さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす
常盤家を出る当日――。
律樹に外まで送ってもらったおかげで、光莉はすんなりと邸の外に出られた。
(……ごめんなさい、律樹さん)
婚約指輪と靴は律樹に直接返した。彼が何も言わずに受け取ったのを見て、心臓が握り潰されそうな気持ちだった。
律樹がくれた指輪に今までどれほど励まされてきただろう。プロポーズしてくれたときは驚くほど嬉しかったし、律樹が不在のときには支えになった。
本当は思い出のひとつを持っていたいと思った。けれど、あの指輪や靴には彼の誠意や愛情が詰まっている。彼を裏切ってしまった光莉には持っている資格はないのだ。
シンデレラの魔法は解けた。
光莉は元の世界に戻らなければならない。
現実を生きるために、一日も早くここから離れなくてはいけない。
それでも――。
律樹の姿を目に焼きつけておきたくて、門の前で佇んでいる彼のことが気になって、一度だけ振り返った。
(律樹さん……りっちゃん)
離れたくない。愛してる。側にいたい。この期に及んで迷いが生まれてしまいそうになり、光莉は振り切るようにまっすぐに前を向いた。
行先の詳細は告げず、しばらく友だちのところに身を寄せるとだけ言っておいた。律樹にも修蔵にも常盤家の人間には誰にも知られるわけにはいかない。
光莉は常盤家から出たあと、しばらく歩いて様子を確認し、離れた路地裏で待機していた颯太に合流した。
誰かに尾行されていないか、盗聴器やGPSの類がついていないか、颯太が念入りにチェックをしてくれた。
万が一に追手を仕向けられたときのことを考え、東京から出る手段に電車やバスを利用せず、颯太の親方の名義で借りたレンタカーを使わせてもらうことになった。
目的の場所までは、東京から車でだいたい六時間程あれば到着するが、修蔵の動きが読めない今は、なるべく遠回りをしながら、数日かけて向かうようにした方がいいという颯太の提案に乗ることにした。
「本当にいいんだね?」
出発する直前、颯太が尋ねてきた。
光莉は迷いを振り切るように、即座に頷く。
「光莉さん には幸せになる権利があるし、幸せになってほしいと思ってるよ」
颯太は言って、軽ワゴン車を走らせた。
遠ざかる景色に目もくれず、光莉が黙ったまま俯いていると、颯太は大仰にため息をついた。
「泣きたいときは泣いてもいいんじゃないの。もうそろそろ限界でしょ」
「……平気よ。泣いてる場合じゃないもの」
光莉は膝元で手をギュッと握った。
「そう。頼もしいことだね」
本当はすぐにでも涙腺が決壊しそうだった。でも、今告げたとおり 、泣いている場合ではない。現状を打破するためには、まずは無事に目的の場所までたどり着かなければならないのだから。光莉は涙がこぼれないように、ギュッと唇を噛んだ。
光莉が目指したのは慣れ親しんだ石川県だった。しかし実家そして山谷食品の事業所や工場のある金沢市内にいれば、当然居所が知られる可能性が高まってしまう。そこで、光莉は山谷食品の工場に古くから勤めていた従業員の三津早苗の元を頼った。
幸雄が亡くなる少し前、早苗は腰を痛めて工場を辞めていた。今は能(の)登(と)半島の北西にある輪(わ)島(じま)市にある実家に帰っている。早苗に事情を話して新居が決まるまで身を寄せさせてもらえないか相談すると、息子夫婦が三年前にワイナリーの経営をはじめるために家を出ていったらしく、今は部屋が余っているらしい。家事手伝いをする代わりに、しばらく置いてもらうことになった。
東京を出発したあと、その日の夕方には金沢市に入り、それからビジネスホテルに一泊し、翌朝また金沢市から二時間ほどかけて輪島市に入った。
颯太とは道の駅で別れることになった。
「ここからはひとりだけどいい?」
トランクから下ろしてもらった荷物を受け取り、光莉は頷く。
「ここまで連れてきてくれてありがとう。颯太くんがいなければ、叶えられなかったよ」
「いいよ。ドライブは嫌いじゃないし。せいぜい倒れないように頑張りなよ」
