もう一度あなたに恋したときの処方箋


「は、離して」

迷路のような路地を迷わずに佐藤は駆け抜ける。
転ばないように私も走ってはいるが、どこに行こうとしているかわからないし息が苦しくなってくる。
細い路地の奥に突きあたると、佐藤は急に足を止めた。

「久しぶりだな」

私の背中はコンクリートの壁に思い切り押し付けられて身動きが取れない。

身体も心も痛くて、私は俯いたままだ。

「お前、あの篠原鞠子だろ。なんでこんな地味な恰好してるんだ?」

大学一年の夏、私は確かに髪を染めて派手なシャツを着ていたけれど、佐藤に地味だと言われる筋合いはない。
ぐっと奥歯をかみしめていたが、佐藤に顎を持たれて無理やり顔を上げられた。

「やめて」

「兄貴に言ってないだろうな。あの夜のこと」
「……」
「お前、兄貴の部下か?」

取りあえず頷いておいた。こんな人にひと言だってしゃべりたくない。

「お前が兄貴と同じ会社だとはな……」

ブツブツと佐藤はなにか言っているが私は自分のことで精一杯だ。
男の人の力に負けて、またあのイヤな思いをしている自分が悲しかった。

「俺たちはあの夜、じゃれあってただけだからな」

佐藤はこの数年で、嫌らしい笑い方をする男になっていた。

そう思うと少しだけ落ち着いてきた。
私だってあの頃の世間知らずな小娘じゃないから、佐藤の顔を見返す力が湧いてきた。

「俺と話しを合わせろ。兄貴には、なにも言うなよ」

「……兄貴って、高木さんのこと?」

思い切って疑問を声に出してみたが、低く擦れた声しか出せなかった。

「今さらなに言ってるんだ。高木憲一は俺の兄貴だ。お前も兄貴のこと好きだったんだろう?」
「え? 高木さんの弟なの?」

佐藤はフンッと鼻で笑った。

「サークルの練習の時も合宿の時も、お前は兄貴ばっかり見てたよな。いつだってみんな兄貴ばっかりだ」

酔いが回っているのか、よく意味のわからないことを佐藤はしゃべり続けている。

「みんな、みんな、兄貴のことばっかりホメるんだ」

高木さんみたいな立派な人がお兄さんなのが気に入らないのだろうかと不思議に思ったが、それよりもどうしてふたりの姓が佐藤と高木で違っているのか気になった。
私は高木さんの家庭の事情も、ふたりにそんな繋がりがあったことも知らなかったのだ。

私は震えながら、佐藤の顔をキッと睨んだ。
これ以上は口を利かない方がいいかもしれない。
勇気を振り絞ってはいるが、ガクガク足は震えているし声はうまく出せないままだ。

「お前、今でも兄貴を好きなんだろう。会社で毎日媚び売ってんじゃないか?」

酷い言葉で侮辱してくるが、佐藤は機嫌悪そうだ。

「大好きな兄貴のそばにいられないようにしてやろうか?」

言葉の暴力に全身が硬直した。逃げたいが、身体が動かせない。

「正樹!」

高木さんの大きな声が聞こえた。それと同時にえりちゃんの声もした。

「鞠子っ!」

エリちゃんが佐藤を押しのけるようにして飛びついてきた。

「離れなさいよ、この屑! 二度と鞠子に近づくんじゃないわよ!」

エリちゃんが私に抱きついてくれたおかげで、佐藤が離れた。

「正樹! 手を離せ!」

おまけに勇ましい声が聞こえて佐藤が飛びのいたとたん、ホッとした。
だけど、スーッと意識が遠のくのを感じた。

(助かった……)





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