さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす

 十月末、光莉が嫁いでから二週間が経過したある日、常盤家主催の秋のお茶会が行われた。
 この日、律樹はやむを得ない出張で不在。光莉はひとり、朝から麻美にいつものごとく罵声を浴びせられながら準備に奔走し、ようやくお開きを迎えたのだが――。
(やっちゃったなぁ……)
 新聞紙に包んだ茶碗と熱を失った茶器の前で、光莉は項垂れていた。
 お茶会は終わったというのに着物や足袋を脱ぐ気にもなれず、ひとり裏庭に面した縁側に座り、ため息をつく。修蔵がコレクションとして大事にしていた茶碗だということをあとから知り、光莉は大変なショックを受けていた。修蔵がこのことをどう思うか。罰を与えられるのは自分だけでいい。律樹に咎がいかなければいいと願うしかない。

 振り返ること数時間前――。
 お茶会の事前準備というのは何かと忙しかった。季節や開催月によって茶室に用意する花や和菓子、茶碗などすべてが変わる。四季折々を感じながらお茶を戴くという伝統文化があるためだ。名家・常盤家では季節の変わり目には必ずお茶会を主催し、古くより付き合いのある大事な客人を招くことになっている。
 秋のお茶会がもうすぐだという話を聞いて、茶道およびお茶会の知識を深めようと日々勉強していた光莉だったが、付け焼刃では対応できるものではない。何をやればいいかわからず右往左往しがちなところ、麻美があれこれと光莉に指示を出してくれていたのは助かった。だが、麻美は口を出すだけで一緒に動いてはくれない。耳慣れない言葉だけで指示されたことすべてをこなすのは難しかった。時間に追われる中で、お茶会の時間は刻々と迫り、着物を着た客が集まりはじめていた。
『光莉さん、例の茶器は用意してくれたかしら?』
『こちらのお茶碗で間違いないでしょうか?』
『あなた何を聞いていたの? 今日は山菊のお茶碗といったでしょう。それは山茶花よ。山菊と山茶花の違いもわからないの? そっちよ、そっち』
 麻美が視線や顎で誘導する。さっき彼女にはたしかにこちらの茶碗だと言われたのに。腑に落ちないながらも、言い訳をすればまた何かを言われるだけなので、光莉は急いで別の茶器が入った木箱を手に持った。
『こちらで間違いないでしょうか?』
『ええ、そうよ。ほら……亭主が手ぶらでは困るでしょう。早く準備しないと。お客様をお待たせしているのよ』
 亭主というのは茶会における主催者のことで、この日は出張の律樹にかわって雄介が務めていた。だが、実際のところ、場を仕切っていたのは麻美だった。
 始まりの時間が近づくにつれて、だんだんと麻美の表情は険しくなっていく。光莉は焦っていたが、素人目から見てもわかる高級な茶器を手に取ると落とさないように大事に抱え、亭主である雄介の席へと運んだ。
 すると、雄介に手元にあった茶道具の一式を下げるように言われて運ぶことになる。客は茶室へと案内されはじめていた。
 茶器を手に廊下を戻っていると、正面から足早に麻美がやってくるのが見えた。到着した客を迎えに行くのだろうか。裏方仕事には一切手を動かないくせに、そういうところはちゃんとしている。感心してしまうくらいだ。
 麻美は光莉の姿を捉えると思いっきり顔をしかめる。
『茶碗ひとつ運ぶのにどれだけ時間がかかってるのよ! この、のろま女!』
 麻美がすれ違いざまに暴言を吐いた。
 嫌味は慣れているからぐっとこらえてその場から移動しようとしたのだが、そのとき光莉は麻美がすっと前に出した足に躓き、あっという間もなく派手に転倒してしまった。慌てて茶器を抱こうとしたが、間に合わなかった。悲鳴と共に割れた音が響き渡っていた 。
『お義父様の大切なものなのに。光莉さん、あなたはなんてことを!』
 麻美には散々貶され、参加した来客からは白い目を向けられた。針のむしろ状態の光莉は萎縮し、とうとう洗い場の方に追いやられてしまった。切ってしまった指先がじんじん痛む 。
『麻美さんはやはり華がありますわね。貫禄が違いますわ』
『ごめんなさい。いつもは光莉さんもあんな調子ではないのですけれど……まだ嫁いで間もないものですから。少し大目に見ていただけないかしら』
『まあ、麻美さんったらお優しいこと。麻美さんがそうおっしゃるならもちろんですわ』
 艶やかな着物を召したご婦人方、お嬢様方のセリフを思い出し、日頃の付き合い方がどれほど大切なのかを光莉は理解した。こういった社交や行事をこなしてきた麻美には敬意を感じずにはいられない。
 それでも、わざと意地悪をして場をかき乱した上に、やたら優越感に浸っている麻美のことを振り返ると、だんだんと苛立ち、最後にはげんなりしてしまった。
 そもそも麻美が足を引っかけなければ転んだり茶碗を割ったりすることなんてなかった。つまり、彼女はわざと光莉に恥をかかせたのだ。でも、それを証明してくれる人は誰もいない。
 割れた茶碗の 片付けを終えたあと、光莉は気合を入れ直した。できないこと以上にできることを増やしていけばいい。そう思ったのだ。麻美に指示を仰ごうとしたが、彼女は有頂天のあまりにお喋りに夢中になっていて、他に目が行き届いていない様子。仕方ないので、光莉は客人の見送りに備え、手伝いを必要としている人がいないか見渡した。