照れくさそうに颯太は言って、それから、じゃあねと手を振った。
颯太を見送ったあと、光莉は荷物を持ってスマホで早苗の家までの地図を確認しながら歩いた。
ナビに頼ると細かい道に迷いそうになってしまう。右往左往していると、途中まで早苗が迎えにきてくれたらしい。彼女が向こうから手を振ってやってくるのが見え、光莉はたちまち胸がいっぱいになった。
「光莉ちゃん、随分久しぶりやねえ。元気にしとったの? なんだか痩せたみたいやないの」
「ご無沙汰していました。早苗さんは、腰の方は大丈夫ですか?」
「あーあ、まぁ年やからね。実を言うと、仕事はいつ辞めても良かったんよ。息子夫婦が出ていって寂しくなったのもあってここ数年は気を紛らわすために続けていたようなものでぇ、元々あの工場が好きやったからいたようなもんやし」
「ムードメーカーの早苗さんがいなくなって、みんな寂しがってるでしょうね」
「私のことより、光莉ちゃんの話。社長のことは残念やったね。あんまりにも急やったよね……」
「はい……」
「社長、東京に出て行った光莉ちゃんのこと、よう心配していたんやよ。毎日気にかけてたわ。あんまりしつこくするのもいけないかって悩んでたみたいでねぇ」
「父には心配させたくなかったのに、結局、心配させちゃったまま……こんなことになって……本当に申し訳なく思っています」
涙がこみ上げてきて、我慢すればするほど、言葉が詰まってしまう。
「光莉ちゃん、ずっとそうして自分を責めてきたんやね。こればかりはね、誰のせいでもないよ」
早苗の瞳にも涙が浮かんでいた。まるで自分のことのように、本当の娘にそうするみたいに、強く手を握ってくれる。
「泣きたいときは、ちゃんと泣きなさい」
泣いたらだめだとずっと呪文をかけていた。けれど、光莉はとうとう我慢できなくなってしまった。
ちゃんと泣くということがどういうことか、わかっていなかった。
寂しい、哀しい、辛い、言葉にして、感情のままに泣くことだった。
うんうんと頷きながら背中をさすってくれた早苗の手が、遠き日に亡くなった母の温もりを思い出させてくれ、よりいっそう父のことが恋しくなってしまった。光莉は子どものように泣きじゃくった。
それから――。
早苗の家に到着したあと、光莉は海の見える側の部屋を借りることにした。
「遠慮せずに好きに使ってちょうだい」
「ありがとうございます。早苗さん」
「落ち着いたらご飯にしましょう。気分が良さそうだったら、お手伝いしてくれる?」
「はい。もちろんです」
窓を開けると、すぐ目の前に日本海の濃紺の海がきらきらと煌めいているのが見える。湿った風と潮の匂いを感じながら、庭の日陰に残った雪の合間にぽつぽつと伸びはじめた土筆(つくし) の姿を発見する。季節は冬に別れを告げ、あたたかな春を迎えようとしていた。
* * *
颯太はその後も定期的に光莉に会いにきた。
てっきりあの日が最後だと思っていたのだが、これは忍びとしての務めだといって彼はふらっと現れ、その都度、互いに近況を報告し合った。
颯太は当然のように律樹の話題は出さなかった。ただ、常盤家の現状や光莉の所在がバレていないかなど、見知った限りのことだけを教えてくれるだけだった。
早苗のところに身を寄せてからまもなく一ヶ月が経過するが、今のところ常盤家が光莉に対して何かをしようというそぶりはない。律樹にきちんと別れを告げたことで、きっと律樹が光莉を修蔵から守る防波堤の役割を担ってくれているのかもしれない。
本当は律樹が今どうしているか知りたい。遠くからでいいから顔が見たい。せめて声が聞きたい。少しでも気を抜くと未練が募った。
当然そんな権利は光莉にはない。それに、律樹のことを必要以上に思い浮かべると、どうしても胸がざわざわして苦しくなってしまう。恋しくて呼吸ができなくなりそうになる。だから今はとにかくなるべく考えないようにする時間が必要だった。
颯太は埼(さい)玉(たま)の方で新たに腕のいい庭師に師事し、その庭師の弟子として働きながら造園技能士の資格の勉強をしているらしい。
常盤家を出る際、彼はしばらく遊べる資金があると言っていたけれど、仕事の話になると彼は活き活きした顔をしていたし、本来、働くのが好きなのだろう。
