さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
「ねえ、光莉さん。あなたに女主人の代わりが務まるかしらね」
光莉が常盤家に入ってからちょうど一週間が経過し、十月半ばを迎える頃――。
朝支度を済ませてリビングに顔を覗かせると、ばったり会った麻美にいきなりそんなことを言われた。麻美はいつも美貌を活かした派手な衣装に身を包んでいる。それが彼女の自信の表れのように見えた。
常盤家には現当主の妻は存在しない。本妻とは離婚、そして既に亡くなっている。また、パーティー会場で耳にしたとおり、律樹の母や異母弟である雄介の母は愛人であるため、この家には入れてもらえず、それぞれ疎遠になっているらしい。
つまり次期当主候補筆頭の律樹の妻である光莉には、女主人の役割を期待されているといっても過言ではない。
実は今日の十一時頃、常盤家が昔から親しくしている佐川(さがわ)家当主の妻である貴美子(きみこ)と有名私立中学に通う十四歳の娘・麗華(れいか)が遊びに来る。おもてなしは顔見せも兼ねて、律樹と光莉に任されることになったのだ。
常盤家に入って以来、光莉は、花嫁教育の一環として、華道や茶道、日本舞踊といった習い事や各々作法について学んでいた。今日は光莉にとって、常盤家長男の妻として初めての公の場ともいえるだろう。
麻美の嫣然とした微笑みには、あなたにできっこないという見下した空気が含まれていた。無論、麻美は四年前にこの家に嫁いでいる。義妹とはいえ、彼女の方がひとつ年上だし、光莉の先輩には違いない。
一週間で情報収集して見えてきたのだが、雄介が麻美とのお見合い結婚を決めたのは、修蔵の言いなりになる一方、律樹よりも先に妻を迎えることで常盤家の跡継ぎ候補のひとりであることをアピールしたかった側面もあったようだ。雄介とは不仲の麻美だが、地位を守るのに必死だという点では夫婦の目的は揃っている。だからこそ、律樹と光莉の存在は目の上のたんこぶなのかもしれない。疎ましく思っている空気が伝わってくる。
(つい、むきになって、私にできる精一杯をやらせていただきます……って言っちゃったけど)
「はぁ」
光莉は私室の姿見を前に、ため息をついた。今の自分は何も持たない、ただのお飾りだ。否、お飾りにすらなれていないただの居候。たった一週間の間に、数々のことが詰め込まれたため、今にも頭がパンクしそうだ。花嫁修業という名目でのスパルタ教育とはこのことではないかと思った。
プレッシャーに胃が痛くなり、光莉は無意識に腹部をさすった。
麻美は以前、夫の雄介を暇人扱いしていたけれど、彼女の方がよほど暇を持て余している様子だ。家に外商を呼んで派手に散財しては、連日どこかのパーティーに出かけている。麻美は会社のために必要なことなのよ、などと言い張っているけれど、彼女の出かける支度に振り回されたり怒鳴られたりしている使用人達の姿を何度も目にしている。そのたび光莉は麻美に気付かれないようにこっそり彼らの手伝いをしたものだ。
雄介と不仲なだけではなく、夫が当主から目をかけられておらず、自分の地位が揺らぐのではないかと危惧しているからか、光莉に対するあたりが強い。雄介が不在のときは、光莉を憂さ晴らしのための新しい玩具のように思っている節がある。きっと彼女は今日もまた物見遊山に行くような気分で、光莉に恥をかかせて嘲笑うつもりなのだろう。
光莉にだって羞恥心というものはあるけれど、別に自分が恥をかいたからといって何か失うものがあるわけじゃない、と心に留めておくことにした。
ふと、光莉は父の幸雄のことを思い浮かべた。昨日、幸雄からの着信を折り返したときのこと。