 そのとき、ひそひそと噂話が聞こえてきた。
「麻美さん、何よあれ。すっかり女主人のつもりでいるのかしら。品がなくて好きじゃないわ」
「雄介さんじゃどこか頼りないからかしらね。媚びを売るのに必死なのよ。やっぱり律樹さんじゃないと……」
 麻美に思うところがある人もいるらしい。しかし麻美は麻美でやるべきことをやっているのは事実。光莉はいやな気持になりそうだったので、それ以上は聞かなかったことにした。
 その傍ら、光莉は麻美の手の行き届かない部分をカバーすべく、足の悪い老婦人に手を貸し、着物を汚してしまった小さな令嬢の着替えを手伝い、なんとか裏方として支えようと必死に動いていたのだが、麻美には余計なことをするなと、怒られてしまった。
(結局、麻美さんは私が何をしても気に入らないのね)

 すべての片付けが終わり、お勝手口から縁側の方に回る。誰もいないのを確認したあと、光莉はそこに座り込み、ぼんやりと庭を見渡した。
 お茶会を催したのは枯山水が描かれた正面の庭。こちらはお客には見せない裏庭。
(私はこっちの方が落ち着くわ……)
 光莉はため息をつく。
 麻美が本格的に光莉に意地悪をしはじめたのは、この間、佐川貴美子と娘の麗華を招いた日以来だと思う。麻美は光莉が彼女らに気に入られたことがよっぽど気に入らなかったらしい。それ以来、ふたりにはお茶に招かれていて交流が続いているのだが、そのたびに麻美にはいつものように嫌味を吐かれている。
 こんなことなら、あのとき、麻美の思惑のまま、失敗していた方がよかったのだろうか。でも、そんなのは理不尽だ。屈したくない。光莉もだんだんと意地になっていたところがあるかもしれない。自分から折れた方が楽なこともあるというのに。
 けれど、失敗してもうまくいっても、どちらにしても、光莉が何をしても麻美は気に入らないのだから、結局はもうどうしようもない。
 金沢にいたときなら、早苗をはじめ工場のおばちゃん方に話を聞いてもらってすっきりしていたのに。今は誰とも話をすることができない。籠の中の鳥には自由がない。せいぜいバサバサと身じろぎするだけで、勝手に空へ飛ぶことは許されないのだ。
 にゃーという声が聞こえ、光莉は鳴き声の方を見る。縁側の下に二匹の猫が寄り添う姿が見えた。どこからか紛れ込んだのだろうか。かわいい、と目を細めるけれど、近づきたいのをぐっとがまんする。光莉は猫アレルギーなのだ。
 君たちもここにはいない方がいいよ、と心の中で囁く。聞こえたのか否か、猫はふらりといなくなってしまった。私も自由にどこかへ行けたらいいのに、ともう何度思ったかわからない。
「――はあ、疲れた。どうしたらいいっていうの」
 本音をこぼして空を仰いだときだった。
「そこのおねえさん」
 横からぬっと顔を覗き込まれ、光莉は飛び上がるほど驚いてきゃああっと声を上げてしまった。
「ごめん。おどかすつもりはなかったんだけど」
 ばつが悪そうに長い指先で頬をかいているのは、作務衣を着た庭師の弟子……長澤颯太だった。彼の背後にしょぼんとした子犬の尻尾が見えた気がした。
「こ、こちらこそ、ごめんなさい。もしかして、私、お仕事の邪魔をしてましたか?」
 ばくばく跳ねあがっている心拍数を感じつつ、光莉は彼に尋ねた。
「あ、そうじゃないよ。こっちも休憩でさ。あなたがものすごい寛いでいたのはわかった」
「こういうところが甘いのね、私」
 着物の裾から足を伸ばしていただらしない自分の居住まいを慌てて直し、光莉はますますきまりわるくなる。
「さっきの、俺、見てたよ」
「え?」
「おねえさんが、麻美さんに意地悪されてたところ」
 颯太は言って、光莉が座っている縁側の目の前にある岩に腰を下ろした。
「えっと、何かの勘違いでは」
「ごまかさなくたっていいよ。俺、ここにいる間に、一族の人のそういう部分見てきてるから」
 あっけらかんとしている颯太に、光莉はどう応えていいか戸惑った。もう彼にとっては慣れっこということだろうか。
「いい玩具になっちゃったんだね」
 憐れむように言われてしまい、光莉は肩を竦めた。
「そうだね」
 ため息ばかりこぼれてしまう。
「けど、負けてなかったじゃない。光莉さん、ナイスファイトだよ」
「そ、そうかな? あ、私の名前……」
「麻美さんが連呼するから覚えちゃったよ。ちなみに俺の名前は……まあ、聞いているだろうけど」
「う、うん。颯太くん、だよね」
 光莉は前に律樹から教えてもらった名前をそのまま口にする。
「正解」
 颯太が笑顔を向けるたびに、光莉はそわそわと落ち着かない気持ちになった。
「意外だな。あの人が選んだ相手があなたのような人なんて」
 颯太の言うあの人というのは聞くまでもなく律樹のことだ。
 律樹と颯太が異母兄弟であることは律樹の口から聞かされた。それを話題に出してもいいものだろうか。光莉の視線を感じとったのか、颯太が自虐気味に笑う。
「あの人に色々聞いてるんでしょ。遠慮しないでいいよ。俺、気にしてないから。この家の中に正当な血統書つきの犬なんて、ご当主様以外に存在しないしね。かえって一族に入って苦労する方が面倒だ。今の光莉さんみたいに」
「たしかに、これはこれでね」
「光莉さんも庭師になってみる?」
