さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす

 十二月になると、常盤家の別邸の庭に真っ赤な椿が花を咲かせるようになった。艶やかな美しさに目を奪われながらも、金沢の山々にうっすらと積もる純白の雪が恋しくも感じられた。
 十五時頃、生け花のお稽古でさっそく椿の花を生けたあと、光莉は別邸の稽古部屋から茶室へ移動した。今日はこのあと特に予定が入っていない。せっかく着物姿だったので、お茶を点てる練習をしようと思ったのだ。
 気の済むまで集中し、お抹茶をいただいてから、光莉は控えの間で着物から洋服へと着替えた。着物の着付け方も一から学んで、お花やお茶も少しずつ慣れてきた。ピアノは相変らず弾けないけれど、たまに律樹が教えてくれるヴァイオリンのレッスンは幼少期に戻ったみたいで幸せだった。次にレッスンするときまでに上達できるようヴァイオリンの練習をしようか、と思いつく。
 一旦自室へ戻るため、邸の方へ繋がる渡り廊下を歩く。
 曇天の空の下、まもなく日が暮れる時間だ。気温がだいぶ下がっている。空気は張りつめ、風の通り道になっている渡り廊下は指先がかじかんでしまう。今日もまたいつものように麻美に嫌がらせをされ、足に青あざができてしまったのだが 、その部分にもじんとした痺れを感じた。
 痛む場所を摩り、立ち止まったとき、久しぶりに当主の修蔵と秘書の姿を見かけた。
 相変らず修蔵とは会話をしていない。光莉は彼らの邪魔をしないように通りすぎようとしたのだが。
 風の音が止んだせいか、急にふたりの話し声が鮮明に聞こえた。
 盗み聞きしてはいけないと思いながらも、嫌でも届く彼らの言葉に不意に引っかかるものを覚え、光莉は彼らの会話に耳をそばだてた。
「今後は安泰と見ていいでしょうか。律樹様にとって光莉さんの存在は想定していたよりも大きいようですね……山谷食品も律樹様が建て直しをして上方に向かっています」
「ふん、当主としての素質があるかどうかはこれからの話だがな。律樹は思いの外優秀だった。あれは経営者にも向いている。私は確信したよ。私の跡継ぎは律樹しかあり得ない」
 山谷食品の建て直しはうまくいっている。その言葉に光莉は安堵した。ぶっきらぼうな言い方ではあるけれど、修蔵が律樹に期待しているらしいことにも。
 自然と笑みが浮かび、そっとその場を立ち去ろうとする。が、続く言葉に再び足を止めた。
「だが他の者はだめだ、才覚というものがない。そろそろ雄介も処遇を考えねばな、役に立たない人間をいつまでも遊ばせておくわけにはいかない。犠牲はつきもの、子は盤上のコマ、不要になれば弾き、新しい代わりを用意すればいい……とね」
 修蔵の声がぐっと低くなり、不穏な空気が流れる。
「あらかじめ山谷食品に目をつけていて正解でしたね」
(目をつけていた……?)
 秘書の言葉に悪寒が走る。修蔵が続けた。
「どんな人間にも必ず弱みはある。思いどおりにコマを動かすにはそこを握ることだ。そのためにわざわざやつが執着している女の父親が経営する山谷食品に圧力をかけていたのだ。私は端から 山谷食品になど期待はしていない。あれもコマに過ぎないからな。仕方なく遊ばせてやっているが不採算部門になる前に頃合いで手を引かせろ」
「かしこまりました」
「最高のコマが手に入った以上、こちらのもの。さて、今後のことを考えれば、当主の妻はもっと賢い者の方がいいだろう。いくつか候補を上げておいてくれ」
「……光莉さんのことはどうしましょう?」
「頃合いを見て邸からは出ていってもらう。ただし、無理に引き離すな。律樹があの女に執着を残さないように、女の方から出ていかせろ。子供のひとりくらい産ませてからでもいいがな。使えるコマは多い方がいい。もし、邪魔だてをしようものなら、大事にしているものから容赦なく潰せ」
 彼らは一体なんの話をしているのだろう。
 光莉はたちまち背筋にぞわりと悪寒が走るのを感じていた。
 政略結婚を伴う交渉の件は、律樹が修蔵に持ちかけたものとばかり思っていた。
『俺の方から条件を出した。父の後を継ぐ代わりに、山谷食品を守ること、社長の娘である君と結婚すること、そのふたつを、ね』
 政略結婚の話を出されたとき、光莉は彼からそう説明を受けた。しかし修蔵は律樹よりも一手先をいっていたのだ。今の修蔵と秘書の会話から察するに、修蔵は律樹に執着している。律樹を跡継ぎにするため、彼の弱みである山谷食品を陥れた――。
(そんな……)
 川岸から経営状況を詳しく聞いたことがあったが、不自然なくらい急に融資がストップすることがあったらしい。
(まさかそれも……?)
 光莉は愕然と立ちすくむ。寒さと恐怖が交互にこみ上げてきて身体ががたがたと震えだす。
 幸雄が思いつめるきっかけになったのは……あのとき憎むべきだったのは、律樹ではなく律樹の父親である常盤家の当主・常盤修蔵だったのだ。
 光莉はショックのあまりに過呼吸を起こしかけていた。凍りついてその場から動けなくなりそうだった足を必死に漕ぐようにして駆け出した。踏み板が軋む音で光莉の存在に気付いた人間がいたことを知ることもなく――。
(どうして……私は考えが及ばなかったの)
 今すぐにここから出て行きたい。背筋に嫌悪感がわきあがってきて吐き気がする。使用人たちの姿が見えると、監視の目が向けられているような気がして、すべてが自分の敵に見えた。
『光莉、これだけは覚えておいてほしい。俺はずっと君の味方だから』
 そう言ってくれた律樹の顔が思い浮かんだ。律樹に会いたい。とっさに足が動いた。けれど、同時に父の辛そうな表情が浮かんできた。律樹と光莉が無関係だったなら、そもそも山谷食品や幸雄が追い詰められることはなかったのではないだろうか。
 光莉が真実を知ったと修蔵が気付いたら。そのことを律樹に告げたと知られたら。
 邪魔だてするものは 容赦なく潰せといった修蔵がこのことで何か動きはじめたらと思うと迂闊なことはできない。
(わからない。私はどうしたらいいの)
 パニックを起こした光莉はスマホを握りしめたまま、無意識に自由になれる場所を探していた。冷や汗をかいたせいか背筋がぞくぞくして気持ちが悪い。
 邸からは許可がない限りは出られない。外へ飛び出すことができない。
 人の目を避けられる場所を求めてさまよっているうちに、光莉はいつの間にかまた裏庭の方に出てきてしまっていた。
 尋常ではないくらい息が切れていた。光莉はその場でしゃがみこみそうになり、ふらふらと側にあった柱に手をつく。
「光莉さん、どこに行くの」
 いつもの如く忍びのように現れる颯太に、光莉は度々驚かされてきたが、だいぶ慣れてしまっていた。けれど、今はそれ以上に彼に構っている余裕がどこにもなかった。
「わからない」
 光莉は颯太の顔も見ずに答えた。
「何があったの?」
「自分の愚鈍さが嫌になっていたところ」
 情けなくて、不甲斐なくて、消えてしまいたいくらい。怒りと、憎しみと、哀しみと、どうしようもないぐちゃぐちゃの感情が混ざり合って、ますます息ができなくなりそうになる。
