さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす

 律樹とデートをした日から、光莉にとってふたりの結婚式が新しい目標になった。
 最初は、意に染まない結婚だったけれど、律樹との距離が少しずつ近くなっていくにつれ、これから本当の意味での夫婦になっていけたら……と、考えるようにもなっていた。
 おかげで常盤家の行事もお稽古ごとも、前ほど義務感が先立つことはなくなった。将来への不安を抱いていた光莉にとって、ひとつの大きな進歩だった。
「最近、随分とごきげんだね、光莉さん」
 常盤家に来てもう何十回目になるかわからない生け花の稽古を終えて先生を見送ったあと、裏庭に面した縁側で涼んでいると、颯太が声をかけてきた。
「あなたって、いつも忍者みたいに現れるのね。気配を消すのが得意だったりする?」
 あれから、颯太とはこうして一緒に過ごす時間が少しずつ増えていた。
 颯太は律樹に気を遣っているのか、律樹と光莉がふたりで一緒にいるときは声をかけてこない。だから光莉も律樹のことはあまり話題に出さないようにしていたのだが。
「それ、素敵だね。あの人にもらったの?」
 颯太に指摘され、光莉は左手の薬指をそっと撫でた。なくすといけないから公の行事がない限り、普段は部屋の引き出しの中に仕舞っているのだが、律樹が不在のときにこうしてはめていると、なんだか守ってもらっているような気がして心強いのだ。特に、不得意なお花やお茶の稽古事のときは励みになる。
「結婚指輪はしないんだね」
「それは……まだ結婚式をしていないから」
 色々なことがありすぎて結婚式について気にしたこともなかった。だからこそ、律樹が結婚式をしようと言ってくれ、あんなふうにプロポーズをしてくれたことが嬉しかった。婚約指輪がふたりの関係の変化を示しているようで、見るたびになおさら愛おしさが溢れる。
「ふうん。結婚式をするつもりなんだ」
「ふたりだけでするつもり」
「そう。その方がいいかも。色んな人に顔を見せるのは疲れるでしょ」
「そうだね」
 颯太と話をし続けていると、麻美の声が聞こえてきた。歌でも歌っているように聞こえる。
「あらあら、ねずみ、ねずみ。一体、どこのねずみかしら」
 麻美が箒を片手にそう言い、こちらを見る。
 颯太とふたりでいるところを見咎めているのだろう。いつもの意地悪だ。思わずといったふうに光莉は颯太と顔を見合わせ、肩を竦める。
「それじゃあね」
 足早に立ち去ろうとする颯太を、光莉は慌てて引き止め、手元にあった包みを渡す。生け花の先生が差し入れとしてくれたものだ。
「よかったらお団子持っていって」
「サンキュ。毒入りじゃないといいけど」
「入ってないよ」
 光莉がむくれた顔をすると、颯太はにっと笑って、去っていってしまった。本当に彼は忍びみたいだ。麻美の視線を感じたが、光莉は知らないふりをして邸の方へと戻って行った。
 律樹からのプロポーズを思えば、麻美からの意地悪など吹き飛んでしまう。
 それから浮き立つ気持ちで部屋に戻った光莉だったのだが――。
「な、何っ……」
 光莉が部屋の扉をあけると、目を疑う光景が飛び込んできた。
 整然と並べられていたはずの本や置物は散乱し、ふわふわと白い羽毛が舞っている。朝、使用人のひとりが活けてくれたばかりの花瓶は倒され、磨きあげられた床に小さな水たまりを作っている。
(泥棒……? いや、そんなはずは)
 セキュリティは万全なはず。外部の人間が容易に入ってこられる屋敷ではない。
(一体誰が?)
 身をこわばらせて後ずさりししたその時、部屋の隅からカタリと音がして、その正体がわかった。
(猫……!)