 まるで散歩にでも行く?と軽く誘うみたいに彼が言うので、光莉は苦笑する。
「なれるなら、なってみたいものね。でも、そう簡単な仕事じゃないでしょ。技術もセンスも体力もいる」
「まあ、そうだね。俺もまだまだ修行が必要だ。けど、いつかは親方みたいになりたいと思ってるよ」
 颯太は言ってから照れくさくなったのか、鼻の下を軽く指でこすった。そんな彼を見たら、光莉は自然と微笑んでいた。
「そっか。夢や目標は、生きる糧だものね」
「そ。だから、光莉さんも負けないで頑張ってよ。愚痴ならいつでも聞くからさ」
 光莉は目を丸くする。彼はわざわざそれを言いに声をかけてくれたのだろうか。颯太の気持ちが嬉しくて、光莉は頬を緩ませた。
「ありがとう」
 それじゃあと手を振る姿はやはり人懐っこい子犬のよう。なんとなく憎めないし和やかな気分になる。この邸の中で、たったひとつの癒しを見つけた気がした。

* * *

 翌日――。
「あら、光莉さん、随分と遅い起床なのねぇ」
 麻美の嫌味からはじまった日曜日の朝、光莉は彼女を無視してさっと身支度を整え、広い食堂でひとり黙々と食事を済ませた。とにかく彼女の目につくところにいなければいいのだ。
 しばらくすると、律樹が光莉の部屋を尋ねてきた。遅い時間に帰ってきたので、朝はゆっくり過ごすという話を彼から聞いていたのだが、何かあったのだろうか。
「これから少し、気晴らしに外に出ないか?」
「え、いいの?」
 光莉はたちまち目を輝かせた。
 光莉は基本的にひとりでの外出を許可されていない。大事なお使いや訪問などを許されるのは、女主人としての自覚や気質が認められてから、という習わしらしい。
「でも、律樹さん、昨日はだいぶ帰りが遅かったし、疲れているんじゃない?」
「せっかく仕事が休みのときくらい、光莉とゆっくり過ごしたいから」
 律樹が穏やかに微笑む。彼の気持ちを嬉しく思っていると、
「君のこと独り占めする時間が欲しい」
 飢えた獣が獲物を見るような、或いは番への求愛をするような、熱のこもった眼差しに射貫かれ、鼓動が脈を打つ。
「……っ!」
 律樹はたまにこうしてさらっと甘いことを言う。そのたびに光莉は動揺させられてしまう。どの口が平然とそんなことを言うのか、小一時間ばかり問い質したくなる。
(こういうところは、昔と変わらないのね)
 きっと独り占めするという言葉に深い意味なんてない。ただ言葉のチョイスが誤解を与える並びであるだけだと思う。
(うん、そうよね……そうじゃなきゃ、二重人格説が浮上するレベル)
 律樹は天然の人たらしなのだ。だから今の光莉みたいに彼から好意を向けられたと勘違いする女の子がたくさんいたし、光莉もよくやっかみにあったものだった。
 きっと一緒に過ごすうちに、政略結婚という冷たい言葉のフィルターが和らいで、律樹の心のバリアもほぐれはじめたのかもしれない。光莉も律樹に対して最初に抱いた警戒心は薄れ、彼に信頼を寄せはじめている。このお互いの距離感の変化は嬉しい誤算でもあった。
 光莉はまた過去のことを思い返した。
 小学生の頃、律樹は他の子に比べてひょろっとしていて手足が長く、髪の色は天然の茶色、瞳も色素の薄い色をしていたせいか、閉じられた学校の中で、異質なものを排除しようとする悪い慣習……いじめの対象になりがちだった。
 ある日も――。
『あんたたち、またりっちゃんをいじめてたの? 今日こそ絶対許さない んだから』
『わぁぁ、狂暴女がきたぞー! みんな逃げろ!』
『誰が狂暴女よ!』
 黒や青のランドセルを背負った男子が散り散りに逃げていく。ガキ大将とそのまわりにいた敵兵を追い払ってから、光莉は水たまりに転がっていた茶色のランドセルを持ち上げる。それから、光莉は転んで泥だらけになってしまった少年に手を差し伸べた。
『大丈夫? 水道で流しましょう。私、ハンカチ持ってるから! まったく、あいつら、本当にひどいんだから』
『……ひかりちゃん、いいのに、僕のことなんて放っておいて』
『私がいやなの。りっちゃんが、意地悪される理由なんてどこにもないじゃない。髪の色だって、瞳が薄いのだって個性じゃない』
 外人だ、異人だ、宇宙人だ、と男子が罵っているのを光莉は耳にした。明らかに差別で虐めだ。先生には相談したけれど、大人が必ずしも味方をしてくれるとは限らない。
『それだけじゃないよ。僕はあんまり活発じゃないし、人と接するのが得意じゃないし、読書している方が好きだから。それが気に入らないのかも』
『いいじゃない。趣味は人それぞれだし、私、りっちゃんの話を聞くの大好きよ。今日も、何か読んで聞かせてくれない?』
『……うん。君がいいなら』
『今日はなんていう本を読んでいるの?』
『最後の約束……っていう本』
 それは、幼なじみの男の子が実はあやかし……妖怪で、人ではなかったという話。長く生きているけれど、人に忘れられていくたびに寿命は縮まり、とうとう見えなくなってしまう。最後に会えたのが君でよかった、と告げて消えていく本だった。
 光莉は泥だらけのハンカチを握りしめ、ぼろぼろとこぼれた涙を拭いた。その傍らで、律樹の方が焦っていた。きっと泥がついて黒い涙を流している光莉に、律樹は困惑していたことだろう。
『そんなに泣くなんて思わなかったよ』
