少女達の青春群像 ~舞、その愛~
6時間目が終わり、放課後になった。
「あっ、響ちゃん。今日は遅い電車で帰るから、先に帰っていいよ」
舞は4組に入ってきた響歌を見つけると、すぐに遅くなることを彼女に告げた。その顔は緊張のあまり強張っていた。
「わかってる」
あ、響ちゃんは『わかっている』んだ。
舞は響歌の返事に少し安心しながらも、言葉を続けようとする。
「それでね、響ちゃん。…あれ?」
響歌の姿は既に舞の前から消えていた。
慌てて探してみると、響歌は窓際で森野香と話していた。
あっさり見つかって良かったけど、話の邪魔をしては悪いよね。
それに私はまだ森野さんと話したことが無いし、この話は森野さんには知られたくないからなぁ。
「どうしよう。森野さんとの話って、すぐに終わるのかなぁ」
この後、舞は中葉と駿河駅で会うことになっている。それまでに響歌に話したいことがあるのだ。
いや、響歌だけではなくて、紗智にも話しておきたいのだが…
「出だしでつまずいちゃった」
舞は肩を落とした。口からは溜息まで出る。
その時、舞の肩を誰かが叩いた。
「ムッチー」
驚いて振り向くと、そこには紗智がいた。
「さっちゃんかぁ。もう、びっくりさせないでよ」
紗智の他には誰もいなかった。
「あれ、今日は1人なんだ。まっちゃんはどうしたの?」
舞の口から自然と出てくる疑問の言葉。
紗智は嫌そうな顔をした。
「ムッチーが思う程、私達はいつも一緒にいるわけじゃないからね」
「あっ、それもそうだよね。ごめん、ごめん。でも、そこは聞いておきたいところなんだよ」
「まっちゃんなら、授業で出た課題のレポートを教室で書いているよ」
「へぇ、まっちゃんって真面目だね。ちなみにさっちゃんや響ちゃんは4組にいるけど、レポートを書かなくて良かったの?」
「私達がここにいちゃ、おかしいの?」
「い、いやっ、おかしくはないけど!」
「私は家に帰ってから書くつもりだし、響ちゃんは既に授業中に仕上げているよ」
紗智は苛々していたが、舞はそれにまったく気づいていない。
「あ~、そうだよね。その方がさっちゃんらしいよね。響ちゃんも授業中に仕上げるあたり、らしさが出ているなぁ。響ちゃんって本当にちゃっかりしているよね」
呑気に感想を述べている。
その時、不機嫌そうな響歌の声がした。
「悪かったわね」
驚いて声がした方を見てみると、いつの間にか響歌が仏頂面で立っていた。その隣には香がいる。
「私は時間を有効に活用しているだけよ。ちゃっかりとだなんて、そんな安っぽい言葉で言わないでよね」
舞に文句を言うと、響歌は香と連れ立って教室から出ていった。
舞は呆然としながら2人を見送った。
「もしかして私、響ちゃんを怒らせた?」
響ちゃんは私が言った『ちゃっかり』という言葉がそんなに嫌だったの?
そんな言葉くらいで怒る程、響歌は短気ではないが、本当に怒ったとなると大変だ。舞には彼女を怒らす前に話しておきたいことがあるのだ。
だが、それは普段の状態の時でもとても切り出しにくい内容だ。それなのに怒らせてしまったとなると余計に話しにくくなるではないか。
舞が頭を抱えているその傍では、紗智が呆れたように舞を見ていた。
「あれだけで響ちゃんが怒るわけがないでしょ。ま、少しムッてしていたのは事実だけどね。今日はこれから実習室でデザインの課題をするって言っていたわよ。だから急いでいたんでしょ。提出日まであまり日が無いみたい」
なーんだ、ただ単に焦っていただけか。
紗智の言葉を聞いて、舞はすぐに立ち直った。
「それなら仕方がないよね。きっと響ちゃんは、急いでいるあまりそっけない言葉しか言えなかったんだよ。焦って損した」
舞は安堵したが、すぐに困惑した表情になる。
響歌が怒ってはいないとはいえ、これから課題をするということは、今日は響歌と話す時間が無いということなのだ。しかもそれは今日だけに限った話では無い。提出日が近いということは、これからの放課後はずっと実習棟にこもるかもしれない。
さすがに10分休憩や昼休みにこもることは無いだろうが、その時間だと響歌と2人きりで話すのは難しい。かといって登校中は低血圧の響歌の機嫌が悪い時が多いので、その時間もできれば避けたい。
それなのに貴重な放課後を課題ごときに取られるなんて!
舞は自分とは無関係であるはずの課題に怒っていた。
「まったく、とんでもないヤツだわ!」
自分の思い通りにならないことに対しての完璧な八つ当たりだ。課題にとってはいい迷惑である。
だが、舞は八つ当たりをせずにはいられなかった。
旧体育館から教室に戻る時、舞は歩と約束を交わしていた。
それは『中葉君とつき合う前に、響ちゃんとさっちゃんにだけはムッチーの方から報告をする』ということだった。
歩が言うには『その方が、後で誰かの口からバレるよりも遥かにいい。後で誰かから聞くことになると、2人は絶対にいい顔をしない』ということらしいのだ。
大事なことは、それがなんであれ本人の口から聞きたいもの。それには舞も同感だった。だから歩の言葉に従った。
そして2人に話すまで中葉とはつき合わないという約束をしたのだ。
その後の舞の行動はとても素早かった。教室に戻るなり、掃除を放ったらかしにして中葉に交換日記を書いた。
今日の放課後、中葉と駿河駅で会いたいということ。その前に、響歌と紗智に自分達がつき合うことを報告するということ。2人に報告するまで自分は中葉とつき合わないということ。2人には今日の放課後に報告するということ。もし報告できなければ、駿河駅でそのことを伝えて今日はそのまま大人しく帰るということ。
以上のようなことを書き、なんと直接中葉に渡したのだ。そしてその場で中葉からも了解を得た。
だからこそ舞は響歌の登場を待ち望み、響歌に冷たくされて焦り、課題に対して八つ当たりをしたのである。
だが、響歌がダメでも、この場には紗智がいる。しかもいつも一緒にいる真子が今日に限っていない。
先程まで響歌を求め過ぎて忘れていたが、舞はそのことにようやく気づいた。
そうよ、響ちゃんがダメでも、私にはまださっちゃんがいるじゃない。響ちゃんに逃げられても、私には嘆いている暇なんて無かったんだわ。
「仕方がないから響ちゃんには明日の朝に勇気を振り絞って伝えることにして、今はこのチャンスをものにするしかないよね。グズグズしていると、まっちゃんが来てしまうかもしれないし…」