 あのとき、縁側で見かけた猫だろうか。遠くから見ている分にはよかったが近づくのはアレルギーがあるので避けたいところだ。毛が舞っているからか、やはり目が痛くなってきて、肌に発疹が現れはじめていた。急いで部屋から出ようとしたのだが、なぜかドアが開かない。せめて窓を開けようとするもののこちらも開かない。
(どうして、突然ドアが開かなくなるの……)
 呼吸をした際に激しくせき込み、止まらなくなる。目をうまく開けられず、ぜいぜいとした喘鳴が続く中、縋るように必死に窓を開けようとするが叶わない。
(だれか……!)
 窓を叩いて心の中で助けを呼んだ、そのときだった。
 突然バルコニーの方の窓が外側から破られ、光莉は驚く。衝撃を受けた箇所のガラスは粉々に割れている。今度は一体何が起こったというのだろうか。
「光莉さん! そっちにすぐ行くから待ってて!」
 外から声が聞こえてきた。割れた窓の間から覗くと、颯太が手を振っていた。彼は器用に梯子から屋根へ伝い、本当に忍者のようにやってくる。ここは二階とはいえ結構な高さがあるはずだ。
「颯太くん……!」
 しかし危なげなく彼はやってきてバルコニーに到着すると、手に持っていた鋏で窓枠に残ったガラスを壊し、光莉に手を伸ばした。
「光莉さんが必死な顔で窓を叩いているのが見えたから」
 颯太に抱き上げられ、光莉は部屋からバルコニーへ脱出することに成功する。猫もまた開いた場所から出ていくのが見えた。踏み荒らされた部屋の中は散々な状況だ。
「一体、何だったの……」
 唖然としたままその場で立ち尽くす。
「ひどい光景だね。大丈夫?」
「颯太くんがきてくれなかったら、大変だったかも……」
 外の風にあたったら落ち着いてきたけれど、あのまま閉じ込められていたら、最悪アナフィラキシーショックを起こすかもしれなかった。そう考えるとぞっとする。
「黒猫……どこから迷い込んできたんだろう」
「うーん?」
 ふたりで話をしていると、いきなり部屋のドアが大きく開かれた。
「ちょっと、光莉さん、なんてことしてくれたの」
 激昂した麻美がこちらにやってきた。
 意味がわからず混乱している光莉と颯太に向かって、麻美は睥(へい)睨(げい)する。
「邸の中がぐちゃぐちゃになってるのよ! 今あなたの部屋から猫が出てきたのを見たわ、きっとあの野良猫たちのせい! 責任は誰がとるつもり? 住み着いてしまったらどうするの」
 猫を連れ込んだのは自分ではない、そう反論しようと口を開きかけた光莉だが、麻美はそれに構うことなく言葉を続ける。
「ああひどい部屋、汚らわしい。動物なんて大嫌いよ」
 麻美は両腕をさすりながら、部屋の惨状を見渡した。
「……あのままひとりで閉じこもっていたらよかったのに。財産を横取りする泥棒猫にはお似合いだわ」
「なっ……」
(なんで閉じ込められていたこと……ドアが開かなかったことを知っているの?)