『だって……同じ人間だったらよかったのに。いなくなるなんて、二度と会えなくなるなんて、悲しいよ』
 光莉は律樹がもしもいなくなったら、と想像したら悲しくなってしまったのだ。多感な年ごろの想像力は心を揺り動かした。
『僕はありだと思うな。人間じゃなくても、二度と会えなくても、素敵な絆だと思ったから。たとえ見えなくなっても消えたとしても、いなくなるわけじゃないんだよ。ずっと心の中で魂は生き続けるんだよ。ずっと大事なまま、ふたりの宝物なんだよ』
 澄んだ瞳が揺れていた。彼の思慮深くやさしい心が好ましかった。彼が読書を好きな理由もわかった気がした。なおさら、彼がいじめられることを許せなかったし、彼を守りたいと思った。本の中の主人公のように、光莉にとって大事な人は、すぐ目の前にいる律樹なのだ。
『りっちゃん――私が、これからもずっと、りっちゃんを守ってあげるから』
 光莉は口癖のように告げた。
『それ、前にも聞いたし、そろそろ聞き飽きたよ』
 困ったように微笑んだ彼の顔は、今でも覚えている。ふたりの傍にあった金木犀からオレンジ色の花弁がひらひらと舞う。その花弁が光莉の泥だらけになった黒い涙に貼りついたのを見て、律樹が初めてお腹を抱えて大笑いした。その日のことを光莉は今でも忘れられない。
 そんなふうに控えめな律樹だったが、中学に入ると身長がぐんぐん伸びて、彼の美しい容姿はさらに磨きがかかり、今度は王子様に夢見る女子の憧れの対象になった。一方、男子にとっては羨ましい反面、憎らしい対象にもなる。いわゆる両面価値、アンビバレンス――愛と憎しみなどの相反する感情を同時に又は交替して抱からえる対象――になった。
 それでも当の本人は何ら変わらず、光莉の側でぬくぬくと陽だまりのようなマイペースさを保っていた。誰かを攻撃することも、反撃することもなかった。やがて相手は戦意喪失していく。それが彼のやり方だったのかもしれない。女子にあまり興味を持たないが、告白されても相手を無下にしたり傷つけるような言葉で振ったりはしなかった。
(きっと彼はたくさん傷ついたから……汚れた部分を見ないようにしていた。近寄らないようにしていた)
 小学生の頃は、光莉はいじめられていた律樹を守りたい一心だった。ある種の保護欲や正義感からくるものもあったのかもしれない。彼の傘になり、盾になり、陽だまりになりたかった。特別な存在でいたかった。
 けれど、やがてふたりの関係は逆転する。
 中学生になり、背も伸びて逞しくなった彼が、今度は光莉を守ってくれる人になっていた。友だちと喧嘩したとき、部活でうまくいかなかったとき、ナンパに絡まれたとき、電車で潰されそうになったとき……彼は光莉を励まし、側で支え、いつも守ってくれていた。
 そして、中学一年の冬休み、愛犬が死んでしまって悲しかったとき。
『りっちゃん は、ずっとそばにいてね。いなくならないでね』
『いるよ。ずっと君の側にいる。約束の代わりに、これをあげる』
 律樹はそう言い、光莉にお守りを差し出した。それを見て、光莉は慌ててポケットを探った。光莉も律樹に渡そうと思って持ってきていたのだ。一緒に読んだ本のことを思い浮かべ、同じように友情の証にしたかった。
『御守』
 律樹がくれたのはちゃんとした御守だったけれど、光莉が律樹に渡したのは、『比翼連理』と書かれたお守りだった。そのときは本当の意味は知らなかった。寄り添う二羽の美しい鳥の絵柄の刺繍に惹かれ、寒さで指がかじかむ中、光莉はそのお守りを選んだのだった。
『あのさ、ひかりちゃん、これの意味わかってる?』
 困惑したように律樹が尋ねてきた。目元にかかる色素の薄い髪から戸惑う瞳が見えた。光莉はきょとんとして問い返した。
『ずっと一緒にいられますようにっていう、友情の御守でしょう?』
『まぁ、当たってるけど』
 なぜか律樹の頬が赤くて、いつものように博識な彼にその理由を尋ねたけれど、いつまでたっても教えてもらえなかった。
 傘となり、盾となり、そして陽だまりでいてくれた。彼の側にいることが心地よかった。
 ――そんな律樹のことが好きで、大好きで、いつの間にか光莉は彼に恋をしていたことに気付いた。人生で初めての恋、すなわち初恋だった。
(伝えられないままだったし、あれからすぐ離れ離れになってしまったけど……)
 あの 御守はどこに仕舞っていただろうか。実家の納戸の奥かもしれない。律樹は覚えているだろうか。まだ持っていてくれるだろうか。それとも、捨てられてしまっただろうか。
 無論、今なら意味がわかる。縁結びの御守だっていうこと。比翼連理とはつまり番のことを意味するのだと。
(まさか、こういう形で、本当に夫婦になるなんて……)
 線引きをすると決めたはずなのに、未練たらしく思い出してしまうことをどうしてもやめられない。あの頃の記憶は、今の光莉にとっての支えなのだ。だから、迷惑かもしれないけれど、心の中で密かに温めていることくらいは許してほしい。
「光莉?」
 律樹が訝しげに尋ねてくる。光莉はハッとして返事をした。
「ぼーっとしちゃってごめんなさい。わかった。着替えるから少しだけ待ってくれる?」
「了解。リビングの方にいるよ」
 律樹が微笑む。その表情がとても嬉しそうに見えるのは、光莉の願望がそうさせているのかもしれない。