『体調は安定していて、元気にやっているよ。会社の方も川岸が社長代理として色々とやってくれてね。本当に頼もしいよ。光莉のつまみ食い姿が見られないのは寂しいものだが』
父の声は朗らかだった。入院していたときのような弱弱しさは感じられない。
当初、合併後は東京に機能を移すという計画ではあったものの、 律樹が尽力してくれた結果、最終的に会社も工場もそのまま残すという話になったのだ。
「つまみ食いってひどいわね。試食でしょう?」
『はは。悪い、悪い。前に光莉が推してくれていた商品開発の件も協力企業が増えてね、順調に進められそうだということだよ』
「そう、それはよかった」
幸雄には何も打ち明けられない。ただ、問題が何もなく過ごせているのなら幸いだ。きちんと根回しをしておくと言ってくれた律樹の言葉に嘘はないらしい。山谷食品の経営が軌道修正できるよう彼が担当者としてパイプ役になってくれているようだ。それだけでも救いだと、光莉はホッと胸を撫で下ろす。
無論、川岸にだけは光莉の事情を伝えてある。絶対に幸雄には知らせないようにという約束で。
何となくよそよそしさが伝わったのか、『光莉は幸せなのか』と何度も尋ねられた。
「幸せよ。元気にやっているから心配しないで。そのうち、顔を出すから」
そのうち……というのが、いつになるかはわからない。これは政略結婚だから。光莉には選ぶ意思があっても自由はない。
数年後……と曖昧に濁していた律樹の言葉からもすんなりと金沢に帰してはくれないことを察していた。古いしきたりを尊ぶ名家に嫁ぐとは、そういうことだ。
父を安心させたくて律樹との恋愛結婚を偽装することを思いついたけれど、本当のことを言えずにいたことが正解なのかどうかはまだわからない。いつまでも罪悪感に囚われてしまうし、簡単には金沢に戻れないことへの寂寞感にたまらない気持ちになるのだ。
(ごめんね。お父さん……これが今の私にできる唯一の守り方なんだよ)
父が精一杯守ってきてくれたように、光莉にも守らなければならないことがあるのだ。複雑な気持ちではあるけれど、もちろん幸せだと答えるしかない。
(私は私にできることをしなくちゃ)
年若いご令嬢との交流ということもあり、今日は着物ではなく清楚なワンピースで動きやすい服装を選んだ。ここ最近は着物姿でいることが多かったので、それだけは少し楽ちんで助かった。
「光莉、いい?」
ノックの音と共に、律樹の声が届いた。
「え、ええ。どうぞ」
光莉は慌てて髪を手櫛で整え、彼の方へ振り向いた。なるべく言葉遣いも丁寧に、淑やかに心がけなければならない。
「大丈夫か? 緊張しているようだけど」
律樹が慮ってくれる空気を感じて、光莉は小さくため息をついた。
「緊張しないわけがないわ。律樹さんはここに来てすぐに慣れた?」
「前にも言っただろ。すぐに慣れるしかなかった」
困ったように律樹は微笑む。そういう些細な表情に思わず過去の彼を重ねそうになり、光莉は慌てて記憶にシャッターを下ろし、現実へと目を向けた。
「じゃあ、私もそうするしかないよね。習うより慣れろというし」
何かを言いたげな律樹を尻目に、光莉はふわりと表情を作ってみせた。空元気ついでに来客用の笑顔の練習のつもりだった。
「こんな感じでいいかしら」
律樹が一瞬固まってしまったのを見て、光莉はたちまち気恥ずかしくなってしまった。
「そ、そんなにひどい?」
「ああ、いや。もう少し自然でいい。へたに取り繕っても子どもにはすぐに見透かされるだろう。いい見本がいるよ。麻美さんは子どもにあまり好かれない」
今、律樹がさらっとひどいことを言った気がしたけれど、なおさら麻美が光莉に突っかかってくる理由が分かった気がする。
思わず「たしかに」と頷いてしまった。
「そんなに気負わなくていい」