 光莉が言葉を失っている間に、麻美は踵を返した。
 麻美はどこから見ていたのか。バルコニーから庭へと出ていった二匹の猫を、廊下から現れた彼女が見ることができたのだろうか? もしやそもそも彼女の仕業なのではないのだろうか。そう疑わざるを得ない。
「った……」
 光莉は肘のあたりを押さえた。
「それ、猫に引っかかれた?」
 颯太に指摘された場所が赤くなっていた。
「わからないけど、平気。慌ててぶつけたのかもしれない」
「きちんと診てもらった方がいいよ。感染症にかかりでもしたら大変だから」
 心配してくれるのはありがたかったが、光莉は先ほどの麻美の態度が気になって仕方なかった。
「おねえさんはここにいて。執事の田中さんを呼んでくるよ」
 颯太は言って風のように駆けだす。その後、すぐに事情を聞きつけた田中がやってきた。
「いかがなさいましたか」
 田中はいつも表情が乏しい。冷静でいてもらえることは頼もしいが、光莉はまだ田中には遠慮が先立ってしまう。とりあえず先ほどの状況を詳しく説明することにした。
「実は……」
「災難でございましたね。すぐに我々が対処いたしましょう。お部屋の掃除が終わるまで別室でお過ごしください。その間に、お怪我の手当もいたしましょう」
 颯太は遠いところに控えていて、手を振っている。光莉はありがとう、と心の中で呟き、手を振り返した。
 それから田中に別室へと案内してもらい、呼び出しに応じたメイドに怪我の手当をしてもらったが、それでも、光莉はいつまでも霧の中にいるようなすっきりしない気分だった。
 こんなに大きな敷地を持つ邸の中に猫くらい紛れ込むことはありえるかもしれないけれど、あのタイミングで閉じ込められたことが、どうしても引っかかるのだ。

 その日の夜――。
 別室に移った光莉はなかなか寝付けなかった。目を瞑ると猫の声が聞こえるような気がしてパッと眠気が覚めるのだ。
 律樹に相談しようと思ったが、いつもより帰りの時刻が遅くなるらしい。二十三時になるところだが、まだ帰宅する気配がない。
 部屋からそっと抜け出すと、メイド長の白井と遭遇した。無論、仕事中ではないので、作業着にエプロンといった姿ではなかった。
「どうされましたか?」
「何だか眠れなくなってしまって……喉が渇いたので」
「さようでしたか。では、少しお付き合いいただけますか? すぐにハーブティーをご用意いたしますので」
「白井さん、ハーブティーを好まれるんですか?」
「律樹様に用意を頼まれました。若奥様が眠れないときは淹れてあげてほしいと」
 白井は光莉を食堂へと連れて行き、さっそく準備をしてくれた。
 ハーブの入ったグラスポットにお湯を注いで蒸らし、少し待って黄金色に色づきはじめた液体を、ふたつのティーカップにゆっくりと注いだ。
「こちらは金木犀とカモミールをブレンドしたものです」
「金木犀……」
 光莉は思わず反応を示す。
「リラックス効果があるそうです。不眠にもよいのだとか……律樹様も好んでいらっしゃいますよ」
「そうなんですね」
 甘やかな香りを吸い込み、ハーブティーをさっそくいただく。この香りが、律樹にとっても大切な記憶の一部とリンクしていたら嬉しいな、と思いながら。
 自然と笑顔がこぼれていたのかもしれない。向かい合って座った白井がにこやかにこちらを見ていた。
「えっと?」
「おふたりはなかなかよい夫婦ではないかと思っておりますよ」
「そう、でしょうか?」
「ええ。なんだか昔の……若い頃の旦那様と奥様のことを思い出すのです」
 白井はそう言い、かつての彼らへ想いを馳せるように目を細めた。奥様というのは離婚後に亡くなったという本妻のことだろうか。
「旦那様はすっかり変わられてしまいましたが、昔は奥様を大事にされていたこともあったのですよ」
 白井は寂しそうに目を伏せた。
「奥様は……ご病気で早くに亡くなられたんでしたよね?」
「表面上はそうなっておりますが……」