「何をブツブツ言っているのよ。用があるのなら早く言ってよね。私だってそんなに暇じゃないんだから」
嫌そうな顔で紗智が言うと、舞は驚いた。
「えっー、さっちゃんってば、なんで用があるって知っているのー!」
舞の大声が教室内に響き渡った。
今は6時間目が終わってから10分も経っていない。教室にはまだたくさんの人が残っていた。
そんな中の大声だ。当然、教室にいたすべての人の目が舞に注がれる。
舞は紗智の言葉に衝撃を受けてそのことに気づいていないが、紗智は別だ。教室に居ずらくなったのは言うまでもない。何もわかっていない舞の手を取ると、急いで教室から出ていった。
「ちょ、ちょっと、さっちゃん。どこまで行くつもりなのよ~!」
叫んでいる舞の腕を離すことなくグイグイ引っ張っていく。
2人は校舎からも出て校庭の横を歩いていた。その間、舞は大声で紗智に話しかけているが、紗智はそれに反応しない。無言で足を進めている。
その足が止まったのは校舎からも校庭からも離れた場所。良くも悪くも、舞の『思い出の場所』になった旧体育館の前だった。
「あの、さっちゃん。なんで…ここに来た…の?」
舞が恐る恐る訊ねると、紗智は少し笑みを浮かべた。
「それはもちろん、ムッチーが喜ぶかと思って…ね?」
最後につけ足した感じがする『ね』が、意味があるようで怖い。
「さっちゃん…誰から、何を…聞いたの?」
舞は泣きそうだった。
紗智は完全に怒っている。怒鳴られてはいないものの、その纏う空気が完全に怒っている時のそれだった。
しかも彼女は、舞がこれから伝えようとしている以上のことを知っているような言い回しだったのだ。
紗智の顔から笑みが消えた。苛立たしげに舞と向き合う。
「あんた、まっちゃんとの仲がこじれている中で、よくもまぁ、呑気に恋愛をしようという気になれるわね。私だったら考えられないことよ。まっちゃんが知ったら絶対にいい気がしないし、あんた、まっちゃんから今以上に避けられるわよ。それでもいいの。ムッチーはもうまっちゃんとの仲を修復したいとは思っていない。そう受け取っていいのね?」
えぇっ、私は別にまっちゃんとの仲をないがしろにしようとしているわけではないわ。
私と中葉君とのことは、まっちゃんからしたら無関係のはずよ。それなのにどうして私と中葉君の話がまっちゃんの方に行ってしまうの?
思ってもみなかった言葉に、舞は何も返せなかった。
「ムッチーは忘れているようだけど、まっちゃんは失恋中なの。自分を励ましてくれると思っていたムッチーに厳しい言葉を言われてそのショックが癒えない時に、今度は想い人である高尾君に彼女がいるということを知ってしまった。まっちゃんにとってはとても辛い時期なの。そりゃ、まっちゃんにだって大きな非はあると思うよ。でも、落ち込んでいるのはまぎれもない事実。そんな時、自分に厳しい態度を取ったムッチーが、自分の失恋中に男とのろけていると知ってごらん。とてもじゃないけど寛大な心では受け入れられない。それどころかまっちゃんの性格からすれば、ムッチーは憎まれてもおかしくないわ」
紗智の言葉はまだ予想の範囲だが、とてもあり得そうなことだった。
舞はそのことにようやく気づいて顔が真っ青になったが、紗智は容赦なかった。
「しかもあんた、ここで何をしようとしていたの。昼休みに、こんな、人目がつきやすい、この場所で!」
顔を怒りで真っ赤にさせて校庭や校舎を指さす紗智の姿を見て、舞は確信した。
やはり紗智はすべてを知っている!
だが、自分はまだ何も話していない。多分、歩も、だ。昼休みはもちろん5、6時間目の中休みの時も、歩が紗智と接触していたことは無い。歩はずっと4組にいたのだから。
ということは、もしかして歩ちゃん以外にも…
「誰かに見られていた?」
考えたくはないが、それしか可能性が見当たらない。
これはもう恥ずかしいどころではない。
そんなことになっていたら生きていけない!
舞は頭を抱えた。
紗智には舞の考えていることが手に取るようにわかった。
そんなに恥ずかしいなら、場所くらい考えなさいよ。
呆れ果て、溜息を吐く。
「多分、見られてはいないと思うわよ。校庭やテニスコートには誰もいなかったみたいだし、ここは校舎からも見える場所ではあるけど、それでも4階からしか見えないはずだもの。1階から3階はあの大木が邪魔しているから」
唯一見えるであろう4階は、今のところ全学年が美術の時間にしか利用していない。他はみんな空き教室になっているし、もちろん空き教室にはすべて鍵がかかっている。用が無ければ、わざわざ4階に行かない。
だから大丈夫だろうと、紗智は呆れながらも舞に言ってくれたのだ。
だが、それならどうして紗智は知っているのか。
あの行為が誰かに見られていないのであれば、可能性はおのずと絞られてくる。
「もしかして…歩ちゃんから訊いたの?」
その可能性は限りなく低いのだが、舞はその可能性に懸けた。
中葉を信じたかったのだ。
「中葉君」
あっけなく紗智の口から名が出て、その希望は打ち砕かれた。
「中葉君」
念の為だろうか、紗智は無表情で中葉の名前を繰り返した。その紗智の表情に、嘘偽りはまったく無かった。
あぁ、やっぱり中葉君だったんだ。
舞は脱力し、その場に座り込んだ。
「知っているのって、さっちゃんだけなのかな。他の人は…ほら、響ちゃんとかは?」
「響ちゃん、まっちゃん、亜希ちゃんは知ってる。私達が集まっていた時、中葉君がやってきて話してくれたから。ずっと自分の席にいた沙奈絵ちゃんは知らないけどね」
舞の質問に返した紗智の声は『それがどうした』と言わんばかりに冷めたものだった。
紗智の声にもだが、一気に4人に知られたことがわかり、舞は落ち込んだ。
しかもその4人の中に真子の名前があるではないか!
ということは紗智の予想が当たれば、舞は真子に避けられてしまうことになる。いや、実際に避けられているのかもしれない。放課後になるといつも紗智と一緒に4組に来るのに、今日は紗智だけだった。レポートがどうのと言っていたが、それは表向きの理由なのではないのか?
それと中葉が、彼女達にどこまで話したかも気にかかる。どうもすべて話したような気がしてならないのだ。
すべてを知るのが…怖い。
だが、知らないでいるのも嫌だ。
だけど…怖い!
