだけは理解していただきたい。いいかね」
 見下すような、そして射貫くような視線に、光莉は息をのんだ。粗相があれば、即座に切りつけられてもおかしくないような鋭い眼差しだった。
「父さん、光莉のことは俺に任せてもらえませんか。今後は――」
 庇い立てるように律樹が一歩前に出ると、修蔵は面倒くさそうに頷く。
「ああ、皆まで言わないでいい。もちろん、私が逐一口を挟む気はないよ。おまえが次期当主としての自覚を持ち、仕事を疎かにしない限りはね」
「はい。心得ております」
「ならば、よろしい。ああ、結婚式についてだが、自由に決めて構わない。私の提案としては、このような状況なのだから、あえて盛大にする必要もなかろう……ということだ。どうかね?」
 このような状況……つまりは、政略結婚のこと。光莉は小さく手をきゅっと握りしめる。
「そのつもりですが、光莉の希望も聞いた上で、よく相談します」
 律樹が一旦光莉の方を見てから、修蔵へ告げた。
「ああ。話はそれだけでいいかな。悪いが、私は忙しい身なのでね。これからまたすぐに出なければならないんだ」
 後方で待機していた秘書へと、修蔵が手を上げて合図を送る。
「では、行こうか」
「もう? 食事くらいしていけばいいのに」
 雄介がぽつりと呟く。父に意見したことを修蔵に見咎められると、雄介は慌てて咳払いをする。
「私たち、お義父様とお食事ができるのを楽しみにしていたんですよ」
 麻美がちらりと光莉の方を見ながら残念そうに言った。彼女の声には媚びるような色がある。
「おまえたちでゆっくり過ごすといい。きょうだい、そして夫婦水入らずでね」
 修蔵はそう言うと、控えさせていた秘書らしき男性と共に外へ出て行ってしまった。
 再び邸の中に静寂が訪れる。最初に口火を切ったのは麻美だった。
「さあて、お義父様も出かけたし、私もちょっと出かけてくるわ。予約していたブティックに連絡しなくちゃ」
「僕も忙しい身なので。これにて失礼するよ」
 雄介は仏頂面を下げたまま眼鏡のテンプルを押し上げ、その場から立ち上がった。
「それじゃあ、お義兄さん方、ごゆっくり」
 麻美は冷めた笑顔を浮かべ、それから踵を返した。
 残されたのは律樹と光莉だけだった。どうしていいかわからず律樹を見上げると、彼は肩を竦めてみせた。
「俺たちふたりだけ、か。この家なんてそんなものさ。まあ、一応、気を利かせてもらったということにしようか」
「あの、麻美さんと雄介さんは……いつもあんな感じなの……?」
「ああ。そうだね。あのふたりは数年前、父が用意した見合いで出会った。雄介は俺の腹違いの弟で、年齢はひとつ下なんだが、父の目に映りたいがために言いなりな節があってね。父の機嫌を損ねないように承諾しただけ。麻美さんは財産目当てで常盤家にきた人だから、自分の地位を守ることに一所懸命なだけ。ふたりが仲良くする理由もないし、無論、俺たちと仲良くしようだなんて気はさらさらないだろう。君が気にする必要はないよ」
 気にする必要はないというその言葉は、律樹なりの思いやりだと思って素直に受け止めていいのだろうか。光莉は何も言葉にならず、小さくため息をついた。既に前途多難を極めている気がしてならない。
「どうぞ、こちらへ」
 食堂に案内され、律樹と光莉は部屋を移動する。
 歓迎されるとは思っていなかったけれど、改めて突き付けられる事実に心が凍り付いてしまい、表情筋がうまく動かない。
 察したらしい律樹が、光莉の椅子を引いてくれた。
「唯一自慢できることとしたら、うちで雇っているシェフの腕が確かだっていうことだ。せっかくだから食べるといい」
「え、ええ」
 光莉は言われるがまま椅子に座って、それから律樹とテーブルを挟んで向かい合った。
 用意されている食器やカトラリー類はきっと高級なものに違いない。次から次へと運ばれてくる、一流のシェフが腕を振るったという料理はとても素晴らしい。