 と言い添えてから、白井は話を続けた。
「実は、奥様は旦那様の度重なる浮気に心を蝕まれておりました。旦那様は奥様に向き合おうとはしませんでした。やがて奥様の心は壊れていき、かつて使用人だった若い男と、ふたりで駆け落ちをしました」
「駆け落ち……」
「世間体や跡継ぎのことを気にした旦那様は奥様に戻ってくることを強いました。連れ戻された奥様は子を身ごもっていましたが、ある日そのまま亡くなられました」
 白井は言葉を濁したが、つまりはただ離婚したわけではなく、自殺をしたということだろうか。泥沼の関係そして壮絶な最期を想像し、光莉は自分が直接見たわけでもないその光景に目を伏せたくなった。
「奥様がお腹の子と共に亡くなってしまったことで跡継ぎが望めなくなり、律樹様や雄介様をこの邸に呼び寄せたのです」
 それからもうひとり、颯太も……。
 愛人の子が三人もこの邸の中にいる。本妻にそんな仕打ちをした挙句、修蔵はどんな気持ちで我が子らとその愛人たちを見ているのだろうか。
 光莉が絶句していると、白井はハーブティーを口に含んでから、こちらに視線をよこした。
「私は、ひょっとしたら律樹様と光莉様なら、常盤家の歪(いびつ)さを変えてくださるのではないかと、少しばかり期待しているのです」
「そんな……」
「少し話がすぎたようですね。どうかごゆっくり。私は先に休ませていただきますので」
 白井は立ち上がり、それから頭を垂れた。
「白井さん、ありがとう。おやすみなさい」
 光莉がそう告げると、白井は微笑みを残し、踵を返した。
 光莉はしばらく金木犀の香りに癒されようと、ハーブティーをゆったりと味わった。
 金木犀の甘く芳醇な香りが、また懐かしい気持ちを呼び起こさせる。白井の話を聞いたせいか、むしょうに律樹のことが恋しくなってしまった。
 自分には律樹がいてくれる。理解をしようとしてくれる彼が側にいることは幸せなことなのだと思う。律樹を想うと、心強かった。
 ハーブティーには癒されたけれど、色々な話を聞いてしまったせいで、逆に眠気は吹き飛んでしまった。
 部屋に戻ったら、読みかけの本に手をつけようか、そう考えながら食堂を出て、自室まであとちょっとのところ、廊下を曲がろうとしたときだった。
 いきなり誰かに腕を掴まれ、光莉は驚いて悲鳴を上げようとしたが、誰かの無骨な手に口元を塞がれ、息さえもうまく吸えなかった。
 光莉の目の前にはスマホの画像が突き付けられていた。その画像は、颯太に抱きかかえられている光莉の姿だった。今日の昼、閉じ込められた部屋から助けられたときのものだ。
(だ、れ……)
 光莉は身動きのとれないまま、視線だけを後方へ動かす。生温かい息が耳に触れてぞわぞわと総毛立つ。気持ち悪くて仕方なかった。
「大人しくこっちにくるんだ」
 荒々しい息遣いに混じったその低い声にハッとする。聞き覚えがあったからだ。だいたいこの邸の警備を考えれば、不審者なんて簡単に入れるはずがない。
 なんとか振り切ろうと身じろぎするものの、羽織い絞め状態のままでは為すすべなく、ずるずると引きずられて連れていかれてしまう。
「んんっ」
 息ができなくて目がちかちかしてきた。犯人は乱暴に部屋のドアを開く。薄暗い中だが、光莉が今使っている部屋だった。
 そのまま意識が遠ざかりそうになる中、もつれるようにベッドに押し倒され、光莉は恐怖に顔をひきつらせた。
 やっと手を離され、光莉は必死に喘いだ。心臓は激しく爆発しそうな音を立てている。
 ぼやけた視界の中、犯人の顔を見てやっぱり、と光莉は納得した。
「どう、して、あなたが……」
 犯人は雄介だった。
 彼の眼鏡の奥が卑猥な目つきでぎらついている。
「お仕置きが必要だろうと思ってね」
 雄介はそう言い、光莉を無理矢理組み敷く。
「いやっ」
「君、随分と颯太と親しくしているみたいじゃないか。こそこそと会ってるようだけど、どんなふうにあの男を誘惑したんだ?」