 着替えを終えたあと、光莉はトレンチコートを片手に、律樹を探した。リビングの方にいると言っていたが、どこにも姿が見当たらなかったのだ。
「若奥様」
 メイド長の白井に声をかけられ、光莉はやや遅れてうしろを振り向いた。
「律樹様なら、外でお待ちになっておられますよ」
 どうやら若奥様というのは光莉のことだったようだ。
「あ、ありがとうございます」
「光莉様、その場合は、わかったわ、で構いません。或いは、ありがとうのひと言だけで結構ですよ」
「は、はい。いえ、ええ。ありがとう」
「結構です。それから、先日お茶会にお越しになった中(なか)村(むら)様から、若奥様にお電話がありましたよ」
「中村様……あ、あの老夫婦かしら」
 光莉は足の悪い老夫婦を思い浮かべる。
「一言、御礼を、と。あのときは助かったそうです」
「そうですか。わざわざ……」
 自分の行動が無駄ではなく、彼らの助けになったのならよかった、と光莉はあたたかな気持ちになった。嬉しくて頬を緩めると、白井がつられたようにふっと微笑みを浮べたのを見て、光莉は目を丸くした。初めて、白井の笑顔を見た気がする。
「それでは私はこれにて失礼いたします」
 白井は一礼し、光莉が立ち去るのを待ってから引き返して行った。
 主と使用人の線引きをすることは必要、という教育だったようだが、何となく若奥様と呼ばれたことが腑に落ちないままに外に出ると、白いスポーツカーに寄りかかるようにして待っている律樹の姿があった。
 光莉が身支度を整えている間に、律樹はガレージから門の外に車を移動したらしい。
「お待たせしました。ごめんなさい。タイミング悪く、律樹さんのこと探してしまって……遅くなりました」
「ああ、こっちこそごめん。白井に伝えればいいかなと思って。すぐ出発できるから」
「そっか」
「どうした? なんかあったのか?」
 律樹に顔を覗き込まれ、光莉はきょとんとしたあと、頭を振った。
「え? ううん。何かさっき、若奥様って呼ばれて。そんなふうに一度も呼ばれたことなかったから……」
 ひょっとして、さっき褒められたことで、嬉しい気持ちが表情に出ていただろうか。光莉は思わず自分の緩んでいた頬に手をやった。
「へえ」
 律樹が驚いたような顔をしたので、光莉はますます首を傾げた。
「白井がそう呼ぶっていうことは、光莉のことを身内だと認めたのかもな」
「え、そういう意味だったの?」
 光莉は思わず目をぱちくりとさせた。
「さあ。気に入ってくれたとか。多分」
「ええ? どっち?」
「少なくとも、麻美さんのことは未だに呼ばないよ、あの人」
「そ、そうなんだ」
 律樹は興味のない相手にはドライな部分がある。ずばっと言われると、光莉としても反応に困る。このあたりは昔と違う部分かもしれない。
「光莉の頑張りを見ていてくれているんじゃないか?」
 ふわり、と一瞬だけ律樹がやさしく微笑んだ。その表情からは、心から告げてくれていることが伝わってくる。少なくとも、律樹にとって光莉は興味のある相手だと思っていいだろうか。
 思いがけない言葉をもらって、光莉の胸のうちに蝕んでいた疎外感や孤独感といった棘がすっとやさしく抜けた気がした。
 他の誰でもない彼にそう言われることが、ひとりで戦っているんじゃないと励まされるようで心強くなる。必死に積み上げつつあった強がりの防御壁が一瞬で瓦解してしまいそうになった。
 こんなにも自分は脆かっただろうか。泣きそうになるのを我慢しながら、光莉はなんとか内側から言葉を生み出そうと試みる。
「実を言うと、ちょっと……ちょっとだけ、へこんでたの。だから、そう言ってもらえると……何だか、すごく嬉しい」
 大丈夫だと言い聞かせて、必死に立とうとしていた。そんな自分に気付いてしまわないように、自分のことを見て見ないふりをした。ただ闇雲に数をこなしたって仕方ないのに。
 ふっと目尻に律樹の親指が触れて、光莉は驚いて彼を見た。彼の色素の薄い瞳がはっきりと間近に見え、ともすれば唇が触れてしまうのではないかと思うくらいの至近距離に、息が止まりそうになる。混乱のあまりに頭が真っ白に染まりかけた。
「……泣いているんじゃないかと思ったんだ」
 心配そうに律樹が見つめてくる。
「こ、これは、さっき欠伸したからよ」
 苦しい言い訳だっただろうか。心臓の音がいちだんと大きくなり、光莉はひとり焦っていた。
「一応言っておく。俺も君には感謝しているんだ。これでもね」
 律樹にくしゃりとさりげなく髪を撫でられ、光莉は心臓を握られたのではないかという錯覚に陥った。今度こそ、本当に泣いてしまいそうで、光莉はとっさに険しい表情を作って見せた。
「や、やだな。みんな私のこと急に甘やかして、何か裏があるんじゃないかって思っちゃうんですけど」
「こういうときは、素直に受け止めろよ。そんなに穿った見方をする必要はないよ」
 と、律樹は小さく笑った。
 ひとまず出ようか、と律樹が助手席のドアを開けてくれた。今の今で律樹の顔をうまく見られないまま、おずおずと身を滑り込ませる。
 運転席に律樹が乗り込む姿を横目に、光莉は緊張して固まっていた。
 白いスポーツカーに乗り込む御曹司は、昔の童話でいう白馬の王子様といってもいいだろう。見た目が王子様の彼がそれをこなすと、自分は映画の中にいるのではないかという錯覚すら覚える。それほど絵になっていた。