 待って、と颯太に二の腕を掴まれた。
「颯太くん、ごめん。今は放っておいて」
「放っておけない。少し気分転換した方がいいよ」
 押し問答をする気力もなかった光莉は、力のこもった颯太の手に身を委ねるしかなかった。
「ついてきて。誰にも邪魔されないいいところに連れていってあげるよ。そこなら、少しは息もできるはず」
 そういう颯太に頷き、光莉は彼についていく。とにかく今は修蔵の目の届かないところに離れていたかったのだ。
「――ここは?」
 光莉はあたりを見渡す。
「使われなくなった蔵のあたりだよ。老朽化で必要なものは全部運び出されて金庫に保管されたから、中はもぬけの殻の倉庫って感じ。掃除もする必要がない。だから、ここにはめったに人が来ないんだ」
 蔵の向こう側に池があり、繁茂した木々や草花の向こうに光る水面が見えた。裏庭のさらに奥まったところに出たのかもしれない。きっと一周すれば、邸の正門に繋がっているのだろう。
 とにかく今は少しでも遠くにいたい。
 光莉は力が抜けたようにその場に座り込んだ。そして両手で顔を覆う。金沢にいる父の幸雄のことを考えていた。
「どうしたの」
「帰りたい。金沢に……父に会いに行きたい」
 顔が見たい。話がしたい。もういっそ、真実を伝えてしまった方がいいのではないだろうか。
「あの人と喧嘩でもしたの? ホームシック?」
「そうじゃないよ。ただ、律樹さんには早く会いたい。相談しなきゃ」
 早く帰ってきてほしい。そんなわがままは言えない。でも、一刻も早く動かなければならない気がしている。不安で胸が押しつぶされそうだ。
「残念だけど、それは叶わないよ」
「え……」
 顔を上げた途端、いきなり颯太に担ぎあげられた。さらに手に持っていたスマホを奪われる。
「何するのっ」
「さあ、何をしようかな」
 悪びれもせずあっけらかんと颯太は言った。そこにはいつもの無邪気さとは違う、酷薄さが含まれているように感じた。光莉の顔から血の気が引いた。
「颯太くん、ねえ、離して!」
「暴れても無駄だよ。あなたは、もうどこにも行けない。かわいそうだけど、仕方ないよね。そういう運命だと思うしかないよ」
 ざくざくと草花を踏みつけるように颯太が大股で歩く。光莉がいくらもがいても彼の逞しい腕からは逃れられない。スマホに手を伸ばそうものなら、担ぎ直されるだけだった。
「着いたよ。あ~あ、ちょろいもんだな」
 颯太の剣呑な響きを伴った声が、蔵の前に響いた。光莉はぎくりと身を強張らせる。
 古い蔵はすべて鍵がかかっていて誰も近づかないと彼は言っていた。しかし彼の手には錆びた鍵が持たれていた。彼はその鍵で蔵を開錠する。埃っぽくて黴くさい匂いのする暗がりがぱくりと口を開けていた。
「こんなところで、何、するつもりなの」
 光莉が問うより早く、颯太は暗がりの中に入っていき、光莉を適当な場所で下ろした。
「こういうことかな」
 颯太に思い切りブラウスを破られ、光莉は恐怖に顔をひきつらせたまま彼を見上げた。
 彼は下卑た顔でこちらを見下ろし、「いいアングル」と、愉しげに笑っていた。
「やめて……!」
「本当に乱暴はしないよ。そういう趣味はないから」
 淡々と事務作業をこなすように颯太は抑揚のない声で言った。
「だったら、なんのためにこんなことをするの」
 身体の震えが止まらない。乱暴はしないと言われても、こんな状況では信じられるはずがなかった。
 颯太は光莉から奪ったスマホをこちらに向け、撮影しはじめる。
「やめて! 撮らないで」
「このくらいで勘弁してあげるから静かにして。雇い主に報告しないといけないからね。撮らないわけにはいかないんだ」
 淡々と颯太は言う。
「雇い主って? 一体どういうことなの」
「当主の話を聞いたんでしょ」
「え?」
「律樹(あの人)を跡継ぎにするために、あらかじめ手を回して、あなたの父親の会社、山谷食品が潰れるように誘導したって」
「どうしてそれを知って……」
 光莉は先ほどの修蔵と秘書の話を思い浮かべる。
「僕を忍びみたいだって言ったのは、光莉さんだよ。全部、筒抜けなんだよ、この家ではね」
 皮肉げに颯太は苦笑する。
 たしかに都合よく颯太は現れた。
 まさか、修蔵が颯太にやらせているというのか。光莉の中にまた先ほど爆発しそうになっていた怒りがこみ上げてくる。
「最初に僕に依頼してきたのは、麻美だよ」
「麻美さんが……」
 今まで散々嫌がらせをしてきた麻美のことが脳裏に蘇ってくる。猫の件といい、雄介の件といい、ひとりではなく協力者がいたことは明白だろう。その協力者が颯太だった。颯太が親しくしてくれたのも、光莉を油断させるための罠だったということなのだろうか。助けてくれたことも嘘だったということなのか。
 信じがたい想いで光莉は颯太を見た。
「よっぽど、あなたのことが気に入らないんだろうね。まあ、そりゃそうさ。夫は世継ぎ候補にさえなれず、嫁としても目をかけられず、完全に無視されていた。だというのに、突然やってきたあんたが周りからちやほやされ、夫には愛情いっぱいに愛されている。麻美にはちょっとだけ同情するよ。いないもののように扱われることの虚しさは……僕にもよくわかるからね」
「……っ」
「麻美が僕を使っていることを、当主は知ってる。というか知らないことなんて何もないだろう。わかっていて麻美よりもいい条件を出してきた。僕はただ乗り換えただけ。こういうのこそ光莉さんのいう忍びらしいじゃない。これは僕がこの家で生きるための術なんだよ。あなたをどうにかしたいっていうわけじゃないから、悪く思わないでほしい」
「……その命令に従って、私をここに閉じ込めておくつもりなの?」
「半分は正解。聞いただろ、当主はあの人の妻の座(あなたの場所)をあけて欲しいって。閉じ込めておくかどうかはあなた次第だよ」
 光莉を出ていかせるためにこんなバカげたことをしたのか。修蔵は光莉が話を立ち聞きしていたことに気付いていたのだ。
「あの人に助けを求めようだなんて思わない方がいい。光莉さんが邸から逃げようとしなければ、監視だけで済むよ。それから、 万が一、あの人に余計なことを喋れば、あなただけじゃなくて、あの人もただでは済まないだろうからね。当主を甘く見ると痛い目に遭うよ」
「ひどい。律樹さんは約束をきちんと守ったのに」
「さぁ。僕に言われても」
 颯太が憐れむように片眉を上げた。
「まあ、この画像をあの人に送りつけた方がずっと傷は深そうだよね。あなたのことをあれだけ溺愛していれば」
 見てきたと言わんばかりの舐め回すような視線に羞恥心をいたずらに煽られ、光莉は唇を噛んだ。
「最低」
「いい? 画像データはとっくに共有済みだ。あなたが何かしようものなら、あなたの父親にこれを送りつける。父親はショックを受けるだろうね。結婚して幸せなんて真っ赤な嘘で、潰されそうな会社と引き換えに、娘はこんなところに虐げられているんだって知るんだから。どんな気持ちになるだろうね」
「……っ」