「颯太くんは助けてくれただけです。降りて、放してください!」
「兄さんとはまだ関係を持たないのはどうしてだい? 君たちが夜をともにしている様子はないようだけど?」
 なぜそのことを知っているのか、ストーカーされているような気分になりぞわぞわした。それに、律樹との情事をちらつかせられ、光莉はカッとなる。
「関係ないじゃないですか」
「兄さんが触れてくれなくて満たされない。だから、彼とこっそり逢瀬を交わしてるんじゃないか?」
「違います!」
「ちょうどいいじゃないか。相手をしてやるよ。君だって飢えているんだろう。なあ?」
「いやっ」
 律樹以外の人に触られたくない。光莉は死に物狂いで身をよじり、雄介の身体を叩いて防御する。いやらしく服を弄ろうとするその手に恐怖を抱いたそのとき、パッと電気がついた。
「何してるんだ! やめろ!」
 その声は、律樹だった。
「律樹さ……」
 光莉が助けを求める前に彼はそばにやってきて、雄介から庇うように抱きしめてくれた。光莉は必死に律樹にしがみついた。
「一体なんの騒ぎ――」
 麻美が部屋に入ってくるなり悲鳴を上げる。
「なんてことなの。呆れるわ。人の夫を誘惑するなんて!」
「麻美さん、誤解です。私は何も……っ」
「何も? その状態で信じられるわけがないわ」
「雄介さん、ちゃんと説明してください」
「ふん。見たままだろう。そっちから誘ってきたんだ」
 冷ややかな表情で雄介は言い放った。
「そんなことしていません!」
 光莉は即座に声を上げた。
「光莉さんの方からに決まってるわ。光莉さんが、私の夫に迫ろうとしていたのよ」
 麻美は光莉を睨む。彼女はなんとかして光莉の弱みを握ろうとしているのだろう。そもそも猫の件も雄介の件も、どう考えても不自然だ。
「光莉は否定している。俺は信じるよ。光莉がそんなことをするはずがない」
「じゃあ、この状況はなんだというの」
「知らない。彼女に誘われたんだ」
 雄介はその一点張りだった。
「ほら、夫がそう言っているでしょう。証拠に写真に撮らせてもらうわ」
 光莉の乱れた姿を撮影しようとする麻美を遮るように律樹が立ちはだかった。
「やめろ。勝手なことは許さない」
「お義兄さんは知らないのよ。騙されているんだわ。庭師の颯太にも色仕掛けしてたようじゃないの」
「それは勘違いです」
「あの子が言ってたわよ。あなたに好意を持たれてるのかもって。思わせぶりなことをしたんじゃないのかしら?」
「もしそうだったらきちんと誤解を解きます」
「気を付けてもらわないと。醜聞は、お義兄さんの株を落とすことになるのよ」
 つまり麻美の目的はそういうことなのだろう。光莉を陥れ、あわよくば律樹の評判を下げたいのだ。
 雄介は麻美との夫婦仲がよくないのは本当かもしれないが、今のこの状況を考えると、彼らはグルになっていたのかもしれない。そんなふうに疑心暗鬼になってしまう。
「律樹さん、自分から迫ったわけじゃないわ。押し倒されただけよ」
「ああ、君を信じているよ。でも、何もなかったとは言えない。実際、君は、傷ついた」
 律樹が手に持っていたジャケットで光莉をすっぽりと包んでくれた。それから彼は麻美と雄介に侮蔑の視線を向けた。
「ふたりとも、この部屋から出ていってくれないか。いや、今すぐ出て行け」
 怒鳴るわけでもなく淡々とした言葉だったのに、麻美と雄介が一瞬怯んだように見えた。
 律樹が怒りをあらわにするのは初めてだったからかもしれない。珍しく麻美は言い返すこともせず、ふたりはそそくさと去って行った。
 しばらくすると、口論している声が聞こえたが、もう何も耳にしたくはなくて、光莉は聞こえないふりをした。
「光莉、今はここにいたくないだろう。俺のところに来るんだ」
「……はい」
 光莉は律樹に言われるがまま手を引かれ、彼についていった。
 律樹はまだ怖い顔をしていた。さっきのことが許せなかったのだろう。彼がこんなふうに苛立つのは本当に初めてだ。