颯太がよくいう『足抜けをした同志』としては嬉しく思う。光莉も新しい人生をスタートさせなければ、という勇気をもらった。
光莉はというと、早苗と一緒にハーブの手入れをしたり野菜を育てたりしながら、のんびりと家事をさせてもらい、毎日一緒にふたりで食卓を囲んだ。
『うちは息子だけやから、本当に娘ができたみたいで嬉しいわ』
居候している身なので、早苗がそう言ってくれるのが幸いだった。
妊娠の週数が進むにつれ、つわりがひどい日もあったが、それも日に日に落ち着いていき、お腹のふくらみもわかるようになっていった。
しばらくすると、颯太は仕事が忙しくなったのか顔を見せることが少なくなり、早苗との暮らしが馴染んで日々を過ごすうちに安定期を迎え、やがて胎動を感じるようになった。
我が子への愛おしさがよりいっそう募っていく中、この子を奪われてはならない、この子だけは幸せにしてあげなければならない、という母性が強まっていくのを同時に感じていた。
いつまででもここにいていいと早苗は言ってくれているけれど、甘えてばかりいるわけにはいかない。本来ならもっと早く出て行かなければならないところだったのに、身重の光莉を気遣い、早苗が引き留めてくれたのだ。出産が終わって落ち着いたら、いくらもない貯金と相談しつつ、新居と働き口を探そうと思っている。
ふと、幸雄の顔が思い浮かんだ。父のお墓参りには行きたいし、空き家になっている自宅の様子を見に行きたい。山谷食品のことも今どうなっているのか気にかかる。けれど、迂闊に近づくことはできない。できれば、いつかは実家に戻りたいと考えているのだが、それはまだもう少し先の話になるだろう。
「――それ、重たそうだね。お荷物お持ちしましょうか?」
ある日、久方ぶりに颯太が顔を見せた。心なしか前よりも日に焼けて肌に色がついていた。
気温が三十五℃以上もある暑い夏の日、臨月に入ったばかりのときだった。
颯太は光莉の荷物を半ば強引に奪ったあと、手に持っていたラムネ瓶を二本目の前に出し、そのうちの一本を分けてくれた。
さっそくふたりして喉を鳴らすように飲み干した。
「はぁ。生き返る!」
光莉はくったりと息を吐いた。額や首筋にまでぐっしょりと汗が流れていく。
「このあたりは風の通りがいいから気持ちいいけど、それにしても暑いもんね。妊婦さんは特に熱中症になりやすいって聞いたよ。気をつけないと」
「ありがとう」
出産 予定日は来月、九月中頃だ。町の助産院に通い、具体的な出産プランを相談した帰り道だった。
出産は何が起こるかわからない。万が一のことがあった際、大きな市の病院の方が医療体制は整っているかもしれないが、まだ光莉は常盤家のことを警戒している。あれからもなるべく人目につかないように気を配っていた。
ラムネを片手に、向日葵と秋桜が植樹された段々畑の中を歩きながら、颯太が何の気なしに尋ねてきた。
「これから先はどうするの。ずっと、雲隠れっていうわけにもいかないんじゃない」
「そうだね。早苗さんの息子さん夫婦にも赤ちゃんが生まれるみたいなの。安定期に入ったばかりって言ってたわ。そうなるとますます家族を差しおいて御厄介になるわけにもいかないし……」
光莉は言葉に詰まった。出産が近づくにつれ、考えていたことでもあった。一生、隠れて暮らすわけにはいかない。一方、光莉が働いている間にこの子を奪われはしないだろうかという不安がつきまとう。
「今はとにかく無事に出産することだけを考える。これから先、この子を守るためならなんだってするよ」
「一応さ、俺も無関係っていうわけじゃないんだよね」
「え?」
颯太の言っている意味がわからず、光莉は彼の顔を見た。
「その子の父親と俺は、半分は血が繋がっているんだし」
「……うん」
忘れそうになるが、颯太は律樹の異母弟で、光莉の義理の弟で、お腹の子にとっては叔父にあたるのだ。
颯太は枝の折れた向日葵が落ちているのを手に取り、それから光莉に差し出した。
「俺が、その子の父親になってあげようか」
まるで傘をそっとさすように、颯太は言った。