 父の心配そうな声や別れ際の寂しそうな表情を思い出して、胸が押しつぶされそうになる。なんのために嘘をついてここへきたのか。これが光莉の守り方だと思った。父が守ってきた山谷食品を守るために。屈したくないからこそのんだ条件だったのに。
 理不尽な目にあっても、気持ちだけは負けないように、律樹と一緒に未来を拓こうと新しい目標を抱きはじめていた。それは甘い夢だったのだろうか。
 光莉の内心を読むように颯太は言った。
「光莉さんは甘すぎるよ。この敷地に足を踏み入れた瞬間から家畜なんだよ、俺たちは。少しでも甘い汁を啜ったなら、死ぬまでずっと利用されるか、惨たらしく捨てられるだけだ。夢を見るだけ無駄さ」
 颯太は吐き捨てるように言ったあと、光莉の顎を指先で持ち上げた。
「あなたのことは気に入ってたから本当に乱暴する気までは起こらなかったんだけど、ちょっとくらいは気持ちよくしてあげてもいいよ。この際、本当にヤッたかどうかなんて確かめようがないしね」
 光莉は震えをこらえ、気持ちで負けないように彼を睨むだけだった。
 しばらく睨み合いが続いたあと、
「なんて、無理矢理なんてつまんないから、やーめた」
 颯太は興味を失ったように光莉から離れた。スマホの画面を見ながら、時間の確認でもしているのか。少し底冷えしてきた寒さに身を震わせると、颯太は着ていたジャンパーを脱ぎ、光莉に羽織らせた。
 本当は、颯太はこんなことをしたくないはず。彼はやさしい人のはずだと思うのは、甘いのだろうか。
「颯太くんは、ずっとこうしている気? あなたにこんなことまでさせる人が憎くないの? ずっと言いなりのままなの?」
「ここから出て行ったあと、しばらく遊んで暮らせるぐらいの相応の対価を約束してもらったんだ」
「嘘をつくかもしれないわ。私や律樹さんが騙されたように」
 光莉が食い下がると、颯太は呆れたように笑った。
「あなたは当主のこと何もわかってないね。修蔵は金のことでは嘘はつかない。利益になると思うものにはいくらでも払うんだよ。あの人の血液は金と権力でできてるようなもんだ。それを思うとさ、血の繋がりのない麻美と当主のほうがよほど親子らしいよね。考え方がやばいくらい一緒なんだからさ。それでも麻美の方がまだガキみたいにばかばかしくてマシ。あの親父は自分の手を汚さないで汚いことを平気でするんだ。本当に……反吐が出るよ」
 最後のそれが颯太の本音かもしれない。
 ふたりの間に沈黙が降りたときだった。
 蔵の外で大きな物音がした。
「光莉様!」とメイドたちの声がした。 助けを求めようと衝動的に動こうとした光莉に対し、颯太が何かを言いたげにする。
 ああ、これすらも仕組まれていることなのだと、光莉は察知した。
「光莉様、ご無事ですか」
 慌てて駆け寄ってきた数人のメイドに囲まれて、光莉は颯太から引き離される。
 遠くの方に、忌まわしき悪魔……常盤家当主の気配があった。
「離れの座敷牢に連れていきなさい」
 使用人たちに囲まれ、颯太の身柄が確保される。
「……っ話が違うじゃないか!」
 颯太が表情を強張らせ、声を上げる。だが、修蔵は反応を示さず、冷たい目で見下ろすだけだった。
「長男の嫁に懸想をするなど、なんと愚かな。恩を仇で返すとはまさにこのこと。この男に罰を与えたあと、然るべき処分を下し、常盤家の邸より追放する」
 座敷牢なんていうものがあることにも驚く。なんて悍(おぞ)ましい。
 颯太が虚ろな目でこちらを向いた。その意味を、光莉は理解した。
 どこまでも汚い――光莉は歯噛みする。
 颯太を利用するだけ利用したら捨てるつもりだったのだ。相応の対価を約束してもらったと彼は言った。それは守られるのかもわからない。この邸にいられなくなることだけではなく、彼も何かを背負わされたのかもしれない。
 悪魔は、光莉の目の前に立ちはだかった。
「光莉さん、かわいそうに。こんなところにはいたくないと思っているんじゃないかね。出ていってくれてもいいんだよ。こちらのことは安心するといい。この件はこちらで片付ける」
 修蔵が猫撫で声で語りかけてきて、光莉は嫌悪する。すべて自分の計画のくせに。
「ただし、く れぐれも他言は無用だ。君は賢い女性のようだから、その意味がわかるね? 万が一スキャンダルになりでもしたら、律樹の立場がどうなることか」
 修蔵は自分で光莉を襲わせておいて、すべての罪を颯太に擦りつけようとしているのだ。それだけじゃない。光莉の行動によっては律樹に何かよくないことが起こるかもしれない、と脅しているのだ。
「いくら私の力をもってしても律樹を守り切れるかどうか……そうなれば、我々一族皆が困ることになる。我々は運命共同体なのだから」
 運命共同体、という言葉は、手枷や足枷と同じだけ重たい。修蔵からは見えない刀を向けられている。ともすれば、今にも喉笛を潰されそうな圧力を感じた。
 律樹に何かあったら困る。何も武器を持たない光莉にはどうすることもできない。ただ、この人のことだけは許さない。光莉はそう心に刻んだ。
「律樹さんのことだけは絶対に傷つけないでください」
 こんなふうに光莉が傷つけられたことを知ったら、律樹は光莉以上に傷つくだろう。
 修蔵は不敵な表情を浮かべ、にやりと口の端を引き上げた。
「言われるまでもありませんよ。大事な跡取りなのだからね」
 むしろ修蔵に必要なのは律樹だけなのだろう。颯太の言っていた家畜という言葉が脳裏をよぎる。光莉を陥れ、必要なら子を孕まさせ、そして惨たらしく捨てることに迷いはないのだ。
 光莉の頭の中に描かれた夢は、砂の城のようにほろほろと脆く崩れていく。律樹の笑顔が、彼との未来が、壊れていく……今以上にもっと何かが起きるのではないかという胸騒ぎだけが、いつまでもおさまらなかった。

「光莉、どうした。なんだか顔色が悪いみたいだ」
 帰宅した律樹を部屋で出迎えると、律樹は光莉を心配そうに見つめてきた。
 光莉はぎくりとしたが、すぐに笑顔でごまかした。
「大丈夫。ちょっと身体が冷えたのかもしれない」
 あのあと――蔵から解放されたあと、光莉はすぐにシャワーを浴び、湯船に浸かった。破かれたブラウスはメイドに処分してもらった。幸い怪我はしてない。本当に襲われたわけではない。けれど、光莉はひどい喪失感に苛まれ、寝室のベッドにずっと臥せっていた。
 メイド長の白井に律樹の帰りを知らされてから、光莉はどんなふうに律樹を迎え入れたらいいかわからなかった。ぎこちない笑顔でおかえりなさいと告げた。察しのいい律樹が気付かなかったくらいなのだから、上手にできていたのだろう。
 ここにいると、最初はあまり得意ではなかった作り笑顔が、どんどん上手になっていく。それもまた自分自身不気味に感じてしまう。
 さっきからずっと悪寒が止まらない。自分で自分を抱きしめていなければ、がたがたと震えてきてしまう。ただ単に冷たい場所にいたせいではなく、あまりの衝撃に心が冷え切っているのだ。
 光莉の頭の中には幸雄の顔が思い浮かんでいた。
