雪降る聖夜にただ、貴方だけを
4
「来ちゃった……」
年末のパリは予想以上に寒かった。
それに先程からチラチラと粉雪まで降ってきた。
けれど凍るような空気に煌めくイルミネーションは、梨紗の予想以上に美しかった。
会社の有給を使って3泊4日の弾丸パリ一人旅。
クリスマスシーズンの海外旅行なんて贅沢、もう二度としないから今回だけは……そう自分に言い聞かせた。
9月に都筑とたまたま会って助けられてから、情けないけれど彼の事が頭から離れない。
忘れなければ、そう思うのに通院の度に都筑に会えたらと心のどこかで切望してしまう自分がいた。
このままでは前に進めない。
そう思った梨紗は思い切ってパリまでやって来た。
何かやったことの無いような事をすれば、気分も変わり、心機一転できるかもしれないと思ったからだ。
エッフェル塔近くのホテルに荷物を置いて、六番線のメトロでシャンゼリゼ通りに向かった。
歩いているだけで、寒さで手がかじかんで耳が痛いし、雪も降り続けている。
それでもワクワクした。
都筑の言っていた通り、街のあちこちにクリスマスのデコレーションが施され、琥珀色に輝く電飾はロマンチックだ。
道幅の広いシャンゼリゼを凱旋門からゆっくり下って行く。
途中、マルシェ・ド・ノエルでヴァンショー(ホットワイン)を買って飲んだ。
シナモン等のスパイスが効いていて身体の芯まで温まる。
歩きながら、凱旋門の方を振り返ると、並木に連なるライトがチラチラと降りしきる雪化粧の中で幻想的に輝いている。
「綺麗……」
いつかカレンダーで見たのよりも数段美しい。
(都筑先生と見られたら、もっともっと綺麗だったろうな……)
ぽろっと浮かんでしまった本音に梨紗は自分でも愕然とした。
せめて告白ぐらい出来る環境で出会いたかった。想いすら告げられない事がこんなにも辛いなんて、知りたくなかった。
柔らかなイルミネーションの光以外はそれ程明るくない事に安堵しながら、流れてしまった一粒の涙をそっと拭いた。
胸が痛い。
こんなに綺麗な景色も、初めての海外旅行にワクワクしていた気持ちも、もう心に入ってこない。
意味を解さないフランス語があちこちから飛び交う。
少し遠くではロマンチックなクリスマスの歌が掛かっていて、アーモンドをキャラメリゼした甘い香りがどこからともなく流れて来て鼻をくすぐる。
(何も要らない、ただ都筑先生の腕の中にぎゅって抱き締めて、キスして欲しい……ううん、今夜ただ少しの間一緒に居て、あの瞳に私を映してくれるだけでもいい……)
梨紗は虚しくなって、シャンゼリゼ通りを元来た方へ歩き始めた。
その矢先、少し盛り上がっていた道の凸面につまずいて、前を歩いていた人の背中に手に持っていたホットワインをこぼしてしまった。
「すみませんっ!」
咄嗟に出たのは日本語だった。
相手が振り返る。
「嘘だろ……」
梨紗はその声に下げていた頭を上げる。
その瞬間に、周りの音がきこえなくなった。
「つ、都筑先生……?」
梨紗は穴が空くほど相手の顔を見てしまう。
「あの、都筑先生ですか……?」
固まったままの相手に問うと、ようやく「そうです。こんな所で出会うなんて驚きました、日向さん」と言った。
「すみません、うっかりしていて、先生のコートの背中にホットワインをこぼしてしまいました……弁償させて下さい!」
その質の良さそうなコートに、この時ばかりは弁償したらいくらだろうと別の意味でのドキドキに包まれる。
「大丈夫です、気にしないで下さい。黒だから見えませんし、もうずっと着ていて家族からも買い換えろと言われていたくらいですから」
「でも……ではせめてクリーニング代を……」
納得出来ない梨紗は代替案を持ち掛ける。
「日向さん、この後ご予定はありますか?」
「いえ、特には……ふらっと来た一人旅ですので……」
気恥ずかしくなって、少しうつむく。
「では私にコーヒーを一杯ご馳走してくれませんか? それでコートの事は忘れて下さい」
「でもっ……そんなんじゃ……」
「寒くて凍えそうなんです。ねっ?」
都筑はそう言って梨紗の左手を取った。
確かにその手は氷のように冷たくなっていた。
都筑はこぼれてしまったホットワインのカップを梨紗から受け取ると、近くの屑籠に入れた。