「え?」
「君の側には俺がいる」
澄んだ瞳を向けられ、光莉は息を呑んだ。
「……っ」
「君は君のままでいい。それが正解だ」
律樹の言葉にときめいてしまい、光莉はとっさに彼から目を逸らした。
「う、うん……」
「困ったことがあれば、俺がフォローするから」
頼もしい彼の言葉に、不覚にも胸の内側がきゅんと音を立てる。鼓動が騒がしい。息をするのが苦しいくらいだ。ざわざわと身体が熱くなっていくのを感じる。
(びっくりした……反則じゃないの)
政略結婚を強いたのは目の前の彼なのに、平気で好きだとか愛しているとか嘘でいくらでも言える人なのに、そんな彼に簡単に絆されそうになる自分が嫌になる。
「行こう」と手を握られ、一瞬たじろぐものの、甘やかす目で見られては邪険にできない。政略結婚という形にがんじがらめになっていた光莉は、たまにこうして律樹に毒気を抜かれてしまう。
(こういうところ、調子が狂うのよね)
照れが先だってしまい、握り返すこともできず、指先さえ動かすこともはばかられて、結局、律樹に連れていかれるまま、光莉は彼と共にゲストを出迎えにいくのだった。
貴美子と麗華を迎え入れたあと、光莉は律樹と共に各々自己紹介した。
彼女たち親子の艶やかに手入れされた髪、上品な所作や立ち居振る舞いからは、やんごとない家柄らしいオーラが漂い、息を呑むように圧倒された。話し方や声色にも気品があった。
親子でお揃いにしたという清楚な白いワンピースもきっとハイブランドのものなのだろう。美しさや愛らしさをよりいっそう引き立て、ふたりにとても似合っている。
緊張に身を包みながら彼女たちを迎えたあとは、庭園でアフタヌーンティーを愉しむことになった。
律樹が言ってくれたとおり、自然体で接したことが功を奏したらしい。「まだ嫁いできたばかりで……」という言葉はしばらくの間は武器になるかもしれない。実際、そのとおりで、常盤家とゲストの繋がりなど詳しいことはわからない。光莉はとにかく粗相のないように気をつけるだけだ。
甘いものに目がない麗華のおかげで好きなケーキの話で盛り上がったのが幸いだった。そうして菓子やケーキを紅茶と共に堪能したあと、先日コンクールで優勝をしたという麗華のピアノを披露してもらい、順調に和やかな時間が過ぎていくと思われたときだった。
「そうそう、光莉さんもピアノは小さな頃から習っていたのよね」
何曲か披露してくれた麗華に拍手を送ったあと、いきなり麻美がそう言い出し、光莉はたじろいだ。
「まぁ。ぜひ聴かせていただきたいわ。ねえ、おねえさまお願い」
ごきげんな麗華はすっかりその気になって光莉の手を握って引っ張った。
「まあまあ、麗華ったら。すっかり光莉さんを気に入ったのね」
貴美子が愛娘のはしゃいだ様子に頬を緩め、親しみを込めて光莉を見る。
これは大変困ったことになった。
大事な来客にねだられてしまえば、無下にすることはできない。きらきらとした期待の目で見られ、即座に断るわけにはいかなくなってしまった。
ピアノは弾いたことがない。ピアノのレッスンもするべきだっただろうか。水を差すかもしれないけれど、正直に伝えた方がいいだろうか。
焦っている光莉をよそに、律樹がおもむろにピアノの後方の台に置いてあったヴァイオリンケースを開いた。
「せっかく麗華様が素晴らしいピアノを弾いてくださったのですから、光莉はヴァイオリンを弾いてみたらどうかな」
律樹が目配せをする。光莉はハッとした。
小学生の頃、光莉はヴァイオリン教室に通っていたことがある。少しの間だったけれど、律樹も一緒に習っていた。先生の都合で教室がなくなったあとも、光莉は気に入った曲が弾けるまで練習していたものだった。