(お父さんと話がしたい。やっぱり、真実をちゃんと知らせるべきじゃないの……? でも、邸からは簡単に出られない。監視がついている。律樹さんには相談できない。あの当主なら本当に律樹さんをひどい目に合わせかねない。なら、どうしたらいいの……)
 颯太にはもう頼れない。彼は味方ではなかった。そればかりか、修蔵や麻美の手下だったのだ。忍びのような真似をしていたのも最初から。そのために光莉に近づいてきたに過ぎない。そして彼は修蔵に裏切られ、邸を追放されることになったのだ。
(騙されていた。甘すぎる……本当にそうだわ)
 もし律樹にまで騙されていたら……不安に押しつぶされるあまり、そんな考えが浮かんでしまい、光莉は慌ててかき消す。
 そんなはずがない。律樹だけは絶対に違う。彼は、降りかかる災難から助けてくれようとしたのだから。そうでなければ、今ごろ山谷食品は潰れていた。幸雄の病だってもっと悪くなっていたかもしれない。
 けれど、そもそもの災難は、修蔵が律樹や光莉の背景を調べた上で企てたことだったのだ。律樹と光莉が繋がってさえいなければ、この状況には陥っていなかった。
 堂々巡りの考えがぐるぐると頭の中を回っていて、吐き気がしてくる。
 ふわりと包まれた感触がして光莉は顔を上げた。ブランケットごと律樹に抱きしめられていた。
「しばらくこうしていようか」
 律樹の腕の中にいるとほっとする。
「うん……」
 少しずつだけれど震えがおさまっていく。
 不意に目が合って、律樹が顔を近づけてくる。いつもならその唇を受け止め、幸せな気持ちになっていた。けれど、今はとてもそんな気になれない。
 光莉はとっさに律樹の唇に手を押し当て、唇を拒んでしまった。不思議そうな顔をしている律樹に、光莉は慌てて取り繕う。
「ごめんなさい。もし、風邪だったら、あなたにうつしてしまうかもしれないし」
「体調が悪いときにごめん」
「ううん。律樹さんにこうして抱きしめてもらっているとすごく安心するの。くっついていてもいい?」
 甘えていたかった。広い背に手を伸ばし、彼の胸にすっぽりと包まれている。せめて束の間のこの時間だけは忘れていたかった。
「構わない。君が望むなら、いくらでもこうしている」
 律樹のやさしさに癒され、光莉は目を瞑る。彼の温もりや匂いにほっとする。
 けれど、それを邪魔するように、さっきの光景がフラッシュバックする。
 律樹に言ってしまいたい。喉元まで出かかるのをこらえていたそのとき、無機質な通知音が突如ふたりの間に割って入った。光莉はびくりと大げさなくらいに反応してしまった。
「君のじゃないか?」
 と、律樹が音の在処を探す。
 そういえば、蔵の騒動以降スマホの通知を確認していなかった。ベッドの隅に置いていたスマホを急いで確認すると、着信が大量に残されていた。父が通院している病院それから山谷食品の事業所からのコールだった。
 父に何かあったのだろうか。光莉の顔からさっと血の気が引く。
 光莉はすぐに父の携帯にかけ直した。
 通話に出たのは父ではなく――川岸だった。以前に倒れたときと同じだ。嫌な予感がして、光莉はすぐに川岸に問うた。
「お父さんに何かあったんですか?」
『光莉さん、落ち着いて聞いてくださいね。社長がご自宅で倒れて……』
 午後、光莉が閉じ込められている間に、幸雄は倒れたらしい。
『それから、ついさっき……』
 川岸が言葉を詰まらせる。告げられた無情な事実に、光莉は震える手でスマホを握りしめたままその場で立ちすくむ。
「そんな――」
 すべての音が遠ざかり、何も聞こえなくなっていく。頭が真っ白になっていた。
「光莉?」
 律樹の声がして、光莉はハッとする。
「……っ律樹さん、父が――」
 ついさっき息を引き取った。その事実を受け止めきれず、言葉がうまく出てこない。
 律樹の顔が強張ったのがわかった。瞬く間に光莉の視界がぼやけて彼の表情が見えなくなっていく。
「急いで向かおう」
 律樹が光莉の肩を抱き寄せ、頭をやさしく撫でてくれる。光莉はただ頷くしかできない。今は何も考えられなかった。
 それから光莉は律樹と共に急ぎ金沢に向かったが、自分がどこに立っているのかもわからなくなるほど、まるで宙を浮いているようだった。故郷に帰ることを許されたのが、こんなときだけだなんて、あまりにも哀しすぎる。
 嫌だ。信じたくない。顔を見るまで信じたくない。また声が聞けるはずだ。また笑顔が見られるはずだ。
 これは嘘で、悪い夢で、現実ではないのだと、誰かそう言ってほしい。
 移動中に通知がひとつ届く。
【余計なことを喋れば、すべて容赦なく潰す】
 追い打ちをかけるようなあまりにも残酷なメッセージを見て、光莉はスマホを握りしめ、唇を噛む。脳裏には修蔵の下卑た笑みが浮かんでいた。
 病院に到着し、幸雄と対話することを願っていた光莉は、それが叶わぬ現実だと思い知る。青白い顔をした幸雄が目を少しだけ開いたまま、虚空を見つめていた。呼吸は止まり、魂がそこにはもうないことを示している。とっさに握った手は冷たく、とうに温もりが失われていた。
「お父さん、お父さんっ……!」
 光莉は幸雄の亡骸に縋りながら、何度も父を呼んだ。
 父は何も知らずに逝ってしまった。
 真実を伝えることができなかった。花嫁姿を見せてあげることだってできなかった。
 ぷつりと、繋ぎとめていた糸が切れそうになる。
 律樹さん、私、あなたのそばにいられない。耐えがたい喪失感から、そんなふうに弱音が溢れ出してしまいそうになる。
 光莉はそれすらものみ込んで、ただ絶望に打ちひしがれる他になかった。

* * *

 年が明けてから、光莉は常盤家の行事を淡々とこなした。幸雄が亡くなって四十九日もまだ過ぎていない中、本来なら正月行事は控えるのが筋だが、常盤家に嫁いだ光莉には当然のように喪に服する権利もないらしい。
 哀しみと虚しさと憎しみと、まとまりのつかない感情が行ったり来たりする。そしてどうしようもない喪失感に心が冷えていくのを感じていた。
 会いたくてももう会えない。何も知らずに父はこの世を去った。その事実を光莉はどうしても受け入れることができずにいた。
 幸雄を喪ってからというものの、光莉は着物の帯をきつく縛るように心までも閉ざし、魂のない人形のようだったかもしれない。
 律樹が心配してくれても、白井が世話をしてくれていても、周りを気遣う余裕はなかった。律樹と共に夫婦になっていこうと目標を立てた希望が見えなくなっていく。一体何のためにここにいるのかがわからなっていく。
 ここから出て行きたい。今すぐ消えてしまいたい。そんな衝動に駆られることもしばしばあった。
 いくら麻美に嫌味を言われても、意地悪をされても、何も感じなくなってしまっていた。
 そんなある日のこと――。
 朝から熱っぽくふらふらしていて、急に吐き気を感じた光莉は、不思議な感覚に苛まれる。
 精神的な不調が続いていたせいで、いよいよ身体的にも影響がではじめたのだろうかと思ったが、同時に、生理がしばらくきていなかったことに気付いたのだ。
(もしかして……妊娠してる?)