 光莉もあまりのことにすっかり脱力していた。
「――ごめんなさい。お騒がせしました。私が夜にうろうろしていたのがよくなかったの」
 律樹の部屋に移動したあと、光莉は白井にハーブティーを入れてもらったことを伝えた。
「……そっか」
「美味しかったわ。白井さんのハーブティー」
 空気を変えたくて言ったのだが、律樹には聞こえていない様子だ。
「今日、ひどい目にあったんだって? さっき田中から猫の話を聞いたよ」
「うん……」
「どんどん嫌がらせがエスカレートしてるようだ。さすがに見過ごせない。これからは一緒の寝室にしよう」
 律樹が心配してくれている。
 たしかに今日だけでも色々なことがありすぎた。いつか取り返しのつかないことが起こるかもしれない。そんな恐ろしい不安を植え付けられた一日だった。
「でも……」
「極力、俺が不在のときは鍵をかけておくんだ。白井さんや田中には見回りを強化するように言っておく」
 律樹が申し訳なさそうな顔をしている。そのことに、光莉の方が不甲斐ない気持ちになった。
「私も、負けないようにする。弱みを見せないように、もっとしっかり頑張るよ」
 律樹が光莉の頬にそっと触れる。
「君はちゃんと頑張ってるよ。だが、力じゃ敵わないことだってある。正攻法だけが正解じゃないこともある。それは君が一番知ってることだろ」
 痛いところを衝かれ、光莉は一瞬沈黙した。山谷食品を守るために光莉が選んだ政略結婚のことを意識してしまい、お互いに気まずさから視線を逸らした。
 しばらく沈黙が流れたあと、光莉は今日一日あったことを振り返りながら、口を開いた。
「つまり、現状、私は舐められてるってことでしょ。あの人たちは私が音を上げるのを待ってるのよね。悔しいけど、私には武器が何もない。経験値だって全然足りない。でも、負けたくないよ。律樹さんが、結婚式をしようって言ってくれたこと、本当に嬉しかった。だから……」
「光莉……」
「これは、私の戦いなの。あなたが申し訳なく思うこと自体、違うんだから」
「俺だって悔しいんだ。いない間に君を守ることができなかった。でも、これからは君のためにいくらだって盾になることはできる」
 律樹の言葉を聞いて、光莉は昔のことを思い出していた。
『これは、あたしのたたかいなの。りっちゃんが悪いって思うことなんてないんだから』
『じゃあ、ぼくはきみのたたかいをそばで見守る、たてになるよ』
 剣と盾。ふたりが揃ったら最強だよねと言って、ふたりで泣いて笑った。
「りっちゃん、やっぱり変わってない」
 もう二度と口にすることはないだろうと思っていたはずの名前が、愛しさのあまりにこぼれてしまった。
「変わってないのは、君の方だよ」
 見つめる瞳が甘く滲む。
 やさしく頬に手を添えられ、律樹が近づいてくるのを感じ、光莉は胸を高鳴らせながら、彼のしようとすることを受け入れようとしていた。
 唇同士が触れる直前に、律樹がため息をついた。
「今夜こんなふうに白状するのは卑怯かもしれないけれど、言わせてほしい」
 律樹が光莉の髪をやさしく指に絡め、愛おしそうに見つめてくる。甘い予感にドキドキしながら光莉は律樹の言葉を待っていた。
「ずっと好きだった。君のことが……ずっと好きだったんだ」
 濡れた瞳に心を撃ち抜かれて、細胞が沸騰したのではないかというくらい身体に震えが走った。
「……っ!」
「会えなくなってからも、ずっと君を想っていた。いつか、君を守るために強くなりたいと願っていた。夢にまで見るほどに、ずっと、君に会いたかった」
 律樹が想いを込めて伝えてくれるその言葉のひとつひとつを噛みしめて、光莉は泣き出しそうになるのをこらえながら、彼に問うた。
「それじゃあ、もしかして……だから、政略結婚を考えたの? それがあなたの本音?」
「君の逃げ道を塞ぐような卑怯な真似をした俺を許してくれなんて言わない。ただ、それ以上に君を愛すると誓うよ」
「――ん」