「えっと、たしかに、ヴァイオリンの方がいいかもしれませんね」
律樹がヴァイオリンを手渡してくれ、光莉はそっとそれを受けとった。しかし内心は心臓が激しく暴れていた。
学生のとき以来ずっと触れていないのに、すんなりできるとは思えない。
緊張に身を包みながら、光莉は馴染みのある曲をいくつか頭の中に思い浮かべる。やはりクラシック曲はマストだろう。
ちゃんと音が出せるか不安で、手が震えてきてしまう。
「素敵なヴァイオリンね。もしかしてストラディバリウスの中でも最高峰のものではないかしら」
貴美子が感心したように言うと、麗華も釘付けになる。律樹が片目を閉じるので、光莉はつられたように頷く。
ストラディバリウスについては知識だけはある。ヴァイオリンの中の名器といわれるストラディバリウスのヴァイオリンは何億も値が付くことがある最高峰の楽器だ。富豪が老舗楽器商から仕入れる、或いは資産家や公益財団が保有するものをヴァイオリニストに貸し出すらしい。
それほど貴重で高価なものを腕に抱いているという緊張感がさらに追加され、光莉は身震いをした。
当然、習い事で使っていたヴァイオリンはそんな立派なものではない。玩具とまではいかないが、そこそこのものだ。
光莉の頭の中に譜面が自然と浮かんだ。忘れてしまわないように、余計なことはそれ以上考えないようにする。大丈夫。あの曲だったら弾けるはず。落ち着いて、落ち着いて、と心の中で唱えた。
「すてき。私もヴァイオリン習いたいわ。ねえ、お母様」
麗華はすっかり目を輝かせている。
「麗華、まずは光莉さんの演奏を聴かせてもらいましょう」
「はい。お母様」
光莉は鎖骨から左肩へヴァイオリンを乗せ、そっとやさしく腕の中におさめると、構えの姿勢を整え、深呼吸した。
かの有名なエドワード・エルガー作曲の『愛の挨拶』の譜面を頭の中に思い浮かべ、弓をゆっくり滑らせていく。
ひと呼吸のあと、甘い音色が奏でられるイメージ――のはずだった。
しかしギギィと猫が爪で掻いたような不快音が響き、その場にいた面々が一斉に顔をしかめる。
「あ、あれ。おかしいな」
とっさに素で心の声が漏れた。はしたないとか構っていられる余裕はなかった。
楽器に触れるのが久しぶりだとしても、こんなはずではなかった。緊張や混乱するほどますますパニックになってしまう。
うしろ の方で見物していた麻美がくすくすと笑っている。ここぞとばかりに身を乗り出してきた。
「もう、光莉さんったら。どうしてしまったの。本当にお上手ねえ。ひょっとして、これは何か特別な余興なのかしら」
彼女の嫌味にはもう慣れてしまった。それよりも先ほどまで表情を輝かせていたご令嬢に失望した目を向けられるのは、なんだかとても心苦しかった。母親の貴美子さんも想定外だったらしく微妙な表情を浮かべている。これでは、律樹としても立つ瀬がないことだろう。
「余興、かもしれませんね」
律樹がひと言添えてから、光莉の側に寄り添った。
「貸してごらん。震えているんだ。緊張してるだけだよ。僕がサポートしてあげるから」
そう言い、律樹が光莉をうしろから抱きしめるような体勢で、左手でヴァイオリンを支え、右手を握って弓を動かしはじめた。
「力を抜いて」
耳のうしろに低い声が響く。思わず弓を落としてしまいそうだった。そのまま律樹に操られるまま光莉は彼に身を委ねた。ゲストの手前ということもあるのかもしれないが、今の律樹は、昔の律樹みたいだ。物腰が穏やかな雰囲気はさながら王子様のようだった。
「……っ」
想像していた以上の、美しい音色が奏でられる。
耳が熱い。うしろに感じる律樹の存在感に意識がとられてしまいそうになる。一緒に動かした腕や手に痺れさえ感じてしまう。頭が真っ白に染まりかけそうになり、光莉は必死に集中しようとするので精一杯だった。