 律樹と愛し合っていたら、いつかはそうなることももちろん考えていた。けれど、前とは状況が違っている。よりにもよってこんなときに妊娠だなんて――。光莉は先の見えない不安に駆られた。
 ひとりで自由に外出できいない状況であるため、病院に行ってしまえば、常盤家の人々の耳に入るかもしれない。
 自由のない邸の中、光莉はじわじわと危機感を抱いた。
 もしもお腹の子のことが当主の耳に入ったら?
『――子供のひとりくらい産ませてからでもいいがな。使えるコマは多い方がいい。もし、邪魔だてをしようものなら、大事にしているものから容赦なく潰せ』
 修蔵の言葉が脳裏に蘇ってきた。
 最悪子どもだけを奪われ、光莉は邸から追い出されるかもしれない。想像しただけで身震いがする。そうしている間にも何度も吐き気がこみ上げてきては慌ててハンカチで口元を押さえ、浅い呼吸を繰り返した。
「若奥様、どうなさいましたか」
 メイド長の白井に声をかけられ、光莉は表情を強張らせる。常盤家の人間は律樹以外もう誰も信じられない。しかしこのままでは埒が明かない。どうしようか迷った末、光莉は白井に相談することにした。
「誰にも言わないと約束をしてほしいの」
 もしも妊娠判定がはっきりしたら、自分の口から律樹に伝えたいと念を押し、情報が少しも漏れないように白井に頼んだ。
「承知しました。すぐに行ってまいります。決して口外いたしませんのでご安心くださいませ」
 白井は何も勘繰ることなくすぐに応じてくれた。
「白井さん、ありがとう」
 彼女には信頼を置いていた。一族の人間に辛い仕打ちをされても、白井だけは変わらずに接してくれていた。 律樹と光莉のことを見守ってくれていたようだし、若奥様と呼んで目をかけてくれたことを感謝もしている。
 たとえ彼女に裏切られたとしても、病院に行ったわけではないし、まだ判定する前ならいくらでも言い逃れくらいはできるだろう。白井には今まで親切にしてもらったのに、そんなふうに考えてしまう疑心暗鬼な自分に嫌気がさしてしまう。
 ここにいると考え方が変わってしまうのだろうか。水が濁っている方へと移ろっていくように。
 そして光莉は白井に買ってきてもらった妊娠検査薬でひとりになってから検査をし、その結果、やっぱり……と腑に落ちていた。くっきりと妊娠陽性の判定ラインが浮かんでいたのだ。
 妊娠している――。
 律樹との赤ちゃんがお腹の中にいる。
 彼に愛されて授かった命がここにある。
 かつて途絶えかけた律樹との縁が結ばれて、そして繋がり合えた。奇跡のような運命を感じる。
 律樹が知ったらどんな顔をするだろう。彼がとても喜んでくれる笑顔が自然と思い浮かんで、胸が甘く締めつけられた。
「……っ」
 どうして今なのだろう。光莉はその場で泣き崩れた。
 愛する夫との子どもを授かることは、奇跡のように嬉しいことのはずなのに、どうしてこんなにも絶望を抱いてしまうのだろう。
 どうして律樹とはこういう再会のし方しかできなかったのだろう。もしも違う出逢い方をしていたら、普通に幸せな家庭を築けただろうか。今頃手放しで抱き合って喜んでいただろうか。そんなふうにありもしない想像をしてしまう。
 気分が少し落ち着いたあと、光莉は今後の身の振り方をどうすべきか考えていた。
 このままではダメだ。力をつけないと。何も守れない。常盤家の状況を考えたら、これまで以上の地獄が待っているかもしれない。
 愛人の子がコマのように扱われる様を目の当たりにしてきた。数々の仕打ちを考えたら、このままではお腹の子も颯太や律樹のような目に遭うかもしれない。麻美の嫌がらせは続くだろう。何よりも脅威なのは常盤家の当主である修蔵の存在だった。
 赤ん坊を取り上げたあと、光莉だけを追い払うことが容易に想像できた。
(そうはさせない)
 とはいえ、現状、光莉にできることは、ただ隠し通すことだけだ。それも、お腹が大きくなってきてからは通用しないだろう。
 もう幸雄はこの世にはいない。父がいない今、主力商品のブランド名も変わった「山谷食品」を守ることに意味があるのかわからない。脅されていて律樹には話をすることができない。颯太は味方ではなかった。白井にこの件で相談してみるべきだろうか。けれど、もしも話が漏れてしまったらと思うと怖い。完全に安全な場所は常盤家の中にはない。
 どうすべきなのだろう。どうしたらいいのだろう。
 答えはいつになっても出ないままだった。

* * *

 金沢で父の四十九日の法要に出席したあと、もういっそこのまま東京に戻らず逃げ出してしまおうかという衝動を何回やりすごしたかわからない 。律樹は山谷食品の新事業の件 で金沢に残っている。光莉を心配して一旦一緒に戻ってくると申し出てくれたが、妊娠を覚(さと)られたくないという思いもあり、光莉は大丈夫だと断った。
 鎖に繋がれたような気分で東京の邸へと戻る途中、光莉は乗っていたタクシーの窓越しにある人の姿を発見する。
 無視してもいいかと思ったが、なんとなく気がかりになり、タクシーが邸の門に到着する前に、光莉は運転手にここで降ります、と告げた。
 タクシーが去ったあと、光莉は男に近づき、声をかけた。
「変装してるみたいだけど、この邸のまわりをうろうろして平気?」
 帽子を目深にかぶってサングラスをしていた男が、こちらを驚いたように見る。
 その男は、颯太だった。彼は周りを気にかけながら、光莉に近づいてきた。
「あなたのことが気になってた。一応、謝ろうと思って」
「やっとの思いでここから出たのに、わざわざ言いに来たの」
 光莉が呆れたように言うと、颯太はばつの悪そうな顔をして歩み寄ってきた。
「ひとりだけ足抜けしたみたいで、なんとなく後味が悪かったからね」
「あのあと、どうしていたか気になってたわ」
「一悶着はあったけど。すぐに解放されて晴れて自由の身だよ」
「そう。とりあえず……無事ならよかった」
 光莉はほっと胸を撫で下ろした。見たところどこか大怪我をしているわけでもない。座敷牢がどうのという話をしていたので密かに心配していたのだ。あのままでは夢見が悪い。
「ちょっと待ってよ。あなたさ、お人よしすぎない? 俺はあなたを騙した人間だよ。あんな目にまで遭って……どうかしてるよ」
「もちろんあのことを許す気はないわ。でも、あなたにとっては雇用主に命じられれば、仕方なくやるしかなかった。『忍びの仕事』だったんでしょう。おそらくあなたも弱みを握られていたんだってわかったもの」
 一瞬だけ見せた悲しい顔を、光莉はよく覚えている。そうでもなければ、颯太がひどいことをするような人ではないことも一緒にいて感じていたことだ。きっとあの蔵でのことも暴行するように命じられていたと思う。だが、彼は写真に撮ってふりだけで終わらせた。
「……そうだとしても、光莉さんを傷つけたのは事実だよ」
 まるで颯太の方が傷ついたみたいだった。そんな彼を見ていたら責めることなんてできなかった。
「だいたい本当の悪人だったら、わざわざ謝りにきたりしないわ。一緒に過ごした時間すべてが嘘だなんて思えない。庭師の仕事も本当は好きだったんじゃない?」
 颯太は困ったように笑った。