頭を抱えて俯いた舞に、紗智は容赦がなかった。
ほんの数時間前にあったことを、俯く舞に話し始めた。
今日もあと1時間で授業が終わる。その授業も、担当の先生が休みということで自習だった。代理の先生が来て、黒板に大きく『自習』と書いた瞬間、教室中が歓喜に満ちたことは言うまでもないだろう。
みんな好き勝手に過ごしたり、机にうつ伏せになって寝たりして気ままに過ごしていた。
響歌達も例外ではない。沙奈絵は自分の席から動かずに読書をしていたが、他の4人は固まって世間話をしていた。
その時、グループの輪の外から響歌を呼ぶ声がした。
「響ちゃん」
声を聞くだけで、ここにいる4人すべてが誰が来たのかわかった。わかったと同時に、その表情が不審なものに変わる。
だが、呼ばれた本人である響歌は、誰が相手であれ無視することはできない。
「何?」
平淡な声で返事をした。
真子が紗智の方に寄り、声の主が入れるスペースを開ける。その間に中葉が堂々と入ってきた。
端から見れば完全に浮いているのに、本人はそんなことはまったく気にしていない。相変わらずののんびりした口調で驚くべき言葉を口にした。
「オレさぁ、また舞とつき合うことになったんだ」
『……………』
亜希と真子は驚きのあまり目が点になった。返す言葉も見つからないといった感じだ。紗智は不審そうな目を中葉に向けている。その3人に比べると響歌はまだ冷静な感じだったが、その表情から好意的な感情は一切伝わってこない。
普通なら、自分達の友人に再び彼氏ができたのだ。喜ぶだろうし、興奮もするだろう。
だが、今の彼女達からは色々な感情が見て取れるが、そういった類のものはまったく入っていなかった。しかも響歌と紗智からは明らかに歓迎されていないというのが容易にわかる。普通の人間であれば、いたたまれなくなって早々にこの場から去るだろう。
だが、ここにいる中葉は『オレは傷ついた』とよく言っているが、実際は図太い神経の持ち主だった。しかもそれに加えて鈍感だった。
堂々と居座り、尚も響歌に向かって話し始めた。
あくまでも彼のターゲットは響歌だったのだ。
「やっぱり思い続けていたら報われるんだね。日記に書いてアピールしてきたかいがあったよ」
中葉はとても幸せそうだった。
そんな彼の姿を見ても、一緒に歓ぶといった行為をする者はこの場には誰もいなかった。
呆れて彼を見る者。
真っ赤な顔で絶句している者。
相変わらず不審な眼差しを彼に送っている者。
苦虫を噛み潰したような顔をしている者。
4人それぞれ別な顔をしてはいたが…
そんな中、顔を赤らめていた者が、言いにくそうにしながらも口を開いた。
「あの…ね、中葉君。よりを戻すとか、そういう話は別にいいんだけど…ね。その…そこまで話す必要は…」
「何、糸井さん?」
赤い顔をしていたのは真子だった。
中葉は彼女が何を言いたいのかわからず、キョトンとしている。
真子は益々顔を赤らめながらも続けた。
「あ、あの…ね。そこまで…というか、ムッチーと旧体育館の前でっていうところは…ね。別に話さ…」
「あー、そのことかぁ!」
突然、大きな声を出して納得する中葉。
話の途中で大声を出された真子は、驚きのあまり最後まで言えなかった。それでも彼がようやくわかってくれたので少し安心した。
「大丈夫だよ、糸井さん。だってさっき話したことは全部本当のことだもの。それに長谷川さんも知っているんだ。それならみんなにも知る権利はあるだろ。みんなは長谷川さんと同じで舞の友達なんだから。それなのに長谷川さんだけ知っていたら不公平じゃないか。だからオレは、みんなにも知って欲しくて話したんだ。できれば生で見せてあげたかったよ。あの時の潤んだ舞の目といい、1カ月ぶりの激しい接吻。それになんといっても舞の、あの清らかな裸体。本当に最高だったよ!」
本当に最高だったのだろう、中葉の声は喜びのあまり大きくなっていた。もちろんその声は響歌達以外の人の耳にも届いている。
クラスのみんなが中葉に注目し始めたが、舞にとっては不幸なことに本人はそれにまったく気づいていない。
「それにしても女の子が自分から服を脱ぐところを見るのって結構いいものなんだね。それに何も着けていない舞の胸を触ったら本当に気持ちよくてさぁ。その時って、やっぱり女の子の方も気持ちよかったりするのかな。前もそうだったけど、今回も舞は気持ちよさそうだったんだ。だったらこれからは何度もしてあげないといけないよね。やっぱり彼氏としては、舞がして欲しいことをしてあげないといけないからさ」
クラスメイトが赤くなったり興味深そうにしている中、中葉は呑気にも感想を述べていた。
真子の言葉は完全に逆効果になっていた。
舞は穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだった。
確かに…確かに、中葉君が話したことに偽りは無いわ。むしろそこまで鮮明に覚えていることに感心するくらいよ。
でも…でもね、世の中には隠すのが『美』なこともあるわけよ。
そのことがなんで中葉君にはわからないのよ!
「あんたさぁ、中葉君のそういったところが嫌で別れたんじゃなかったっけ。それとも別れてからの日記で、そういったところが改善されていることがわかった。だからもう一度つき合おうとでも思ったの?」
「………」
そんなことを思ったことが無かった舞は、返す言葉が見つからない。
「せっかく上がってきた自分の評価を下げてまで、あんたは何をしたかったのよ。そこまで中葉君のことが好きだったとしても、また彼とつき合いたいと思うのなら、あんたは彼のそういった部分もちゃんと受け止めていかなきゃダメなのよ。今のあんたの様子を見ていたら、そのことがわかっているようにはまったく思えないんだけど!」
落ち込む舞に、紗智は容赦が無かった。
だが、彼女の言葉は厳しいながらも正論だ。そのこともわかるので、舞は益々落ち込んでしまうのだ。
そう、すべては自分が悪い。自分の軽い衝動的な行動でこんな結果を招いてしまった。
みんなに構ってもらえない。そんな中、中葉だけが自分を気にかけてくれた。そんなちっぽけな理由だけでこんな結果を引き起こしてしまった。
「そうだよね。こんなの間違っているよね。これじゃ、みんなが呆れるのは当然だし、怒られるのも無理はないよ。中葉君にだって、こんな私の気持ちを全部知られたら呆れられるよね」
舞は膝を抱え、俯いたままだった。
こんなにも早く反省をした舞に、紗智は驚いた
あんなに嫌がっていた中葉とよりを戻すくらいだ。口では滅茶苦茶嫌っていたが、もしかしたら心の底では中葉を本当に愛していたのかもしれない。そうだとすると、まわりが何を言っても無駄だ。
そこまでの覚悟があるのなら祝福しようとさえ思っていたのだが…
もしかしてムッチーって、凄く流されやすい?
そのことを中葉君は知っていたから、ムッチーが流れてくるのを辛抱強く待っていたとかなの?