 唇が触れた瞬間、全身が痺れるような心地になった。その甘い衝撃に動けないでいると、律樹が今度は強引に唇を貪りはじめる。
 息継ぎするまもなく啄まれ、彼の情熱に煽られて、光莉は思わず律樹の頬に両手を伸ばした。脳裏に、中学生の頃に交換した御守のこと、離れ離れになった日々、再会してからのことが溢れるように蘇ってきて、混ざり合っていく。
「御守のこと覚えている?」
「ああ。忘れるはずもない」
 律樹が迷うことなく伝えてくれたことが嬉しくて、彼への想いが溢れていく。
「私も、ずっと好きだった。あなたに会いたいって思ってた。ずっと、好きだったわ」
 言わずにはいられなかった。すると、律樹が弾かれたような顔をして、光莉の唇を奪った。
「んっ……!」
「光莉……」
「律樹さ、……ん、ん」
 程なくしてキスの嵐がやってくる。瞼に、頬に、鼻に、耳に……。
「あっ」
 耳朶に触れられ、ぞくりと震えが走った。
 何度もそこを責められ、光莉は仰け反ってしまう。
「待ってっ……」
 首筋を吸いながら、律樹が光莉の素肌に触れようとする。光莉はびくりと身体を跳ねさせた。律樹の色素の薄い瞳の中に情熱が迸っているのが見える。広い肩幅や逞しい胸板が目の前に迫り、彼をいつも以上に男の人として感じてしまう。
「もう、待つ必要なんてないだろう?」
「だ、だめ。もう少しだけ……」
 息を弾ませながら、光莉は濡れた瞳で律樹を見た。
「どのくらい?」
「息ができるくらい」
 光莉が瞳を潤ませながら訴えると、律樹は微かに笑ったあと、耳の側に唇を寄せて囁いた。
「もう、待てない」
「あっ」
「そんな声を出されたら、ますます待てない」
 律樹が顔を近づけて唇を塞ぐと、舌を絡ませてきた。舌先が痺れるくらい熱烈に求められて、光莉はまた酸素不足になりそうになる。触れている部分が気持ちよくて何も考えられなくなりそうだった。
 指先、伝う舌、濡れた唇。こぼれてくる吐息、その何もかも、愛しくて。夢中で混ざりたくなる。こんな激しい感情が自分の内にあることに、光莉は驚きつつ感動してもいた。
 忘れなくてはいけないと、封印しようとしていた想いは、もう押し殺さなくてもいいだろうか。
 律樹の大きな手が光莉の肌を滑り、身体のラインを確かめていく。
 際どいところを責められ、光莉は思わず喘いで、身を震わせた。
 律樹がハッとしたように少しだけ身を離す。
「……ごめん。考えてみたら、あんなことがあったばかりだったな」
「そうじゃないの……怖くない。律樹さんならいいの。今だからこそ……あなたに触れてほしい」
 光莉は言って、律樹の胸板に手を這わせた。
「光莉……っ」
 律樹の昂った部分が光莉の入口に触れ、光莉の身体は跳ねた。律樹の大きな手に指を絡めとられ、光莉はぎゅっと律樹の手を握り返した。
 心臓が割れそうに騒がしい中、彼の情熱が体内に沈んでくるのを光莉は感じとる。
「あぁ……!」
 圧迫感にこらえきれず、光莉の唇から吐息がこぼれる。律樹は光莉を気遣うように舌をやさしく搦めながら進めた。やがて、こぼれる吐息さえ逃したくないと互いに夢中でキスをしながら、密着する肌の熱さを感じていた。
 伝わってくる激しい鼓動は、律樹のものだろうか。混ざり合ってわからなくなる。けれど、同じ気持ちで求めあっていることがわかって、たまらない気持ちになる。
 ゆっくりとだが着実に律樹が迫ってくる。より深いところで彼を感じられるようになると、初めて知った彼の愛し方に、光莉は泣きたくなるほど身悶えた。
 ふたりは結ばれたのだ。その事実が刻まれていく。
 律樹が動くたびに彼の想いが伝わってきて、光莉の内側からも律樹への想いやときめきがどんどん溢れ出していく。
「あ、ぁ、律樹さん、……っ」
 光莉の漏れる声を聞いた律樹は気遣わし気に求めていた動きをよりいっそう速めた。ベッドがふたりの重みに揺れる。深い交わりに光莉はこらえきれず息を弾ませた。律樹もせつなそうに吐息をこぼし、光莉の目尻にキスをし、濡れた瞳を向けてきた。