「逞しいのかお花畑なのか、よくわからない人だな。まあ、あなたのおかげで俺も自由になれたわけだし、一緒にいた時間が楽しかったのは本当だ。感謝してるよ」
 きまりわるそうに、だが朗らかに颯太は言った。
 縛られていた世界から解放された彼はどこか力が抜けていい表情をしているように思う。
「逞しくなんてないよ。私も今すぐ逃げ出したい。自由になりたい」
 光莉は無意識に口にしていた。これからまた籠の中の鳥にならなければならない。お腹の子のこともいつまで隠し通せるものか。答えは出ていない。一番は、邸から出て子どもを産むことだ。
 光莉がそっとお腹に触れると、颯太はピンときたらしい。
「待って。光莉さん、ひょっとして妊娠してるの?」
 光莉は頷くことなくただ黙っていた。
 今さら颯太が光莉を危険な目に合わせるとは思わなかったが、監視はされているかもしれないからだ。
 しばしふたりの間に沈黙が流れた。
「手伝ってあげようか」
 颯太の言葉に、光莉は弾かれたように彼を見た。
「忍びらしく、あなたをこっそり連れ出して逃げることくらいはわけないよ。こっちは色々そういう伝手がある」
 冗談で言っているわけではないということが、彼の表情から伝わってくる。
 光莉の中に迷いが生じた。
「勘違いしないでほしいんだけど、そそのかすつもりで言ったんじゃないよ。これは、あなた次第だ。生活の面倒まで見られないから、光莉さんにどこか行く当てがあるなら……だけどね」
 行く当てと聞いて、光莉が思い浮かぶのは金沢の実家と山谷食品のこと。けれど、せいぜい実家に籠城するだけで関の山だろう。すぐに連れ戻されるのが目に見える。それでは意味がない。
「それと、忘れたわけじゃないよね? あの家から逃げれば、あの人にあの写真を突き付けられることになる」
 乱暴されたと見せかけたあの蔵での出来事が再び鮮明に蘇ってきて、光莉と颯太はお互いに気まずくなり目を逸らした。
「……あれを使って、俺との関係を歪曲されて吹聴されるかもしれない。光莉さんのお腹の子の父親は、あの人じゃなくて俺だってことにされるかもしれない。汚い女とは手を切れと言い募るかもしれない。スキャンダルをでっちあげるかもしれない。お腹の子だけを奪って、あなたを追い出すかもしれない。新しい婚約者にすげ替えて、お腹の子は俺のように忍びをさせられ家畜にされる。反論を阻止するために、山谷食品を今からでも潰すことだってわけないさ。修蔵の考えそうなことはいくらだって何だって思いつくよ」
 颯太は乾いたため息をついた。
「颯太くんの考えは間違っていないと思う」
【余計なことを喋れば、すべて容赦なく潰す】
 スマホに残されたメッセージを表示し、颯太にそれを見せた。颯太はかぶりを振った。
「その送り主は俺ではないね」
 ということは、修蔵以外には考えられない。麻美が脅しに使ったことも考えられるが、彼女に実際そんなことはできるはずがない。当主を恐れているのは彼女も一緒なのだ。
 修蔵の立場ならば容赦なく何でもできる。だからこそ律樹は政略結婚と結び付けて光莉を守ろうとした。
 けれど、修蔵はさらにその裏に手を回している。修蔵の前では正義や正論や正当な手段など通用しない。平気で人を陥れ入れる。脅しだけで済むとは思えない。ほんとうにすべてを潰そうとするだろう。
 修蔵のことを考えると、ぞくりと悪寒が走った。
「きっとこれからも何かあるたびに脅される。律樹さんに告げ口をすれば彼に何をされるかわからない。私が一番守りたかった父はもうこの世にはいない。父の代わりに守りたかった山谷食品は……前のような姿ではなくなってしまった。このままではただの奴隷でしかないわ」
 それなら、なんのための政略結婚だったのだろう。結局、そこに考えが行き着いてしまうのだ。
 常盤家に来てから、本当の夫婦になりたいと願い、律樹となら叶えられると信じて、至らないながらも努力してきたつもりだ。
 律樹のことは愛している。彼とこれからも一緒にいたい。乗り越えていきたい。その気持ちはたしかにあった。けれど、この状況では、常盤家の中で出産してからの未来が思い描けない。きっと今のままでは律樹も光莉も共に不幸になる。そんな悪い予感しか描けなくなってしまった。
 戻っても地獄、逃げても地獄。
 それなら――。
 少しでも未来を開ける可能性がある道を選びたい。
「連れ出して」
 光莉は意を決して告げた。
「本気?」
 颯太の方が戸惑った顔をしている。
「どうしてそんな顔をするの。冗談だった?」
「まさか。そこまであなたに意地悪する理由はないし。でも、いいの? あの人のことを諦めても……愛しているのは、本当だったでしょ」
 諦めたくはない。騙すことはしたくない。
 律樹との子どもを授かったことを、誰よりも喜んでほしかった。けれど……。
「愛しているから……愛しているからこそよ」
 泣きそうになるのを我慢して、光莉はそう告げた。颯太は意表を突かれた顔をする。
「あなたなら、夫婦で手を取り合ってこれからも頑張っていくつもりだって綺麗ごとを言うかと思った」
 責任を感じたのだろうか。颯太はそう言って肩を竦めた。
「正攻法だけが正解じゃない。綺麗ごとじゃ大事な人を守れないことがよくわかったもの」
 律樹がどうして政略結婚を考えついたのかが今になってよくわかる。正攻法では修蔵には敵わないからだ。そして実際、修蔵は手強い相手だった。
 汚い手を使って陥れることを平気でする修蔵が、律樹に何をするかわからないと思うと怖い。修蔵の手に渡った我が子がどんなふうに利用されるかと考えるだけで悍ましい。
「愛しているからこそ守りたいの」
 律樹を守りたい。彼が光莉を守ってくれたように。そして、律樹と子どもを守りたい。それが、自分に今できる最良のことではないだろうか。その願いを叶えるためには、このまま常盤家に身を置いておくわけにはいかない。時間は、有限なのだから――。
「覚悟はできている? もしもあの人との子を妊娠しているということが知れたら、あなたは常盤家の次期当主の種を盗み出し、勝手にいなくなった誘拐犯っていうことにされるかもしれない」
 颯太は光莉を試すような目で見た。誘拐犯という言葉が胸にずっしりと重たく沈み込んでくる。
「きついこと言ってごめん。でも、そんなふうに当主はあなたから子どもを引き離すことくらい平気でするよ。そして、あなたが最も苦しむだろう残酷な手段を選んでくる。常盤修蔵はそういう人間だ」
「……そうね。そうでなくても、端からそうだったのよ。律樹さんさえいればいい、跡継ぎさえ残せばいい、そして私はいつか追い出される運命だった」
 光莉はハッとした。
「もしかして、それを知っているからこそ麻美さんは雄介さんとの子どもを作らない……いえ、時間稼ぎをしているの? 常盤家から追い出されないために?」
 子どもは道具だと、修蔵は考えている。都合のいいように選別するために愛人の子を住まわせているくらいだ。麻美に子どもが生まれれば、光莉と同じように修蔵の声ひとつで用済みの烙印を押される可能性はある。そのことをあの麻美なら察しているかもしれない。その刻限を引き伸ばすことで、最大限の恩恵を受けようということではないだろうか。実際、修蔵は雄介を跡継ぎにするという考えはないようだ。