紗智は初めて知る事実に呆然となったが、そこにそれを知っている人物が現れた。
「本当に流されやすい性格をしているわよね。そこ、いい加減に直した方がいいよ。そうしないと中葉君につけ入れられるだけなんだから」
「えっ、響ちゃん?」
紗智が驚いて声をあげた。
舞は座ったままで呆然と見つめている。
2人の前に表れたのは、実習棟で課題に取り組んでいるはずの響歌だった。
「響ちゃん、ムッチーって、やっぱり流されやすい性格なの?」
紗智から質問を受けて、響歌は呆れたように舞を見ながら肩をすくめた。
「そうじゃないとデート中に何度も終電を逃すミスなんてしないわよ。中葉君のことを嫌っていた時だって、自分がされて嫌なことを彼がしてきたというのもあるけど、私が彼のことを良く思っていなかったからそれに流されたようなのもあったと思うし?」
そう言われてみれば…そんな気がする。
終電を多々逃していたのは意思が弱いからと思っていたが、流されやすいというのもありそうだ。
「で、ムッチー。あんたはこれからどうするつもり?」
「え?」
「中葉君と再びつき合うのか、やっぱり止めておくか。そのどちらかに決まっているでしょ。どうやら歩ちゃんは、中葉君とつき合う前に私とさっちゃんに話しておくよう言っていたみたいだけどさ。つき合う前によく考えた方がいいわよ。はっきり言っておくけど、あの人の性格はまったく変わっていないからね」
響歌はそう言うと、舞と紗智に背を向けて去ろうとした。
「えっ、響ちゃん。どこに行くの?」
紗智が慌てて訊くと、響歌は歩みを止めずに返す。
「だから実習棟。今は一旦抜けてきただけだから。後はさっちゃんに任せるわ」
その言葉を残して、響歌は去っていった。
響歌に勝手に任された紗智は文句の一つくらいは言いたかったが、相手の方が一足早かった。
仕方なく溜息を吐くと、舞に向かう。
「この後、中葉君と会うことになっているんでしょ。もう行った方がいいわよ。まぁ、やっぱりつき合わないということなら、遅れていってもいいとは思うけど?」
このままもう少し話したいけど、そういうわけにもいかないだろう。
中葉はもう既に学校を後にしているはずだ。どちらにしても駿河駅に行った方がいい。
「…さっちゃんはどう思う?」
「はぁ?」
「中葉君とつき合った方がいいか、別れるべきなのか。
それって、もしかして私の意見を聞いてから決めるということ?
紗智はここにきて、舞が流されやすいことを確信した。
「知らないわよ。さっきは止めておいた方がいいようなことを話したけど、それはムッチーが決めるべきことでしょ。私からは何も言わない。つき合うのなら祝福する。以上」
座り続ける舞にそう言うと、紗智もこの場から去っていった。
ただ1人、ここに残された舞は、どうするか悩んでいた。
2人は自分で決めろというようなことを言っていたけど、それは私のことを思って言ってくれたのではなくて放り投げたような感じだった。
ということは私って、響ちゃんとさっちゃんに見捨てられたの?
まっちゃんとは未だにああだし、歩ちゃんも怒っていたような感じだった。
それなのに2人にまで見捨てられたら、私はどうやって生きていったらいいの!
そりゃ、中葉君はいるけど、彼だけでは…って、私って本当に中葉君のことが好きなの?
響ちゃんはさっき中葉君の性格は変わっていないと言っていた。私もそれには否定できない。
しかも中葉君ってば、さっきのことを響ちゃん達に詳細に話していたのよ。
それって、私が最もして欲しくないことじゃない!
なんだかムカムカしてきた。
よく考えてみると私がこうやって悩むことになったのも中葉君がきっかけじゃないの。中葉君がウジウジと私のことを思っているから、私もつい仏心の精神が芽生えて彼の元に戻ろうとしたんだから。
でも、それじゃ、ダメなのよ。
一度壊れたものは、どれだけ修正しようが無駄なのよ!
舞の中で、答えは早くも決まってしまった。
一気に冷める、中葉への熱。
こうしちゃ、いられないわ。中葉君にはやっぱり諦めてもらうように話そう。
舞は立ち上がると、駿河駅に向かった。
舞が駿河駅に着くと、中葉は既に来ていた。駅の前にあるベンチで日記を書いていたが、舞を見つけるとその手を止めた。
「舞、15分遅刻しているぞ。舞から約束してきたのに、自分で破るのはダメだろ」
着いた早々文句を言われて、舞は不貞腐れた。
「ごめんなさい。でも、正確な時間じゃなくて、4時半頃と書いたはずなのに…」
謝りながらも納得ができなくて、それが言葉になって出てしまった。
中葉とつき合う気満々だったら、そんなことは思っていても口や表情に出なかっただろうが、今の気持ちはそれとは違う。
「それでも15分は大幅な遅刻だぞ。もしかして響ちゃん達との話がこじれていたのか。そうならないようにオレが6時間目に伝えておいたんだけどな」
えぇ、そのせいで私は大恥をかいたのよ。
響ちゃんやさっちゃんにも冷たい反応をされて、今は最悪な気分なんだから!
