落ちこぼれ聖女ですが、王太子殿下のファーストキスは私がいただきます!【書籍化】
 昨日のキス練習の余韻で、何となくアーノルト殿下と目を合わせるのが怖かった。もしかしたら殿下とは明日でお別れかもしれない。私が故郷に戻れば、もう一生殿下と会うこともないだろう。

 だからこそこんなに殿下と密着したくなかった。これ以上殿下に近付けば、自分でも認めたくないおかしな感情が、胸の中から飛び出してきそうな気がしてならなかったからだ。
 馬の上で体が揺れる度に昨日の首筋へのキスを思い出しては、ブンブンと首を振って雑念を取り除く。

 今日は殿下が兜を被って来てくれたのが、せめてもの救いだ。

 しばらく木立ちの間を進んでいると、少し開けた広い場所に出た。先ほど崖の下を流れていた小川は私たちのすぐ左側に見える。

「うわぁ……綺麗な小川! それに山の上は空気も美味しいですね。この川はヘイズ領から流れてきているのですか?」
「いや、この川は山頂の湧き水から流れてきているんだ。王都に流れ込む頃には支流を含めて大きな川になる」
「そうなんですね。ここはあの洪水が起こった川じゃないんだ……」
「ヘイズ領はこの山を越えた反対側だからね。川を見るとどうしても洪水のことが頭を過るが、元々このイングリス王国は川に守られてきた国だ。文化交流も商業の発展もこの川のおかげだ」

 しばらく進み、私たちは川の側で馬を降りた。アーノルト殿下が近くにあった木に馬を繋いでいる間に、私は小川の側にしゃがみこんで、冷たい水に手を伸ばす。

 始まりはこんなに静かで小さな流れでも、時と場所によっては人も家も飲み込んでしまう川。「人は見た目に寄らない」というけれど、もしかしたら自然だって同じなのかもしれない。

 私から見えている世界は、ほんの一つの側面でしかない。
 別の角度から見れば、全く違った世界が広がることだってあるのだ。

 川の水をじっと眺めている私のうしろで、アーノルト殿下が私に付いて河原に降りて来た。

「……まるでこの川は、アーノルト殿下みたいですね」
「どういうこと?」
「殿下は将来イングリス国王になります。王は大きな権力を持っているけど、王の采配によってこの国は平和で穏やかな国にもなるし、恐怖に支配されたおぞましい国にもなる」

 まるで、この小川のように。
 美しくて繊細な流れと、人も村も一度に飲み込む濁流は、いつも背中合わせだ。
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