光莉は颯太に律樹を重ねてしまい、一瞬どきりとしたが、すぐに正気に戻る。
「おねえさんをからかうなら、もう少し内容を考えてね」
颯太の口調を真似ながら、光莉はおどけてみせる。しかし颯太は真面目な表情を崩さなかった。
「冗談じゃなくて本気。昔は、亡くなった兄の代わりに弟が奥さんを貰い受けることってよくあったんだよ」
「それは昔の人の話で、第一、あなたのお兄さんは……生きてるでしょう」
「そう、あの人は生きてる。あの人は光莉さんがひとりで苦しんでることすら知らない。それなのに、光莉さんはあの人のことを想いながら、ずっと生きていくの? いつかあの人はあなたのことを忘れて、別の人と結婚して子どもができるかもしれない。でも、あなただけはずっとひとりだなんて。そんなの辛くない?」
母親に育てられて常盤家に引き取られた颯太は母親の辛さを見知ってきたのだろう。きっと、あの頃の母子家庭にあった律樹のように。
光莉は答えられなかった。あの頃の律樹のような想いはさせたくないと思う。
「ひとりじゃないよ。お腹の子がいる。それに、いつか……今は無理だけど、私だっていい人を見つけるよ」
言いながら、そんな未来が来るはずがないと、光莉はわかっていた。ずっと忘れられなかった愛する人との子どもをひとりで育てることがどれほど大変かなんてわからない。誰かに頼りたくなる日がきっと来るだろう。けれど、律樹のことしか考えられないのだ。
「本当に? それが、俺じゃダメな理由は……あの人を思い出すから?」
「最初は雰囲気がどこか似てるって思ったことあったけど、律樹さんとは全然違うよ」
久しぶりに律樹の名前を口にした途端、瞳から熱いものが溢れてきた。慌てて手の甲で拭う。
「光莉さん……」
「早く帰らないと。汗が止まらない。目に入ったみたい。染みて痛いよ」
急に抱きしめられ、光莉は目を丸くする。足元に空になったラムネの瓶が転がっていく。ビー玉が陽に煌めいて、ふたりが重なる影を映している。パニックになりかけた光莉は、とっさに颯太の腕を振り払おうとした。
「颯太くん、離して」
「嫌だ」
颯太の腕がきつくしまる。
「嫌だって子どもじゃないんだから」
「ひとりで泣かないって約束しないと離さない。早苗さんに聞いたんだよ。光莉さんがたまにこっそり泣いてるってこと」
「……颯太くん」
颯太のやさしさを感じ、腕をふりほどけなくなる。彼はお腹を圧迫しないようにしながら光莉を抱きしめていた。
途方に暮れそうになる頃、通りかかる人の声にハッとする。
「あらあら、若い夫婦は微笑ましいわねぇ」
光莉はとっさに颯太の胸を押し返した。その拍子にふたりの距離がようやく開いた。
「ち、違います。私たちはそんなんじゃ」
「おや。そうだったのかい。お似合いだったからてっきりそうだと思ったんやけど」
通りすぎていく中年の女性を見送ったあと、光莉はふうっとため息をついた。ただでさえ暑いのに変な汗が流れてしまった。
「光莉さん、茹でだこなの、暑いせいだけじゃないよね」
揶揄するように颯太は言った。
「そうよ。どう考えても、颯太くんのせいでしょ」
「ふうん。少しは意識してくれているわけだ」
「……まだ言ってる。きっと颯太くんは負い目がある気がしてるからよ。前に罪滅ぼしがどうのって言ってたけど、ここに連れてきてもらったし、色々助けてもらった。だから、あれはとっくに帳消しなんだからね」
光莉はそう言い、颯太を振り切るように歩みを早めた。
早苗の家の玄関に到着すると、少し遅れてやってきた颯太が、荷物を玄関先に置いてくれた。
「送ってくれてありがとう。荷物も助かったし、ラムネも美味しかった」
それじゃあ、と別れを告げようとする光莉に、颯太は一歩距離を近づけてきた。光莉は思わず後ずさったのだが、その拍子に上がり框に躓きそうになり、颯太に腕を掴まれて倒れないで済んだ。
「最後にもう一度だけ言っておくよ。本気だから、俺は」
颯太は真剣な表情で訴えてくる。彼の想いを無下にするみたいで、光莉はそれ以上はもう否定はできなかった。
「それじゃあね、光莉さん」