「あの…ね、中葉君。私、やっぱりあなたとつき合うの、止めるわ」
舞の言葉に、中葉は仰天した。
「急にどうしたんだ。あんなに好きだと言ってくれたじゃないか。もしかして響ちゃん達に止められたのか。それなら明日にでも、オレの方から…」
「違うわ、響ちゃん達は止めていない。勝手にしたらいいと言ってくれたわ。でも…」
「だったら、いいじゃないか。2人には舞の方からも報告したんだろ。遅刻したことはもういいから、取り敢えず隣にでも座って…」
「いいえ、私はこのまま帰る。中葉君、やっぱり私とあなたは結ばれない運命なのよ。私のことは諦めて。私もあなたのことを忘れるから」
「急にコロコロ意見を変えるなよ。振り回されているオレの方の身にもなってくれ。みんなに報告だってしてしまったし、今週末のデートの予定も考えていたんだから。あぁ、そうだ。今度のデートこそ最後までしよう。オレも途中で寝ないから、オレの家で…」
「だから別れるって言っているのよ。私は行かないから。それに中葉君ってば、私が嫌になったところもまったく直してくれないじゃない。私は言ったよね。2人きりでのやり取りのことはみんなには話さないようにしてって。それなのに最初から守ってくれていないじゃない。これじゃ、またつき合うのなんて無理よ」
舞は納得できずにいる中葉を残してホームに向かった。
中葉は追いかけようとしたが、その前に片づけなければならない。日記や筆記用具を片づけているうちに舞は電車に乗って帰ってしまった。
舞を乗せた宮内駅行が去ったホームで、中葉は呆然と立ち尽くしていた。
「あっ、響ちゃん。今日は遅い電車で帰るから、先に帰っていいよ」
舞は4組に入ってきた響歌を見つけると、すぐに遅くなることを彼女に告げた。その顔は緊張のあまり強張っていた。
「わかってる」
あ、響ちゃんは『わかっている』んだ。
舞は響歌の返事に少し安心しながらも、言葉を続けようとする。
「それでね、響ちゃん。…あれ?」
響歌の姿は既に舞の前から消えていた。
慌てて探してみると、響歌は窓際で森野香と話していた。
あっさり見つかって良かったけど、話の邪魔をしては悪いよね。
それに私はまだ森野さんと話したことが無いし、この話は森野さんには知られたくないからなぁ。
「どうしよう。森野さんとの話って、すぐに終わるのかなぁ」
この後、舞は中葉と駿河駅で会うことになっている。それまでに響歌に話したいことがあるのだ。
いや、響歌だけではなくて、紗智にも話しておきたいのだが…
「出だしでつまずいちゃった」
舞は肩を落とした。口からは溜息まで出る。
その時、舞の肩を誰かが叩いた。
「ムッチー」
驚いて振り向くと、そこには紗智がいた。
「さっちゃんかぁ。もう、びっくりさせないでよ」
紗智の他には誰もいなかった。
「あれ、今日は1人なんだ。まっちゃんはどうしたの?」
舞の口から自然と出てくる疑問の言葉。
紗智は嫌そうな顔をした。
「ムッチーが思う程、私達はいつも一緒にいるわけじゃないからね」
「あっ、それもそうだよね。ごめん、ごめん。でも、そこは聞いておきたいところなんだよ」
「まっちゃんなら、授業で出た課題のレポートを教室で書いているよ」
「へぇ、まっちゃんって真面目だね。ちなみにさっちゃんや響ちゃんは4組にいるけど、レポートを書かなくて良かったの?」
「私達がここにいちゃ、おかしいの?」
「い、いやっ、おかしくはないけど!」
「私は家に帰ってから書くつもりだし、響ちゃんは既に授業中に仕上げているよ」
紗智は苛々していたが、舞はそれにまったく気づいていない。
「あ~、そうだよね。その方がさっちゃんらしいよね。響ちゃんも授業中に仕上げるあたり、らしさが出ているなぁ。響ちゃんって本当にちゃっかりしているよね」
呑気に感想を述べている。
その時、不機嫌そうな響歌の声がした。
「悪かったわね」
驚いて声がした方を見てみると、いつの間にか響歌が仏頂面で立っていた。その隣には香がいる。
「私は時間を有効に活用しているだけよ。ちゃっかりとだなんて、そんな安っぽい言葉で言わないでよね」
舞に文句を言うと、響歌は香と連れ立って教室から出ていった。
舞は呆然としながら2人を見送った。
「もしかして私、響ちゃんを怒らせた?」
響ちゃんは私が言った『ちゃっかり』という言葉がそんなに嫌だったの?
そんな言葉くらいで怒る程、響歌は短気ではないが、本当に怒ったとなると大変だ。舞には彼女を怒らす前に話しておきたいことがあるのだ。
だが、それは普段の状態の時でもとても切り出しにくい内容だ。それなのに怒らせてしまったとなると余計に話しにくくなるではないか。
舞が頭を抱えているその傍では、紗智が呆れたように舞を見ていた。
「あれだけで響ちゃんが怒るわけがないでしょ。ま、少しムッてしていたのは事実だけどね。今日はこれから実習室でデザインの課題をするって言っていたわよ。だから急いでいたんでしょ。提出日まであまり日が無いみたい」
なーんだ、ただ単に焦っていただけか。
紗智の言葉を聞いて、舞はすぐに立ち直った。
「それなら仕方がないよね。きっと響ちゃんは、急いでいるあまりそっけない言葉しか言えなかったんだよ。焦って損した」
舞は安堵したが、すぐに困惑した表情になる。
響歌が怒ってはいないとはいえ、これから課題をするということは、今日は響歌と話す時間が無いということなのだ。しかもそれは今日だけに限った話では無い。提出日が近いということは、これからの放課後はずっと実習棟にこもるかもしれない。
さすがに10分休憩や昼休みにこもることは無いだろうが、その時間だと響歌と2人きりで話すのは難しい。かといって登校中は低血圧の響歌の機嫌が悪い時が多いので、その時間もできれば避けたい。
それなのに貴重な放課後を課題ごときに取られるなんて!
舞は自分とは無関係であるはずの課題に怒っていた。
「まったく、とんでもないヤツだわ!」
自分の思い通りにならないことに対しての完璧な八つ当たりだ。課題にとってはいい迷惑である。
だが、舞は八つ当たりをせずにはいられなかった。
旧体育館から教室に戻る時、舞は歩と約束を交わしていた。
それは『中葉君とつき合う前に、響ちゃんとさっちゃんにだけはムッチーの方から報告をする』ということだった。
歩が言うには『その方が、後で誰かの口からバレるよりも遥かにいい。後で誰かから聞くことになると、2人は絶対にいい顔をしない』ということらしいのだ。
大事なことは、それがなんであれ本人の口から聞きたいもの。それには舞も同感だった。だから歩の言葉に従った。
そして2人に話すまで中葉とはつき合わないという約束をしたのだ。
その後の舞の行動はとても素早かった。教室に戻るなり、掃除を放ったらかしにして中葉に交換日記を書いた。
今日の放課後、中葉と駿河駅で会いたいということ。その前に、響歌と紗智に自分達がつき合うことを報告するということ。2人に報告するまで自分は中葉とつき合わないということ。2人には今日の放課後に報告するということ。もし報告できなければ、駿河駅でそのことを伝えて今日はそのまま大人しく帰るということ。