「この時間帯は人が増えます。はぐれないようにしてください。さあ、行きましょう」
都筑は梨紗の手を繋いだまま、シャンゼリゼから一本入った小道にあるカフェに入る。
落ち着いた雰囲気のカフェで、都筑が何かフランス語で言うと、店員が笑顔で奥のソファ席に案内してくれた。
向かい合って座る段になって、都筑はようやく手を離した。
都筑はカフェを、梨紗はカプチーノのを頼んだ。
「本当にすみませんでした」
梨紗がこの信じられない様な状況に舞い上がりつつも改めて謝ると、都筑は気にしないで下さいと笑った。
「先生、何か用事の途中だったのではないですか?」
都筑の持っていた女性物の高級ブランド靴の紙袋をチラッと横目に見ながら尋ねる。
「用事があるのは明日の昼です。今年はパリに住む祖母が80歳になるので、皆でこちらでクリスマスを祝うことになって、さっき日本から到着しました」
「お祖母様は、フランスの方なんですか?」
「祖母と僕の母がフランス人です」
「それで先生はフランス語が話せるのですね」
「祖母には語彙が少ないと会う度にお叱りを受けます。日向さんは何日位こちらにいらっしゃるんですか?」
「27の夕方に日本に帰ります」
「そうですか。パリは初めていらしたんですか?」
「そうです、と言うか海外旅行自体初めてで……でも大分身体の調子も良くなりましたし、シャンゼリゼ通りのイルミネーションを見てみたくて……」
「実物はあのカレンダーより綺麗でしょ?」
「え……」
梨紗は絶対に忘れてるだろうと思っていた事を都筑がなんでもない無いことのように言ったので、驚いてしまう。
それを梨紗が忘れていて分からないと受け取ったのか、都筑は慌てて説明しようとする。
「去年の今頃、診察室にシャンゼリゼのイルミネーションの写真のカレンダーがあって、日向さんとそのお話をしたんです。覚えてないですよね、突然すみません」
ふと視線を反らす都筑。
梨紗はあんな小さな会話の内容を都筑が覚えてくれていた事が嬉しくて、たまらなかった。
「覚えてます……」
梨紗が小さな声で答える。
「フランスではイルミネーションのせいで停電することもあるって……」
都筑が目を見張った。
あぁ、なんで今日の都筑は一段とかっこいいのだろう。ちょっと強引で、よく笑って、あんな小さな事も覚えてくれていて、ついつい勘違いしそうになってしまう。
梨紗はハンドバッグからお財布を出しながら言った。
「先生が話して下さった事はよく覚えています。どんなにささやかな事でも……すみません、これでは足りないかもしれませんが、クリーニング代です」
そう言って紙幣数枚を出してテーブルに置いた。
梨紗はこれ以上ここに居たら、妙な事を口走ってしまいそうで、驚く都筑を置いて立ち上がり、店の出口に向かう。後ろで都筑が何かウェイトレスに告げているのが聞こえる。
さっき来た道を戻り、シャンゼリゼの人混みに紛れれば、雪も降っているし、多少涙が流れたって、誰も気にも止めないはずだ。
コートを汚してしまった都筑には申し訳ないが、ただ一目だけでも会いたいと願った自分の祈りが叶ってしまった。
たった5分くらいだけの時間だけれど、奇跡みたいに幸せな時間だった。
(もういい。これで、この思い出だけで、生きていける。こんなにも好きな気持ちが溢れてしまうなんて、思ってもいなかった。これが吊り橋効果なのか、気の迷いなのか、錯覚なのか、解らない。でもこの幸せで、苦い痛みの感覚だけは本当──)
「──さん、日向さん、待ってください」
梨紗は後ろから右のコートの袖を掴まれた。
思わずよろけそうになると、都筑が支えて抱き締められた。
気が付くとすっぽりと都筑の腕に収まっていた。
「どうして急に居なくなってしまったんですか?」
「先生、離して下さい……」
「日向さんが本当の事を言ってくれたら話します」
「でも、これだと息もまともに出来ませんっ!」
必死に訴えると、都筑は渋々解放したが、梨紗のコートの両袖は掴んだままだった。
大きな子供が駄々をこねているみたいだ。
「私、あのまま先生の側に居たら、とんでもないことを言ってしまいそうで……」
「とんでもないことを?」
梨紗はコクりと頷く。