「素敵」
令嬢からため息がこぼれる。彼女が見ているのはヴァイオリンかそれとも律樹か。その両方か。きっと光莉のことは見えていないかもしれない。そして光莉自身も、ヴァイオリンと一体になりながら、律樹のことを感じていた。
初恋の記憶は封印するのだと、そう決めたはずなのに、何かの弾みにこぼれてきそうになる。彼にとっては、当主との交換条件で政略結婚を望んだだけ。そして、できたら旧友である光莉を助けたいと思ってくれた。ただそれだけのことなのに。勝手に、自分の都合のいい方に考えてしまいたくなる。
不意に視線が絡んで、光莉の頬に火が灯った。すると伏し目がちだった彼の目が少し大きく開かれ、その弓を止めそうになる。彼の頬も心なしか朱に染まる。再会してから初めて見る表情だった。
そんな顔を見たら、期待してしまいそうになる。彼の心が、少しでも光莉を見てくれているのではないか、と。そうでないなら、今こそが夢の続きなのかもしれないとさえ思った。
「まあ」
「見ているこちらが照れてしまいますわね」
麗華と貴美子が親子揃って頬を染めていた。一方、麻美は険しい表情で口惜しそうにこちらを睨んでいた。
そんな光景すらもすぐに吹き飛んでしまいそうなほど、光莉は全神経で律樹のことを感じていた。
心だけはどうしても抗えない。その証拠といわんばかりに、早い鼓動は音色が止まったあともずっと奏でられたままだった。
「――おねえさま、また一緒に演奏しましょうね」
律樹のフォローで感覚を取り戻した光莉は、麗華と一緒に簡単なデュオ曲を演奏した。
麗華に握手を求められ、光莉は笑顔で応じる。
「はい。麗華様に負けないように、もっと練習しておきますね」
「ええ、約束よ」
指を差しだされ、光莉はその華奢な指に自分の指をそっと絡めた。
「まあまあ、仲良くしてくださって、とても素敵な時間をありがとうございました」
貴美子が朗らかに笑顔をたたえ、麗華の手を握った。
「こちらこそ、またいつでもお越しください」
律樹が鷹揚に微笑み、光莉の肩を抱く。
運転手が控えていて、麗華と貴美子が乗り込み、邸の外へと出て行くまで見送る。
光莉は遠ざかっていく車を見ながら、ホッと胸を撫で下ろす。なんとか役目を終えられそうでよかった。そのまま脱力してしまいよろよろと座り込みたくなった。
光莉は改めて律樹に向き直った。
「律樹さん、さっきは色々……助けてくれてありがとう」
せめて素直にお礼は伝えたい。
「いや。別に俺はただ支えていただけだし。ヴァイオリン、あれからちゃんと弾けるようになっていたんだな」
昔もあまり上手ではなかったことを、律樹は思い出したのだろうか。微かに笑みを浮かべている彼の様子を見て、光莉は決まり悪くなる。たしかに律樹の方が上手だったし、彼もまた常盤家に入って常識のように演奏できるようになったのかもしれない。ふたりの間には色々なところで差が開いていたということだ。
「お小遣いを貯めて、練習用のヴァイオリンを買ったのよね。でも、どこかに仕舞ったままだわ。一時期、あんなに夢中になっていたのにね。曲だってすぐに思い出せなかった」
「そう。君さえよければ、いつでもレッスンには付き合うよ」
律樹の厚意を嬉しく思う一方、すんなり甘えてしまうのも違う気がして、
「麗華様との約束を破るわけにはいかないものね……そうしてもらってもいい?」
言い訳がましかったかもしれないけれど、そんなふうに告げた。律樹の奏でるヴァイオリンを聴いてみたかったというのが一番の本音かもしれない。
「ああ」と、律樹が穏やかに頷く。その表情がとてもやさしくて嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