以上のようなことを書き、なんと直接中葉に渡したのだ。そしてその場で中葉からも了解を得た。
だからこそ舞は響歌の登場を待ち望み、響歌に冷たくされて焦り、課題に対して八つ当たりをしたのである。
だが、響歌がダメでも、この場には紗智がいる。しかもいつも一緒にいる真子が今日に限っていない。
先程まで響歌を求め過ぎて忘れていたが、舞はそのことにようやく気づいた。
そうよ、響ちゃんがダメでも、私にはまださっちゃんがいるじゃない。響ちゃんに逃げられても、私には嘆いている暇なんて無かったんだわ。
「仕方がないから響ちゃんには明日の朝に勇気を振り絞って伝えることにして、今はこのチャンスをものにするしかないよね。グズグズしていると、まっちゃんが来てしまうかもしれないし…」
「何をブツブツ言っているのよ。用があるのなら早く言ってよね。私だってそんなに暇じゃないんだから」
嫌そうな顔で紗智が言うと、舞は驚いた。
「えっー、さっちゃんってば、なんで用があるって知っているのー!」
舞の大声が教室内に響き渡った。
今は6時間目が終わってから10分も経っていない。教室にはまだたくさんの人が残っていた。
そんな中の大声だ。当然、教室にいたすべての人の目が舞に注がれる。
舞は紗智の言葉に衝撃を受けてそのことに気づいていないが、紗智は別だ。教室に居ずらくなったのは言うまでもない。何もわかっていない舞の手を取ると、急いで教室から出ていった。
「ちょ、ちょっと、さっちゃん。どこまで行くつもりなのよ~!」
叫んでいる舞の腕を離すことなくグイグイ引っ張っていく。
2人は校舎からも出て校庭の横を歩いていた。その間、舞は大声で紗智に話しかけているが、紗智はそれに反応しない。無言で足を進めている。
その足が止まったのは校舎からも校庭からも離れた場所。良くも悪くも、舞の『思い出の場所』になった旧体育館の前だった。
「あの、さっちゃん。なんで…ここに来た…の?」
舞が恐る恐る訊ねると、紗智は少し笑みを浮かべた。
「それはもちろん、ムッチーが喜ぶかと思って…ね?」
最後につけ足した感じがする『ね』が、意味があるようで怖い。
「さっちゃん…誰から、何を…聞いたの?」
舞は泣きそうだった。
紗智は完全に怒っている。怒鳴られてはいないものの、その纏う空気が完全に怒っている時のそれだった。
しかも彼女は、舞がこれから伝えようとしている以上のことを知っているような言い回しだったのだ。
紗智の顔から笑みが消えた。苛立たしげに舞と向き合う。
「あんた、まっちゃんとの仲がこじれている中で、よくもまぁ、呑気に恋愛をしようという気になれるわね。私だったら考えられないことよ。まっちゃんが知ったら絶対にいい気がしないし、あんた、まっちゃんから今以上に避けられるわよ。それでもいいの。ムッチーはもうまっちゃんとの仲を修復したいとは思っていない。そう受け取っていいのね?」
えぇっ、私は別にまっちゃんとの仲をないがしろにしようとしているわけではないわ。
私と中葉君とのことは、まっちゃんからしたら無関係のはずよ。それなのにどうして私と中葉君の話がまっちゃんの方に行ってしまうの?
思ってもみなかった言葉に、舞は何も返せなかった。
「ムッチーは忘れているようだけど、まっちゃんは失恋中なの。自分を励ましてくれると思っていたムッチーに厳しい言葉を言われてそのショックが癒えない時に、今度は想い人である高尾君に彼女がいるということを知ってしまった。まっちゃんにとってはとても辛い時期なの。そりゃ、まっちゃんにだって大きな非はあると思うよ。でも、落ち込んでいるのはまぎれもない事実。そんな時、自分に厳しい態度を取ったムッチーが、自分の失恋中に男とのろけていると知ってごらん。とてもじゃないけど寛大な心では受け入れられない。それどころかまっちゃんの性格からすれば、ムッチーは憎まれてもおかしくないわ」
紗智の言葉はまだ予想の範囲だが、とてもあり得そうなことだった。
舞はそのことにようやく気づいて顔が真っ青になったが、紗智は容赦なかった。
「しかもあんた、ここで何をしようとしていたの。昼休みに、こんな、人目がつきやすい、この場所で!」
顔を怒りで真っ赤にさせて校庭や校舎を指さす紗智の姿を見て、舞は確信した。
やはり紗智はすべてを知っている!
だが、自分はまだ何も話していない。多分、歩も、だ。昼休みはもちろん5、6時間目の中休みの時も、歩が紗智と接触していたことは無い。歩はずっと4組にいたのだから。
ということは、もしかして歩ちゃん以外にも…
「誰かに見られていた?」
考えたくはないが、それしか可能性が見当たらない。
これはもう恥ずかしいどころではない。
そんなことになっていたら生きていけない!
舞は頭を抱えた。
紗智には舞の考えていることが手に取るようにわかった。
そんなに恥ずかしいなら、場所くらい考えなさいよ。
呆れ果て、溜息を吐く。
「多分、見られてはいないと思うわよ。校庭やテニスコートには誰もいなかったみたいだし、ここは校舎からも見える場所ではあるけど、それでも4階からしか見えないはずだもの。1階から3階はあの大木が邪魔しているから」
唯一見えるであろう4階は、今のところ全学年が美術の時間にしか利用していない。他はみんな空き教室になっているし、もちろん空き教室にはすべて鍵がかかっている。用が無ければ、わざわざ4階に行かない。
だから大丈夫だろうと、紗智は呆れながらも舞に言ってくれたのだ。
だが、それならどうして紗智は知っているのか。
あの行為が誰かに見られていないのであれば、可能性はおのずと絞られてくる。
「もしかして…歩ちゃんから訊いたの?」
その可能性は限りなく低いのだが、舞はその可能性に懸けた。
中葉を信じたかったのだ。
「中葉君」
あっけなく紗智の口から名が出て、その希望は打ち砕かれた。
「中葉君」
念の為だろうか、紗智は無表情で中葉の名前を繰り返した。その紗智の表情に、嘘偽りはまったく無かった。
あぁ、やっぱり中葉君だったんだ。
舞は脱力し、その場に座り込んだ。
「知っているのって、さっちゃんだけなのかな。他の人は…ほら、響ちゃんとかは?」
「響ちゃん、まっちゃん、亜希ちゃんは知ってる。私達が集まっていた時、中葉君がやってきて話してくれたから。ずっと自分の席にいた沙奈絵ちゃんは知らないけどね」
舞の質問に返した紗智の声は『それがどうした』と言わんばかりに冷めたものだった。
紗智の声にもだが、一気に4人に知られたことがわかり、舞は落ち込んだ。
しかもその4人の中に真子の名前があるではないか!
ということは紗智の予想が当たれば、舞は真子に避けられてしまうことになる。いや、実際に避けられているのかもしれない。放課後になるといつも紗智と一緒に4組に来るのに、今日は紗智だけだった。レポートがどうのと言っていたが、それは表向きの理由なのではないのか?
それと中葉が、彼女達にどこまで話したかも気にかかる。どうもすべて話したような気がしてならないのだ。
すべてを知るのが…怖い。
だが、知らないでいるのも嫌だ。
だけど…怖い!