「そうだよ。正直者が馬鹿を見る世界だよ。光も何もない闇の中。呼吸するのだけで精一杯の世界だ」
 颯太は苦虫を噛み潰したような顔をする。そして、最後の答えを求めた。
「罪滅ぼしとして、あなたが望むなら、その願いは叶えてあげるよ。よく考えて」
 颯太は名刺サイズの紙を光莉に手渡した。知らない番号とアドレスだ。
「適当な名前で登録してその紙は捨てて。履歴は残さないように気を付けて」
 光莉は黙ったまま頷く。颯太はじゃあ、と踵を返した。
 これこそが悪魔の契約だとしても、光莉にはもう選択肢が残されていなかった。
(律樹さん、ごめんね……もう、大事な人が傷つくのを見るのも、失うのもいやなの。あなたを守りたい。この子は私が大事に育てるから……だから許してほしい)

 翌日――。
「私と別れてほしい」
 光莉は律樹とふたりきりになってから、そう告げた。
 常盤家を出て行くためには、律樹にも協力してもらわなければ無理だと颯太と話して決めたことだった。
 きっと律樹は光莉のためならば身を引くだろう。そのために協力は惜しまないだろう。それなら、それを利用して、無理矢理に逃げ出すよりも、律樹に手助けをしてもらった方がいいという結論が出たのだ。
 そのためには、彼を騙し、偽り、傷つけなければならない。どんなに心が痛くても、この先の未来のために、乗り越えなくてはならない。
「本気で言っているの?」
 律樹は光莉の心を覗き込むように問いかけてきた。目を逸らしたら追及されそうで、光莉は必死にこらえた。
「元々、政略結婚からはじまったんだし、父が死んでしまって、山谷食品を守る意味もなくなってしまった。ご当主はあなたがこの家を継いでくれたらそれでいい。今の私を縛っているのは……律樹さんだけなのよ」
 そう、修蔵の執着心はすべて律樹に向けられたもの。今、律樹と離れなければ、お腹の子を守ることはできない。
「耐えられなくなった? 悩んでいることがあるなら言って。俺が必ず力になる」
「そういうことじゃないの」
「常盤家から離れたいなら、俺も一緒に出て行こう」
 どこまでも光莉のことを考えてくれている律樹を愛おしく思う。
「そんなことできるはずないでしょう。あなたは望まれてここにいるんだもの。そんなことはできないってあなたが一番よくわかっているはずよ」
 律樹の表情が苦悶に歪む。離すまいと、光莉を閉じ込めるように抱きしめた。
「君を手放したくない。頼む。もう少しだけ時間をくれないか。俺が必ず君を守るから。そのために俺はっ」
 律樹の言葉を遮り、光莉は頭を振った。
「無理よ。今のままじゃ無理」
「光莉、こっちを見てくれ」
「無理なの。律樹さんと私じゃ一緒に生きていけない。何もかも違うんだってわかった」
 目から涙が溢れて視界がぼやけていく。その一方、心の中にある想いがはっきりとたしかなものであると実感していた。
「愛してる、光莉」
 切実な彼の声が鼓膜に届いて、息が止まりそうになった。
「君を、愛しているんだ」
 ――私もあなたを愛している。そう言ってしまいたい。
「光莉は、俺を信用できないのか?」
 ――あなたを心から信じている。そんなふうに本当は伝えたい。
 けれど、それはできない。愛しているからこそ、言葉にはできない。
 光莉は震える唇を開き、想いとは裏腹の嘘をつく。
「ただ、私を、自由にしてほしい」
 ――本当は、ずっと、あなたの側にいたい。
 何かを告げようとしている律樹に、光莉は彼のその言葉を封じるように先に告げた。
「あなたと再会できたことは幸せだったと思ったよ」
「これから君を絶対に幸せにする。前に約束しただろ。結婚式を挙げるっていう約束、ちゃんと叶えよう」
 光莉は首を横に振った。
「結婚式だってお父さんに見せられないんじゃ意味がないわ。常盤家の一員になること、私には荷が重かったよ。律樹さんのようにはうまく立ち回れない。もう心がついていかないの。協力して、解放してほしい。それに、私ほかに好きな人ができたの」
「光莉……本気で言っているのか?」
 律樹が光莉の肩を抱く。その手を、光莉は押し返した。
「ねえ、りっちゃん、やっぱり訂正するわ。私たちは再会しない方がよかったのかもしれないね。綺麗な思い出のまま、あの頃の私たちのまま……」
「俺は後悔なんてしなかった。君に、ずっと会いたかったんだ。君も同じ気持ちだったんじゃないのか?」
 ずっと会いたかった。彼に恋をしていた。そして、彼を愛してしまった。
「守ってくれたことは感謝してる。色々私のためにしてくれたことも嬉しかった。これから、あなたに迷惑をかけてしまうこと、本当にごめんなさい」
 涙がこぼれないように、ただそれだけ。
 泣くのはあとからでいい。
 愛している。だからこそ、今は離れなくてはいけない。どうかわかってほしい。

* * *

『わかった。父には俺から伝える。根回しもしておくよ』
 律樹が告げた途端、ホッとした表情を見せた光莉のことが忘れられない。
 あんなに辛そうに訴えてくる光莉を見ていたら引き止めることなんてできなかった。今すぐに光莉を自由にしなければならない。離したくないという想いの傍ら、そんな感情に駆られた。
 幸雄が亡くなってからの光莉の様子を見て、律樹はそう覚悟をしていた。父親の死だけではない。彼女は明らかに家の中で身の置き方に悩まされている。
 律樹に心配をさせまいと、何も打ち明けてはくれない。白井に聞けば、麻美からの虐めはエスカレートしている様子で、気分が塞いだまま、体調が芳しくないようだという話だった。
 光莉を守りたくて選んだ結婚だったが、自分が選んだ道は間違っていただろうか。そんなふうに振り返る。もっと自分に力があれば、光莉に苦労をさせずに済んだかもしれない。今は必死に根回しをすることくらいしかできない己の無力さが憎らしい。
 律樹は光莉のことを案じながら、修蔵に光莉との離婚について願い出た。
「離婚だと? ああ、光莉さんがとうとう音を上げたのかね。思い知ったか? あのお嬢さんでは務まらなかったということだ。まったく。とんだ茶番に付き合わせてくれたものだな」
 執務室のプレジデントチェアに深く背を預けたまま、修蔵はふんと鼻で笑う。
「光莉を悪く言うことはいくらお父さんでも許しません」
 律樹がまっすぐに糾弾すると、修蔵はすぐに興ざめしたように真顔に戻った。
「ふん。おまえに何ができるというのだ。で、山谷食品の件はどうするつもりだ。あの女が出て行くというのなら、もう目をかける必要もないだろう。経営の建て直しは見事だった。だが、おまえはまだまだ甘い。そろそろ手を引いたらどうだ」
 修蔵はさも愉しげに微笑を刻んだ。
「お父さん、あなたは……」
 律樹は言葉を失う。まだ修蔵は何かを企んでいる。手中にあるのだと思い知る。憤りで身体が震えだした。
 獣が睨むような目をしていたかもしれない。修蔵は一瞬、意外そうな顔をしたあと、ふむとため息をつく。
「離婚は構わない。だが、跡継ぎの搾取は断じて許さん。あの女が律樹の種を盗んだ可能性は否めない。あの女の動向はしばらく確認させてもらうぞ。万が一、子を孕んでいたとしたら、子どもだけは奪い返さねば」
 律樹は修蔵の冷酷無情さに閉口する。