「律樹さん、自分で運転もするのね」
「まあ、免許は身分証代わりに必要だったからな。光莉は?」
「私も免許は持ってるよ。取引先を回ったりとか、社用車で運転してたし」
「そっか」
 光莉は失敗したな、と思った。山谷食品のことは話題に出すべきじゃなかった。せっかく気分転換に誘ってくれたのに、現実に引き戻してしまった。
「じゃあ、出発しようか。ああ、その前に……」
 律樹がこちらを向いて、真剣な表情で光莉に近づく。吐息がかかるくらいの距離を詰められ、光莉はパニックになる。
「え、あ、あのっ」
 固まっていると、かちりと音がして、律樹は離れていった。どうやらわざわざシートベルトを締めてくれたらしい。
 たしかに意識からは逸れていたけど、言ってくれたら自分でできるのに。
(キス、されるのかと思った。そんなわけないのに)
 頬が熱くて、心臓が騒がしい。さっきの一件でなんだか距離感がバグっている気がする。エンジン音で今すぐこの激しい鼓動をかき消して、急激に上がった体温と心拍数が早く落ち着くようにと祈っていた。
 車は高速道路に入り、東京から山梨方面へ――。
 海沿いの道路を混雑もなくすいすいと行く。やがて緩やかなカーブを辿って山道へと進み、海と山とそして空が限りなく近くに感じられるようになっていく。
 しばらくすると、紅葉している山々が視界一面に飛び込んできて、光莉は思わず窓に手をついて外を見た。
「到着したら、ロープウェイで上を目指してみないか? 美味しい甘味処もあるらしいんだ」
「いいね。楽しそう!」
 光莉は即座に頷いた。
 大邸宅でありながら閉塞的な空間である常盤家に入ってから、こんなふうに自然を感じたことはなかった。
 ロープウェイで変わりゆく景色を眺めて感動したあと、山の神社や散歩道をのんびり歩きその帰りに約束どおりに甘味処に入り、白玉とクリームがたっぷり乗ったあんみつと、みたらし団子を頼んでふたりでベンチに並んで食べた。何だか学生時代に戻った気分だった。光莉が頬を綻ばせて美味しいと声を出すと、律樹も楽しそうに笑ってくれた。
 開放的な気分を味わったあと、光莉は陽が傾いていくのを眺めながら名残惜しい気持ちになっていくことに気付く。常盤家に戻るのが辛いというのではなく、律樹と過ごす時間がそれほど楽しかったからだった。
「お礼を言わなくちゃいけないのは、私の方だったよね。きっと律樹さんだって色々忙しいのに……ありがとう」
「光莉」
「うん?」
「いや、なんでもない」
 律樹はときどき 何かを言いかけては途中でやめてしまうことがある。彼の立場上、線引きをしなくてはならない部分なのかもしれない。そんなふうに推しはかることしか光莉にはできない。今の律樹のすべてを光莉が理解することはできないのだ。
 けれどせめて、一部だけでも繋がっていたい。たとえそれが紙切れ一枚で繋がっている細くて脆い絆だとしても――。
 
「帰り、眠かったら遠慮しなくていいから」
 律樹がそう言ってくれたけれど、光莉はとても眠れそうになんてなかった。
「むしろ、私が運転しようか?」
 律樹にばかり運転してもらって悪い気がしたのだが、予想以上に彼は驚いていた。
「まさか。この車スタイリッシュに見えて結構な馬力があるし、下手したら崖からダイブだぞ」
 光莉はさっと青ざめる。
 無理心中という大きな見出し付きで翌朝トップニュースになるまで想像してしまった。
「や、やめておくね。じゃあ、せめて助手席でサポートするよ。あ、さっそくだけど、ハッカキャンディ食べる?」
「いや、いい」
「そ、そう?」
 手持無沙汰になってしまった光莉をよそに、律樹は相変らずのんびりとした空気を醸し出している。
「君と一緒に食べたあんみつの味が消えるのがもったいない気がしたんだ」
「…………」
 ああ、またそういうことを彼はさらっと言う。恥ずかしげもなく素直に。今日は本当におかしい。律樹の心境にどんな変化が起きているのだろうか。
「……あの、ひとつだけ言ってもいい?」
 どうしようもなく苦情を出したい気持ちになった。けれど、指摘する方が恥ずかしいような気もする。
「何?」
「やっぱりいい。ちょっとだけ眠くなってきたかもしれない」
 なんとかごまかしたつもりだけれど、律樹相手ならごまかすこともなかったみたいだ。
「無理しないでいい。俺なら大丈夫だ」
 本当に気遣ってもらってしまい、いたたまれない光莉だった。
 それから、光莉はいつの間にか本当にうとうとと睡魔に誘われてしまっていた。
 どのくらい時間が経過したのか。気だるさに身を委ねていたところ、風の音と湿度を孕んだ空気を感じて、光莉は目を覚ました。故郷や自然の中とは違う、都会の夜気を感じる匂い。
 車の窓が少し開かれていて、光莉は隣にいるはずの律樹の方を振り向くが、彼の姿は運転席にはなかった。
 どうやら外に出ているらしい。休憩で立ち寄ったのかもしれない。
(ここは……お台場あたりかな)
 光莉は助手席のシートベルトを外そうとして、既に外れていたことに気付く。足元にはブランケットが落ちていた。
 助手席でサポートするどころか、律樹に色々お世話をしてもらっていたらしい。