少し前よりも律樹との距離を近くに感じられるようになり、光莉は胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
彼のことを知りたい。過去と今は違う。開いている差が簡単に埋められるとは思わないし、立場も身分も違う。
けれど、同じひとつ屋根の下にいる。今の律樹は光莉の夫だし、敵ではなく味方なのだ。それが、どれほど心強いことか。改めて光莉は彼を頼もしく思う。
自分も変わっていかなければ、嘆いても仕方ない。前途多難には違いないけれど、一歩ずつ前進していけたらいい。
このときの光莉は、まさに希望に満ちはじめている最中だった。
しかし一方で冷たい視線が注がれていることに気付く。庭園から麻美が面白くなさそうにこちらを睨んでいた。
光莉はあえて気付かないふりをして頭を下げた。麻美はふいっと顎を突き上げるように顔を逸らし、邸の中へと戻っていった。
知らないふりをしたとはいえ、ちょっとだけ気がかりだった。
「よかったのかな」
「麻美さんのことはあまり気にしない方がいい」
律樹がそう言うのなら、と光莉は無理矢理自分を納得させることにした。
邸の中にふたりして戻ると、武家屋敷風の別邸の方に、見たことのない作務衣姿の男性の姿が見えた。ひとりは白髪頭の中年の男性、もうひとりは癖のかかった茶髪の年若い男性だ。どうやら奥にある庭木を手入れしているらしい。
年若い男性がこちらの視線に気付き、振り向く。それから彼はふんわりと笑顔を咲かせ、頭を下げた。アイドルグループにいそうな童顔の、可愛い子犬系という感じだ。見た目の雰囲気からして、だいたい二十代前半くらいだろうか。なんとなく誰かに似ているように感じつつ、光莉は律樹に尋ねた。
「あの人たちは? 常盤家お抱えの……職人さん?」
使用人のことは全員紹介されたが、庭師は含まれていなかった。
律樹が振り向き、ああと頷く。少し複雑そうな表情を浮かべた彼に気付き、光莉は首を傾げた。
「一応、君には明かしておこうか。庭師の弟子……長澤(ながさわ)颯太(そうた)――彼は、俺の弟だ」
「え? 弟?」
弟がいたという話は聞いたことがない。
「異母兄弟さ」
光莉の脳内にはパーティー会場で聞いた『愛人の子』という言葉が再び浮かんでいた。
律樹と彼とはなんとなく雰囲気が似ているところがある。同じく異母弟だという雄介からはあまり感じなかったのに。似ている兄弟とそうでない兄弟がいるようなものだろうか。
「以前に勤めていたメイドとの間にできた子らしい。彼は常盤家の人間と距離を置きたがっている。庭師として仕事をして、あまり俺たちには近づかないんだ」
兄弟なのに仲良くできないなんて寂しいと光莉は思う。だが、彼らの関係性からすると、寂しささえ感じることのない距離感なのだろうか。律樹からは戸惑いの空気を感じる。引き取られてからずっとこの調子だったのだろうか。
(人懐っこそうな感じはするけど)
あまり触れない方がいい気がして、光莉はそれ以上の追及をやめた。
母親を亡くして引き取られた律樹にとって、父親が何人もの愛人に子どもを産ませていたことは複雑以外の何ものでもないに違いない。
かたや常盤の名前を押し付けられるままに受け入れ、かたや名前を与えられることを自ら拒んだ。やんごとなき一族の一員になった律樹と、庭師として仕え続ける颯太とではあまりにも対照的といえる。
しかし颯太が手を振り続けているのを無視するのはかわいそうに思えた。律樹はもう前を向いてしまい気付いていない様子だ。光莉はこっそり、颯太に手を振り返した。
この長澤颯太の存在は、今後、光莉に大きな影響を与えることになっていく。それをこのときの光莉はまだ知らなかった。