 けれど、うまく喉を通っていかないし、味もあまりわからない。
 光莉はとうとうフォークとナイフを置いてしまった。
「ごめんなさい。せっかくだけれど」
「口に合わなかったかな。慣れるのは大変だろうが……」
 と、律樹が口を開きかけたとき。
「そうじゃないの。気持ちの問題よ。たとえ契約的な結婚だとしても、嫁ぐからには家の人たちとうまくやっていきたい思うじゃない。でも、それ以前の話なんだなって思ったら、少しだけ不安になったの」
 光莉は素直に伝えた。
 情けない姿はもうとっくに見られている。今さら彼の前で取り繕ったって仕方ない。むしろ、これから光莉が自分の意見を伝えられるのは律樹だけかもしれないのだ。
 ここは囚われの箱庭――。
「光莉、これだけは覚えておいてほしい。俺はずっと君の味方だから」
 律樹の言葉に、光莉は弾かれたように顔を上げ、信じられない目で彼を見た。
 光莉の胡乱な視線を感じたからか、律樹はとっさに口を突いて出てしまったことを悔いているようだった。
「君にどんなふうに思われているかなんて、俺が一番わかっている。君のその顔を見ればね。政略結婚を強いることでしか、君を守れない俺を、心の底から憎んでくれたって構わない」
 当然のように従わせたくせに、どうしてそんなふうに苦しそうな顔をするのだろう。
 光莉は喉元まで出かかった彼への恨み言をどう消化していいかわからず結局のみ込んでしまう。彼は強引なやり口だったが、それでも光莉を守ってくれたことには違いない。憤りをぶつける相手は、彼ではない気がした。
「私は、今のあなたのことがよくわからない。理解できない部分もあるわ。でも、昔のことがなかったものだともまったくの幻だったとも思わない。ただ、現実を見なくちゃいけないことだけはわかった」
「光莉……」
 律樹は何か言葉を選ぼうとしている。彼の瞳の奥に揺らぎが走った。
 光莉はすうっと深呼吸をし、肩の荷を下ろす 。
「律樹さん、あなたのことをもっと知りたいと思う。結婚すると決めた以上、今のあなたのことをわからないままでいたくないから」
「君は、そういう人だったな」
 ふわりと、柔らかな微笑みを向けられ、光莉は目を奪われた。
 一瞬だけ、あの頃のことが蘇り、胸が甘く締めつけられる。
 いつか彼を許して、昔のように、彼を心から信頼できる日が来るだろうか。
 彼の今を知りたい。その想いがよりいっそう強まるのを感じていた。
「このあとだが、婚姻届けに判を押してくれ。父との約束なんだ」
「……わかった」
 律樹と共に彼の書斎へと行き、光莉は婚姻届けにサインと判を押した。
「これは、俺が預かっておく」
 光莉は脳裏に父のことを思い浮かべながら、頷いた。
 それから、律樹は書斎を出ると、邸の中をひと通り案内してくれた。
 応接室、大広間、茶室、離れの庭や池、弟夫婦の部屋、光莉が住むことになる部屋――。
「夫婦の寝室は一応ここ」
 一応、という言葉に光莉は照れる間もなかった。形だけの夫婦なのだから、そういうことはないのだろう。
「あとは暮らしているうちに、慣れていくだろう。わからないことがあれば執事の田中やメイド長の白井に声をかけるといい」
「私がすることは?」
 掃除や洗濯や料理といったことはすべて使用人がしてしまう。
「父さんが言っていたように、君には常盤家長男の妻として相応しく振る舞ってもらうこと……といっても、色々あるから、それは追々ということにしよう」
 改めて光莉は現実を受け止める。
 ここが新しい自分の城――。
 もう後戻りすることなんてできない。
 山谷光莉は、山谷食品の名前を守るために、その名前を捨てた。これからは、常盤光莉として生きていくしかないのだから。 

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