 律樹のやさしさを感じるたびに、ささくれそうになる部分がやさしく包まれて、そこからまた生まれ変われるような気持ちになるから不思議だ。彼の前世は、魔法使いの類なのではないだろうかとすら思ってしまう。
 光莉は助手席のドアを開け、律樹の元へと近づく。
 気配を感じとったらしい律樹が振り向く。
「悪い。起こしてしまったか」
「ううん。ありがとう。気を遣ってくれたんでしょ」
「途中で起こされると、すっきりしないだろう?」
 そういう律樹の隣に、光莉はそっと寄り添った。そして、都会の匂いを改めて感じながら、夜景を眺める。
「さっきまで自然に囲まれていたのに、こうやって夜景とかネオンの光りとか浴びると、ああ、都会に戻ってきたんだって感じするね」
 光莉はしみじみと感じながら思ったことをそのまま口にした。
「残念そうだな」
「今まではそうじゃなかったから。金沢では、いつまでも緩やかに流れている場所にいたから」
 ふたりの間に沈黙が流れる。けれど、いやな空白ではなかった。
「あんみつ、美味しかったね」
 あんみつの味を覚えていたいと言っていた律樹の気持ちが、今になってよくわかる気がした。
「少しは気分転換になったか?」
「めちゃくちゃなった」
 光莉は笑顔で応えた。無理に作ることなく、自然と頬が綻んでいく。いい感じに肩の力が抜けた気がする。律樹も満足したように微笑んだ。
「そうだ」と律樹が車の方に戻っていく。光莉は首を傾げつつ、彼の後に続いた。
 律樹はトランクを開き、中から紙袋を取り出す。紙袋には懐紙に包まれた何かが入っていた。彼が丁寧にそれを解くと、一足の黒いパンプスが顔を覗かせた。パッと見、見たことのあるデザインだった。
「これ、君に渡しそびれていた」
「あ、もしかして、パーティーのときに失くした片方……」
 見覚えのある感じがしたのは気のせいじゃなかった。長く履いた自分の靴はそう忘れるものではないらしい。
「君が慌てて出て行くのが見えた。そのときに偶然拾ったんだ」
「そう、だったんだ。そっか。律樹さんが拾ってくれてたのね」
 それも何かの運命だったのではないかと、思わざるを得ない。
「本当は金沢に行ったときに渡すつもりだったんだが……」
 律樹は言葉を濁す。その先のことは今は思い出す部分じゃないだろう。
「ありがとう。割と気に入ってたんだ。っていっても、持ってきてないんだけどね」
「いつか、里帰りしたときに揃えるといい」
 何の気なしに言ってくれた律樹の言葉に、少しだけ泣きたくなった。
「うん」
 光莉は両手を伸ばして靴を抱きしめた。
 いつか、それはいつになるのかわからない。そのことはお互いに口にしなかった。
「だから……それまでは、これを君に」
 律樹がそう言い、トランクの中にあったもうひとつの箱を差し出した。彼がそれを開いて見せてくれる。
 現れた白い靴に、光莉は戸惑う。こちらは明らかに新品だ。街灯に照らされると、まるでガラスの靴のよう。マットな布地に光沢のあるサテン素材が編み込まれているらしい。細身のバックストラップの飾りが清楚な色気を出してくれそうな、素敵な靴だ。
「光莉に似合いそうだと思ったら、いつの間にか手に取っていた。ちょっとした訪問のときとか、パーティーのときとか、使えるだろうし……」
 暗くてわかりにくいけれど、おそらく律樹の顔はほんのり赤い。彼が照れているのが伝わってきて光莉の鼓動が騒がしくなる。
 何気なく思い出してくれたこと、似合うと感じてくれたこと、そして……贈り物に選んでくれたこと。そのひとつひとつ の彼の想いが嬉しくて、胸がじわりと熱くなった。
 ここまできたら遠慮する方がずっと無粋というものだろう。
「履いてみてもいい?」
「ああ。拾ったパンプスのサイズと一緒のものを選んでみたんだが……」
 律樹が差し出してくれた手に 片手で掴まって、それぞれ足を滑らせてみる。それから彼が腰を落として膝をつくと、かかとを支えてくれた。靴は、ぴったりだった。
「よく似合ってる。想像したとおりだ」
 律樹が声を弾ませる。そんな彼を見ていたら、封印しようと思っていた愛おしさが溢れてきてしまいそうになる。
 光莉はふっと息を吐いて、自分自身に八つ当たりするように呟いた。
「参っちゃうな」
 本当に参る。きっと律樹のことだから、光莉が落ち込んでいることも、困っていることもすべてわかった上で、こんなふうにしてくれたのだろう。
 こんなことをされたら、律樹が光莉のことを義務感以上の気持ちで大事にしてくれているのだと、自惚れたくなってしまう。政略結婚なんて幻で、ふたりは本当に恋愛をして結婚したのだと思いたくなる。
「律樹さん、ありがとう。大事にさせてもらうね」
 律樹が嬉しそうに微笑む。その笑顔に、光莉も胸がいっぱいになった。
 ふと、律樹の視線が別のところへと吸い寄せられる。光莉もその方向を見た。
 ブライダル会社の広告の看板があった。
 ウエディングドレスとタキシードを着た外国人のカップルが描かれている。ふたりは笑顔で寄り添い、見つめ合っていた。
 そういえば、来週には十一月に入る。いい夫婦の日にちなんで結婚式を挙げるカップルが大勢いることだろう。
(結婚式か……)
 ウエディングドレスを着る機会はきっと今のままでは訪れないかもしれない。着てみたいと憧れたことはあったし、いつかはそういう日が来るかもしれないと考えたことだってある。