「君のすべてが欲しい……っ」
「私もっ……あなたが欲しいわ、律樹さんっ」
「光莉……っ」
 逞しい腕に囲まれ、彼の身体の重みを感じながら、激しく深く求める律樹に応じ、光莉は甘い誘惑に呑まれていった。

 翌朝――。
 気だるい身体を起こすと、律樹の素肌が見えてハッとする。
(そうだった。私……私たち……)
 今になって血液全部が沸騰しそうなくらいに恥ずかしくなってくる。身悶えてシーツを引きはがして繭状にでもなって隠れたい気分だった。
 もぞもぞじたばたしているのが伝わってしまったらしい。律樹が目を覚ました。
「ん、おはよう」
「お、おはよう」
 それ以上、何て言葉を交わしたらいいかわからずに火照りを感じながら黙り込んでいると、いきなり律樹が光莉を組み敷いてきた。
「り、律樹さん」
 至近距離で迫られ、えも言われぬ色気に息が止まりそうになる。光莉はそのまま硬直してしまった。
「夜の君も可愛かったが、朝の君はなんていうか綺麗だ……こうして見ていたくなった」
 起き抜けの少しハスキーっぽい擦れた声にドキドキするし、そんな直接的に甘い言葉を囁かれ、光莉はあまりの恥ずかしさにそろそろ耐えきれなくなっていた。
 狼狽えているうちに、律樹が光莉の唇を啄みながら、胸に手を這わせていく。甘い刺激に光莉は思わず声を漏らした。
「あん、待って……律樹さんっ」
「もうその言葉は聞き飽きた。君はとっくに俺のものだろう?」
 耳の側で囁き、首筋を愛撫する彼に、光莉は翻弄される。まるで歓迎に尻尾を振る大型犬を相手にしているみたいだ。律樹がこんなふうに感情をあらわにするのは珍しい。
 二回戦をはじめようというのか。光莉はついに限界を迎えた。
「ストップ、無理無理。キャパオーバー!」
「ん?」
「律樹さんって、たまにすごく……そういうところあるよね」
「そういうところ、とは?」
「自覚はないのね」
 光莉は小さくため息をつきつつ、律樹を睨んだ。天然なところがある。甘々なところがある。そして意外に獣なところもある。想定外に情熱的で、どうしたらいいかわからなくなる。
「君が欲しい。君を求めている。その自覚だけはあるよ」
 律樹の手が胸からみぞおちへ、その先へと降りていく。光莉の秘めた情熱を暴こうとする。
 こんなに積極的に求められるなんて考えたことがなかった。
「あ、ん、あぁ……っ」
 律樹に翻弄され、光莉は小刻みに上り詰めていた。やがて内側に彼の逞しさを受け入れ、再び深いところでひとつに結び合った。何度も、何度も、体内で彼を深く感じるにつれ、光莉は狂おしいほどの愛おしさを胸に抱く。ベッドが揺れ、激しくもつれ合う。時間を忘れ、ふたりはお互いに没頭した。
「止められない……いくらでも君が欲しくなる」
「私だって、そう……よ」
「それなら、一緒に溺れればいい。そういう日があってもいいだろう?」
「あ、あ……っ」
 くしゃくしゃになったシーツはまたさらにくしゃくしゃになって、引いたはずの熱が蘇り、肌は汗ばんでいく。
 朝からこんなことをしていていいのだろうか。ふしだらではないのだろうか。そんな考えが脳裏をよぎったが、彼の腕の中で激しく愛されてしまえば、もう他には何も考えられる余裕はなくなってしまった。
 好きな人に愛されるということが、これほどまでに昂揚させられるものだとは想像もしていなかった。
 初めて感じる幸せに身を委ねているうちに、ふたりの関係を面白く思わない人々がいることなど、すっかり頭から抜けていた。
 愛さえあれば、なんとかやっていけるかもしれないという希望が、問題を些末なものとして捉えてしまっていたのかもしれない。
「――せいぜい愉しんでおきなさい。そうやっていられるのも今のうちよ」
 邸の中に、不穏な呟きが消えていった。

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