頭を抱えて俯いた舞に、紗智は容赦がなかった。
ほんの数時間前にあったことを、俯く舞に話し始めた。
今日もあと1時間で授業が終わる。その授業も、担当の先生が休みということで自習だった。代理の先生が来て、黒板に大きく『自習』と書いた瞬間、教室中が歓喜に満ちたことは言うまでもないだろう。
みんな好き勝手に過ごしたり、机にうつ伏せになって寝たりして気ままに過ごしていた。
響歌達も例外ではない。沙奈絵は自分の席から動かずに読書をしていたが、他の4人は固まって世間話をしていた。
その時、グループの輪の外から響歌を呼ぶ声がした。
「響ちゃん」
声を聞くだけで、ここにいる4人すべてが誰が来たのかわかった。わかったと同時に、その表情が不審なものに変わる。
だが、呼ばれた本人である響歌は、誰が相手であれ無視することはできない。
「何?」
平淡な声で返事をした。
真子が紗智の方に寄り、声の主が入れるスペースを開ける。その間に中葉が堂々と入ってきた。
端から見れば完全に浮いているのに、本人はそんなことはまったく気にしていない。相変わらずののんびりした口調で驚くべき言葉を口にした。
「オレさぁ、また舞とつき合うことになったんだ」
『……………』
亜希と真子は驚きのあまり目が点になった。返す言葉も見つからないといった感じだ。紗智は不審そうな目を中葉に向けている。その3人に比べると響歌はまだ冷静な感じだったが、その表情から好意的な感情は一切伝わってこない。
普通なら、自分達の友人に再び彼氏ができたのだ。喜ぶだろうし、興奮もするだろう。
だが、今の彼女達からは色々な感情が見て取れるが、そういった類のものはまったく入っていなかった。しかも響歌と紗智からは明らかに歓迎されていないというのが容易にわかる。普通の人間であれば、いたたまれなくなって早々にこの場から去るだろう。
だが、ここにいる中葉は『オレは傷ついた』とよく言っているが、実際は図太い神経の持ち主だった。しかもそれに加えて鈍感だった。
堂々と居座り、尚も響歌に向かって話し始めた。
あくまでも彼のターゲットは響歌だったのだ。
「やっぱり思い続けていたら報われるんだね。日記に書いてアピールしてきたかいがあったよ」
中葉はとても幸せそうだった。
そんな彼の姿を見ても、一緒に歓ぶといった行為をする者はこの場には誰もいなかった。
呆れて彼を見る者。
真っ赤な顔で絶句している者。
相変わらず不審な眼差しを彼に送っている者。
苦虫を噛み潰したような顔をしている者。
4人それぞれ別な顔をしてはいたが…
そんな中、顔を赤らめていた者が、言いにくそうにしながらも口を開いた。
「あの…ね、中葉君。よりを戻すとか、そういう話は別にいいんだけど…ね。その…そこまで話す必要は…」
「何、糸井さん?」
赤い顔をしていたのは真子だった。
中葉は彼女が何を言いたいのかわからず、キョトンとしている。
真子は益々顔を赤らめながらも続けた。
「あ、あの…ね。そこまで…というか、ムッチーと旧体育館の前でっていうところは…ね。別に話さ…」
「あー、そのことかぁ!」
突然、大きな声を出して納得する中葉。
話の途中で大声を出された真子は、驚きのあまり最後まで言えなかった。それでも彼がようやくわかってくれたので少し安心した。
「大丈夫だよ、糸井さん。だってさっき話したことは全部本当のことだもの。それに長谷川さんも知っているんだ。それならみんなにも知る権利はあるだろ。みんなは長谷川さんと同じで舞の友達なんだから。それなのに長谷川さんだけ知っていたら不公平じゃないか。だからオレは、みんなにも知って欲しくて話したんだ。できれば生で見せてあげたかったよ。あの時の潤んだ舞の目といい、1カ月ぶりの激しい接吻。それになんといっても舞の、あの清らかな裸体。本当に最高だったよ!」
本当に最高だったのだろう、中葉の声は喜びのあまり大きくなっていた。もちろんその声は響歌達以外の人の耳にも届いている。
クラスのみんなが中葉に注目し始めたが、舞にとっては不幸なことに本人はそれにまったく気づいていない。
「それにしても女の子が自分から服を脱ぐところを見るのって結構いいものなんだね。それに何も着けていない舞の胸を触ったら本当に気持ちよくてさぁ。その時って、やっぱり女の子の方も気持ちよかったりするのかな。前もそうだったけど、今回も舞は気持ちよさそうだったんだ。だったらこれからは何度もしてあげないといけないよね。やっぱり彼氏としては、舞がして欲しいことをしてあげないといけないからさ」
クラスメイトが赤くなったり興味深そうにしている中、中葉は呑気にも感想を述べていた。
真子の言葉は完全に逆効果になっていた。
舞は穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだった。
確かに…確かに、中葉君が話したことに偽りは無いわ。むしろそこまで鮮明に覚えていることに感心するくらいよ。
でも…でもね、世の中には隠すのが『美』なこともあるわけよ。
そのことがなんで中葉君にはわからないのよ!
「あんたさぁ、中葉君のそういったところが嫌で別れたんじゃなかったっけ。それとも別れてからの日記で、そういったところが改善されていることがわかった。だからもう一度つき合おうとでも思ったの?」
「………」
そんなことを思ったことが無かった舞は、返す言葉が見つからない。
「せっかく上がってきた自分の評価を下げてまで、あんたは何をしたかったのよ。そこまで中葉君のことが好きだったとしても、また彼とつき合いたいと思うのなら、あんたは彼のそういった部分もちゃんと受け止めていかなきゃダメなのよ。今のあんたの様子を見ていたら、そのことがわかっているようにはまったく思えないんだけど!」
落ち込む舞に、紗智は容赦が無かった。
だが、彼女の言葉は厳しいながらも正論だ。そのこともわかるので、舞は益々落ち込んでしまうのだ。
そう、すべては自分が悪い。自分の軽い衝動的な行動でこんな結果を招いてしまった。
みんなに構ってもらえない。そんな中、中葉だけが自分を気にかけてくれた。そんなちっぽけな理由だけでこんな結果を引き起こしてしまった。
「そうだよね。こんなの間違っているよね。これじゃ、みんなが呆れるのは当然だし、怒られるのも無理はないよ。中葉君にだって、こんな私の気持ちを全部知られたら呆れられるよね」
舞は膝を抱え、俯いたままだった。
こんなにも早く反省をした舞に、紗智は驚いた
あんなに嫌がっていた中葉とよりを戻すくらいだ。口では滅茶苦茶嫌っていたが、もしかしたら心の底では中葉を本当に愛していたのかもしれない。そうだとすると、まわりが何を言っても無駄だ。
そこまでの覚悟があるのなら祝福しようとさえ思っていたのだが…
もしかしてムッチーって、凄く流されやすい?
そのことを中葉君は知っていたから、ムッチーが流れてくるのを辛抱強く待っていたとかなの?