 けれど、未来設計をする前に、その理想は遠ざかり、叶わないものになった。
「ふたりだけの結婚式をしないか?」
「え? でも……」
 律樹の突然の提案に、光莉は戸惑いながら彼の真意を探る。
 山谷食品を助けたければ律樹と結婚すること――それは律樹が持ちかけてきた政略結婚だった。
 常盤家当主の修蔵にしてみれば、律樹が跡取りになることが最大の望みであり、そのための条件として光莉との結婚を認めたに過ぎない。一方で律樹は、光莉のために山谷食品を守ることを条件のひとつに組み込んだ。
 なぜ律樹は光莉との結婚を条件に含めたのだろうと疑問に思う。律樹に好きだと言われたことはないし、自分から伝えたこともない。
 形だけの夫婦だから結婚式も披露宴もさせる必要はない、と当主は考えている。光莉を端から嫁として認める気はないのだ。あまつさえ、家族としての交流を深める気もさらさらないのだろう。初日の挨拶以来、修蔵の姿を見かけることはあってもまったく顔を合わせていない。
 義務さえ果たせば当主としては何も文句はないのだろう。麻美のように嫌がらせをするわけではない点では助かるが、いないものとして扱われるのはどうしても寂しい気持ちになってしまう。
 何人もの愛人を作って子を孕ませ、その子の中から後継者を選定するくらいなのだから、元々家族への感情が希薄な人なのかもしれない。
 何となく気にしていた光莉のことを、律樹は見透かしていたのだろうか。
「結婚式は自分たちの好きにしたらいいと言っていた。ただ大仰にしなければいいだけの話だろう。家のことは気にしなくていい」
「麻美さんがまた何か言ってくるかもしれないよ?」
 何かと光莉のことが気に入らない麻美のことだ。彼女が何かを言ってくることは容易に想像がつく。
「言い訳をする必要なんてないことだろ。あの家に写真立てのひとつ もない方がずっと不自然だ」
 律樹がいつになく語気を強めたことに、光莉は少し驚いていた。
 それに、と律樹は言った。
「君だってひとりでいるお父さんのことも気がかりだろう。せめて、ドレス姿の写真を送ってあげたらいいんじゃないか? 挙式に向けて、試着してみたっていうことにでもすれば、問題ないだろう」
「律樹さん……」
 再会した直後は、律樹のことがわからないと思った。でも、わからないままでいたくないから彼を理解したいと申し出た。けれど、実際に歩み寄ってくれていたのは、律樹の方だった。
 光莉のことを慮ってくれる律樹の気持ちが嬉しくて、どこか肩肘を張っていた光莉の心のバリアがほろほろと崩れていくのを感じていた。
「実を言うと、こっちが本題」
 律樹は懐から取り出した箱を開いて、光莉の目の前に指輪を差し出した。
 夜闇の中でも美しく輝くダイヤモンドに魅入られ、光莉は弾かれたように律樹を見つめた。
「はじまり方は君にとって幸せなものじゃなかったと思う。遅れてしまったけれど、これは今の俺が君に示したい気持ちだから」
 律樹が婚約指輪を用意してくれていたことに、光莉はまた驚かされる。
「一体いくつサプライズを隠し持ってるの」
 泣き笑いみたいな顔になっていたかもしれない。光莉が冗談まじりにそう言うと、律樹の方が苦しそうな顔をする。その表情から、彼の誠意が伝わってきて、どうしようもなく胸が震えてしまう。
 今の彼ならこんなに高級な指輪をプレゼントするくらい容易いことなのかもしれない。でも、用意しなければならないものでもなかった。形式上の夫婦なのだから。
 それなのに、彼は誠実に向き合ってくれた。そのことが何より土砂降りの中にいた光莉の心に傘をさしてくれた。これからはこの指輪が、折れそうになった光莉の戦う剣の代わりに盾になってくれることだろう。そして彼の存在はやはり光莉にとってずっと陽だまりなのだ。
「はめてもいい?」
 光莉はほぼ無意識に頷いていた。
 薬指にゆっくりはめられていくのを見つめていたら視界が少しだけ揺らいで見えなくなりそうになった。だから、律樹の顔が近づいていたことにすぐには気付けなかった。でもきっと気付けたとして、光莉は拒むことはしなかっただろう。
 好きだとか、大切だとか、言葉にすることはない、これはふたりが足並みを揃えるという意味での儀式なのかもしれない。
 でも、今はそれでよかった。何より心強い、彼の誠実なギフトに感じたのだ。
 風のようにそっと唇が触れ合う。ただそれだけ。誓いのキスの代わりのようだった。
 鼓動がゆっくりと早鐘を打ちはじめ、耳のあたりにまでせり上がってくる。
 今、外から見たふたりはどんなふうに映っているのだろう。
 まるで本当の恋人同士みたいに。結婚を心待ちにしているように映っているかもしれない。
 律樹は最初こそ強引に政略結婚を持ちかけてきたけれど、こんなふうに誠心誠意を尽くして、光莉にやさしくしてくれる。
 それは今の光莉にとってたったひとつの希望――。
 彼さえ側にいてくれれば、この先もずっと頑張っていけるかもしれない。そんなふうに思わせてくれるほど、この夜のことは忘れられない一日として光莉の心に刻まれていったのだった 。

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