捕まれた腕がじんとする。離れたあともそこは熱を帯びていて、颯太の想いの余韻を刻みつけていったみたいだった。
また会いにくるといって颯太は帰って行った。
颯太の気持ちは嬉しい。けれど、忘れることなんてできるはずがない。
ずっと好きだった。
今も変わらず愛しているのだから。
大丈夫。大丈夫、と何度も呪文のように唱える。
光莉は律樹のことを思い浮かべながら、響く胎動に目を瞑り、そっとお腹を撫でるのだった。
* * *
光莉が常盤家から出て一ヶ月が過ぎた頃。律樹は光莉の現状を改めて知った。光莉は金沢に帰ったのだと思ったが、それよりもっと北の方に暮らしているようだ。元従業員の女性の家に世話になっているらしい。度々男が出入りしているということだが、おそらくそれは颯太のことだろう。想定していたことだが、改めて突き付けられる事実に、律樹は歯噛みした。けれど、彼女がせめて幸せでいてくれるのなら、それでよかった。
彼女を守るつもりだった行動はすべて裏目に出た。誰よりも大切に想っていた彼女を幸せにできなかった。律樹は己の不甲斐なさを省み、光莉を家の都合に巻き込んでしまったことを改めて申し訳なく思いながら、彼女がとにかく幸せでいてくれることを願っていた。
何か困ったことがあったら、力になれることがあれば、夫婦という関係ではなくても、律樹は光莉のことを助けたいと考えていた。
修蔵が自分に都合の悪い存在を徹底的に潰す性格を律樹はよく理解している。一抹の不安が胸をよぎり、律樹は秘密裏に調査機関を使って光莉の状況を探っていた。彼女にとっては不本意なことかもしれないが、どうしても何もしないではいられなかった。
調査をはじめてからまもなく、律樹は光莉が妊娠している事実を知り、ショックを受けた。一方で、ある疑問が生まれる。颯太とそういう関係になっているかもしれないということは、麻美の証言と写真によって知っていたが、妊娠の時期、出産予定日などを考えると、どうにも腑に落ちない。
たった一時だが、たしかに光莉と自分は気持ちが通じ合っていた。光莉は二股なんて器用なことができるタイプではない。
(まさか――)
あの頃、律樹と光莉は想いを通わせあっていた。政略結婚というはじまりではあったが、夫婦として結婚式を挙げられるように、お互いに同じ目標を持って動いていたはずだった。
そんなとき光莉がいきなり別れたいと言い出したのはなぜだったのか。光莉はどうして自分から出て行ったのか。父親の死のショックだけでは説明がつかない。修蔵に離婚の話を申し出た際、光莉のことを見下していた修蔵の表情がやけに脳裏にちらつく。
夏の名残を感じさせる蝉時雨の中、律樹は改めて今までのことを振り返る。それから律樹は突き動かされるように、常盤グループの過去の取引について洗い直し、より詳しい調査をはじめた。
光莉の現状を知ってから更に二ヶ月が過ぎる頃、新年度の忙しい合間を縫い、決定的な不正を見つけた律樹は、その裏付けのために行動を起こすことにした。修蔵の悪行を暴くのは、一筋縄ではいかないことだろう。
ある日、会議を終えた律樹は、側に控えていた秘書の水(みず)澤(さわ)という男に耳打ちをした。
「明日から、関連会社の下請け企業により詳しく聞き取りをはじめたい。ついてきてくれないか」
「……承知しました。動かれるのですね?」
水澤は律樹が修蔵の不正について調べはじめた際、直接雇った秘書だ。元は関連子会社の重役を務めていた。常盤グループのやり方に疑問を抱いていた彼が本社を訪れ、修蔵に直談判にきたことがある。幸い、修蔵は興味のない人間の顔は覚えていなかった。律樹はそうして次々に協力者を見つけて手を広げ、人脈を築き、引き込んでいった。
水澤は険しい表情を浮かべ、律樹の決意を問うた。
「ああ、そのために跡継ぎになることを表明したようなものだ」
律樹は修蔵の動向を確認しながら、水面下で常盤家や常盤グループにおける不正疑惑を突き詰めてきた。その傍ら、常に光莉のことを気にかけていた。
何としても、彼女を迎えに行かなくては。今すぐには無理でも、一日でも早く、そのためには行動を起こさなければならない。律樹はある覚悟を固めていた。