紗智は初めて知る事実に呆然となったが、そこにそれを知っている人物が現れた。
「本当に流されやすい性格をしているわよね。そこ、いい加減に直した方がいいよ。そうしないと中葉君につけ入れられるだけなんだから」
「えっ、響ちゃん?」
紗智が驚いて声をあげた。
舞は座ったままで呆然と見つめている。
2人の前に表れたのは、実習棟で課題に取り組んでいるはずの響歌だった。
「響ちゃん、ムッチーって、やっぱり流されやすい性格なの?」
紗智から質問を受けて、響歌は呆れたように舞を見ながら肩をすくめた。
「そうじゃないとデート中に何度も終電を逃すミスなんてしないわよ。中葉君のことを嫌っていた時だって、自分がされて嫌なことを彼がしてきたというのもあるけど、私が彼のことを良く思っていなかったからそれに流されたようなのもあったと思うし?」
そう言われてみれば…そんな気がする。
終電を多々逃していたのは意思が弱いからと思っていたが、流されやすいというのもありそうだ。
「で、ムッチー。あんたはこれからどうするつもり?」
「え?」
「中葉君と再びつき合うのか、やっぱり止めておくか。そのどちらかに決まっているでしょ。どうやら歩ちゃんは、中葉君とつき合う前に私とさっちゃんに話しておくよう言っていたみたいだけどさ。つき合う前によく考えた方がいいわよ。はっきり言っておくけど、あの人の性格はまったく変わっていないからね」
響歌はそう言うと、舞と紗智に背を向けて去ろうとした。
「えっ、響ちゃん。どこに行くの?」
紗智が慌てて訊くと、響歌は歩みを止めずに返す。
「だから実習棟。今は一旦抜けてきただけだから。後はさっちゃんに任せるわ」
その言葉を残して、響歌は去っていった。
響歌に勝手に任された紗智は文句の一つくらいは言いたかったが、相手の方が一足早かった。
仕方なく溜息を吐くと、舞に向かう。
「この後、中葉君と会うことになっているんでしょ。もう行った方がいいわよ。まぁ、やっぱりつき合わないということなら、遅れていってもいいとは思うけど?」
このままもう少し話したいけど、そういうわけにもいかないだろう。
中葉はもう既に学校を後にしているはずだ。どちらにしても駿河駅に行った方がいい。
「…さっちゃんはどう思う?」
「はぁ?」
「中葉君とつき合った方がいいか、別れるべきなのか。
それって、もしかして私の意見を聞いてから決めるということ?
紗智はここにきて、舞が流されやすいことを確信した。
「知らないわよ。さっきは止めておいた方がいいようなことを話したけど、それはムッチーが決めるべきことでしょ。私からは何も言わない。つき合うのなら祝福する。以上」
座り続ける舞にそう言うと、紗智もこの場から去っていった。
ただ1人、ここに残された舞は、どうするか悩んでいた。
2人は自分で決めろというようなことを言っていたけど、それは私のことを思って言ってくれたのではなくて放り投げたような感じだった。
ということは私って、響ちゃんとさっちゃんに見捨てられたの?
まっちゃんとは未だにああだし、歩ちゃんも怒っていたような感じだった。
それなのに2人にまで見捨てられたら、私はどうやって生きていったらいいの!
そりゃ、中葉君はいるけど、彼だけでは…って、私って本当に中葉君のことが好きなの?
響ちゃんはさっき中葉君の性格は変わっていないと言っていた。私もそれには否定できない。
しかも中葉君ってば、さっきのことを響ちゃん達に詳細に話していたのよ。
それって、私が最もして欲しくないことじゃない!
なんだかムカムカしてきた。
よく考えてみると私がこうやって悩むことになったのも中葉君がきっかけじゃないの。中葉君がウジウジと私のことを思っているから、私もつい仏心の精神が芽生えて彼の元に戻ろうとしたんだから。
でも、それじゃ、ダメなのよ。
一度壊れたものは、どれだけ修正しようが無駄なのよ!
舞の中で、答えは早くも決まってしまった。
一気に冷める、中葉への熱。
こうしちゃ、いられないわ。中葉君にはやっぱり諦めてもらうように話そう。
舞は立ち上がると、駿河駅に向かった。
舞が駿河駅に着くと、中葉は既に来ていた。駅の前にあるベンチで日記を書いていたが、舞を見つけるとその手を止めた。
「舞、15分遅刻しているぞ。舞から約束してきたのに、自分で破るのはダメだろ」
着いた早々文句を言われて、舞は不貞腐れた。
「ごめんなさい。でも、正確な時間じゃなくて、4時半頃と書いたはずなのに…」
謝りながらも納得ができなくて、それが言葉になって出てしまった。
中葉とつき合う気満々だったら、そんなことは思っていても口や表情に出なかっただろうが、今の気持ちはそれとは違う。
「それでも15分は大幅な遅刻だぞ。もしかして響ちゃん達との話がこじれていたのか。そうならないようにオレが6時間目に伝えておいたんだけどな」
えぇ、そのせいで私は大恥をかいたのよ。
響ちゃんやさっちゃんにも冷たい反応をされて、今は最悪な気分なんだから!
「あの…ね、中葉君。私、やっぱりあなたとつき合うの、止めるわ」
舞の言葉に、中葉は仰天した。
「急にどうしたんだ。あんなに好きだと言ってくれたじゃないか。もしかして響ちゃん達に止められたのか。それなら明日にでも、オレの方から…」
「違うわ、響ちゃん達は止めていない。勝手にしたらいいと言ってくれたわ。でも…」
「だったら、いいじゃないか。2人には舞の方からも報告したんだろ。遅刻したことはもういいから、取り敢えず隣にでも座って…」
「いいえ、私はこのまま帰る。中葉君、やっぱり私とあなたは結ばれない運命なのよ。私のことは諦めて。私もあなたのことを忘れるから」
「急にコロコロ意見を変えるなよ。振り回されているオレの方の身にもなってくれ。みんなに報告だってしてしまったし、今週末のデートの予定も考えていたんだから。あぁ、そうだ。今度のデートこそ最後までしよう。オレも途中で寝ないから、オレの家で…」
「だから別れるって言っているのよ。私は行かないから。それに中葉君ってば、私が嫌になったところもまったく直してくれないじゃない。私は言ったよね。2人きりでのやり取りのことはみんなには話さないようにしてって。それなのに最初から守ってくれていないじゃない。これじゃ、またつき合うのなんて無理よ」
舞は納得できずにいる中葉を残してホームに向かった。
中葉は追いかけようとしたが、その前に片づけなければならない。日記や筆記用具を片づけているうちに舞は電車に乗って帰ってしまった。
舞を乗せた宮内駅行が去ったホームで、中葉は呆然と立ち尽くしていた。