「正気ですか? どうしてそこまで執着するんですか。俺がここに残ればそれで済む話ではないですか。させませんよ、そんなことは。彼女が一体どんな想いで山谷食品を守ろうとしたか、心のないあなたには理解できないでしょうね」
 小さな身体で精一杯強がっていた彼女を、大きな瞳から今にも溢れ出しそうな涙をこらえていた彼女を、それでも笑顔を絶やさずに頑張ろうとしていた彼女を、どうしたらそんなふうに痛めつけることができるというのだろう。
「あの女に執着しているのはおまえではないか」
 修蔵は冷ややかに言い放った。
「あなたには心から愛した人はいないのですか?」
 睨み合いが続いた。
 修蔵の顔から興味の色が失せた。
「もういい。おまえは他に見繕って跡継ぎを産ませる女を連れてきなさい。そのへんの野良猫ではない。良家の娘だ。それで手を打とうじゃないか」
 どこまでも悪魔のような男だ。この男が自分の父親だと思いたくない。
 母が亡くなって施設に入るしかなかった自分を引き取って何不自由なく大学を卒業できるまで面倒見てくれたことには感謝をした。だが、そこには息子への愛情があったからではないということを改めて思い知る。今日この日ほど父親をこれほど憎く感じたことはない。
「お父さん、俺はあなたが不正に関わっていることを知っていますよ。いつか、痛い目を見るのはあなたの方だ」
 修蔵は肯定も否定もしない。
「ばかばかしい。不正だと? 思い違いも甚だしい。私は当主として代表として、これまで当然のことをしてきたまでだ」
「それで苦しむ人間がいることも、当然だと言いたいのですか?」
「おまえは甘い。甘すぎるのだ。常盤家次期当主としての自覚があるのなら、よく理解することだ。今のおまえごときに何ができるというのだ」
 ただそれだけ言い放つと、チェアごとくるりと律樹に背を向けた。
 律樹は歯噛みしながら、修蔵と取引をしたときの話を思い浮かべていた。

 律樹が光莉に政略結婚と山谷食品の買収を持ち掛ける数ヶ月前。
 律樹は、修蔵の差し金で山谷食品に危機が訪れていることを知った。その折りに、修蔵が数々の不正を重ねている疑惑が浮かび上がってきたのだ。
 その証拠を探るべく水面下で調べていたのだが、正攻法で明るみにするには圧倒的に時間が足りなかった。証拠さえ揃えられれば、修蔵の失脚は免れないのに。そのとき律樹にできることは唯一、山谷食品への圧力を止めさせ、光莉を側においておくことだったのだ。
『山谷食品への融資を止めるよう圧力をかけているのは父さんですよね?』
『……だとしたら? ライバル会社をつぶそうと思うのは自然なことでは?』
『常盤の何倍も小さな企業をライバル視? そんなわけない。なにが望みですか?』
『お前がどうしても私の後を継がない というから、いろいろ調べてね。お前がやたら山谷食品を気にかけ調べているのを知ったんだ。そこの社長令嬢とお前は幼馴染だな』
『関係ありません』
『私の願いはただひとつ、お前が後を継いでくれればそれでいい』
『わかりました。後を継ぎますから山谷から手を引いてください』
『ものわかりがよくて助かる。跡取りになるならさっそく縁談を……』
『そのかわり、ひとつ条件があります。山谷食品の娘と結婚をさせてください』
 一度潰そうとした会社は徹底的に潰す修蔵の傾向はよく知っている。山谷食品を守りつつ、彼女にも手出しをさせないように律樹が考えたことだった。無論、彼女を忘れられなくて結婚したいと思ったことも事実だ。

 修蔵の不正を暴くには労を要した。信頼できる部下を囲い、証拠を揃えるまであと少し。それだけではない。修蔵の失脚後に律樹を待ち構えているのは会社の刷新だ。
 父に求められて常盤の会社に入って以来、金と権力に物をいわせてきた会社を内側から変えていきたいと、律樹は考えていた。
 しかし残念ながらまだそこまでに至らない。山谷食品の部門の責任者になり、経営の建て直しをしながら、下請けの中小企業が苦しんでいる事実を目の当たりにし、なんとか変えていかなければと思った。
 光莉を幸せにしたい。そう思って邁進してきたつもりだったったが、それは独りよがりだったのだろうか。彼女に心配をかけまいと余計なことを話さずにいた。だが、すべて打ち明けるべきだったのだろうか。
 なんとか光莉を引き留めておきたかったが、彼女はもうとっくに限界を迎えている。自由を奪うわけにはいかない。好きな人がいると言われてしまえば、彼女の心が離れてしまったのなら、どうすることもできない。
 せめて、山谷食品を父の好きにさせないようにすること、父の魔の手から光莉を逃がすことくらいしか律樹にはできない。
 修蔵との話のあとで、自分の無力さに虚しくなり、律樹はリビングのソファに乱暴に身を投げ出し、頭を抱えた。
「よかったじゃないの。女主人を務めるなんてやっぱり荷が重すぎたのよ。あの女には」
 麻美が愉快そうに笑う。くすくすと耳障りな声だった。
「わざわざ立ち聞きしていたのか?」
 律樹は麻美を睨んだ。
 光莉がどんな想いで決断したのかを考えたら、彼女と同じ言葉を簡単に口にしてほしくなかった。
 律樹は光莉のためにどうすればよかったのか、葛藤に苦しみ続ける。このまま終わるわけにはいかない。光莉を守るためには、これからやるべきことをし尽くさなければならない。
「お義兄さんは何も知らなかったでしょう」
 ほら、と突き付けられた画像には、颯太と光莉が仲睦まじく裏庭の縁側で過ごしている様子が映し出されていた。律樹はそれを見てショックを受けるどころか、腑に落ちていた。むしろ、ホッとしてもいる。彼女は、一条の光を見つけたのかもしれない。
「好きな人……か」
 自分は一体何をやっていたのだろうか。この忌々しい箱庭にどうして光莉を連れてくることが正解だと思ったのだろう。あのときはそうするしかないと思った。だからこそ、律樹は常に光莉を気にかけていたつもりだったが、それは傲慢な考え方だった。
 結局、光莉を閉じ込めておいたのは律樹なのだ。傲慢な自分の行動が修蔵のDNAを受け継いでいる証に思えてゾッとする。光莉の笑顔を奪ったのは……修蔵ではなく、常盤家の人間ではなく、自分だったかもしれない。
 律樹は湧き上がる不甲斐なさを握り潰すように拳をギュっと握りしめた。
 光莉が颯太に惹かれるのも無理はないだろう。彼女は癒しと安らぎを求めていた。
 彼女を守るつもりでいたのはただのエゴで、傷つけていたのは、自分のせいだった。
 彼女が自由を望むのなら、それが彼女の願いならば、光を見つけたというのならば、好きな人と幸せになる未来が欲しいというのなら……見守ることが愛ではないだろうか。
 しかしそう言い聞かせてすぐに納得できるほど、律樹の光莉への想いは簡単なものではなかった。
 自分は傘になり、盾になり、陽だまりになると誓った。彼女を愛している以上に、彼女を守りたかった、はずだった。
 君を守りたい、救いたいという気持ち以上に、今はただ――君を愛している。
 今は手放すしかない。だが、いつか君を取り戻すためならなんでもする。そう言ったら、君はどんな顔をしただろうか。結局、彼女の苦しそうな顔を見たら、何も言い出せないままだった。

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