「私、多分、先生の事が好きでした。でもそれが錯覚なのか、本当の気持ちなのか自分でも分からなくて……」
都筑を見上げると寒さで少し潤んだ瞳で自分を見つめていて、耳と頬は赤くなっている。
「良かった、勘違いじゃなくて……」
そう呟くと都筑は再び梨紗を抱き締めた。
今度は優しく、まるで繊細なものを壊さないように細心の注意を払うかのように。
「さっき道で日向さんに会った時に、やっぱり好きだって痛感しました。それで強引にお茶に誘ってしまいました。しかも些細な会話の内容を覚えてくれていて、もしかして少し位は脈があるんじゃないかって期待してしまいました」
「先生が、私を……?」
「そうです。多分、初めて会った時から。一目惚れでした。でも立場上、当たり前ですが何も伝えられませんでした。その上、治療を途中で止めたいと言われて、僕の治療では日向さん力になれなかったんだと反省して、後悔もしました」
都筑はそこまで言ってぎゅっと梨紗を抱き締めた。
「先生、ちょっと痛いです……」
「すみません、また逃げられてしまいそうで、不安なんです」
「そんな……治療を止めたのは、先生への気持ちが溢れて来て辛かったからです。先生に申し訳ない気持ちもありましたし……」
「……じゃあキスで償ってくれますか?」
「へ?」
「嘘です。でも日向さんにキスしたいのは本当です」
そう言った都筑は抱き締めていた梨紗の左頬に手を添えてキスをした。
梨紗の心臓は甘い痛みでキュンキュンとねじれそうだった。
短いキスが名残惜しくて思わず目を開けて都筑を見た。
「日向さん、その表情と唇は反則です……」
やれやれと言う風に己の髪をかき上げたかと思うと、今度は食べられてしまうんじゃないかと思うほどの激しいキスをされる。
心だけじゃなくて、腰も溶かされて、立っているのがやっとの梨紗を都筑が抱き止めながら、長い長いキスが終わらない。
何度も唇が重なり、その中まで執拗に求められ吸われて、身体の中心がとろけていく。
いつもの冷静な都筑からは考えられない程の情熱と、深まるキスにどんどんその存在を誇示してくる都筑の下半身に、自分にこれ程迄に淫らな部分があったのかと思えるほどのあられもない願望が湧き出てくる。
ピチャピチャと二人の粘膜や舌が絡み合って聞こえてくる水音だけでも恥ずかしいのに、背中をコート越しに撫でられただけで「んん……」とはしたない声が漏れてしまう。
もうどうにでもして、むしろめちゃくちゃにして欲しい、そんな事を思いながらすがるように都筑の背中に腕を回した時、梨紗はあることを思い出し「あっ!」と明らかに今までとは違う声を上げた。
「ん?」
どうしたの?とでも言うように甘い笑顔で梨紗を覗き込む都筑の瞳に、男の欲望の色が滲んでいる。
「先生、プレゼント! お祖母様へのプレゼント、カフェに忘れてませんか!?」
「日向さん、そんな事今は……」
本当に恨めしそうに梨紗を見る都筑の腕を引っ張ってカフェに戻ろうとする梨紗。
「駄目ですよ、パリは盗難が多いって言うし、もしかしたらもう無いかも……急ぎましょう!」
「梨紗」
急に名前で呼ばれて立ち止まる。
「梨紗って呼んでいいですか?」
「……どうぞ」
正直恥ずかしいけれど、嬉しい気持ちの方が強い。
「僕の名前は、知ってますか?」
まだキスを中断されて拗ねているような顔をして聞いてくる。
「存じ上げています、圭一さん……」
「梨紗に名前を呼んでもらえる日が来るなんて。梨紗が居てくれれば、もう一生クリスマスプレゼントも何も要らない気分です」
さっきまでの駄々っ子はどこへやら、満足気な都筑の笑顔は凄まじく色っぽくて、祖母へのプレゼントを見つけ次第、さっきのキス以上の事が間髪入れずに開始する事がありありと伝わって来た。
梨紗は赤くなる頬を感じながら「私もです……でも今は早くカフェに行きましょう」と小声で言うのがやっとだった。
年末のパリは予想以上に寒かった。
それに先程からチラチラと粉雪まで降ってきた。
けれど凍るような空気に煌めくイルミネーションは、梨紗の予想以上に美しかった。
会社の有給を使って3泊4日の弾丸パリ一人旅。
クリスマスシーズンの海外旅行なんて贅沢、もう二度としないから今回だけは……そう自分に言い聞かせた。
9月に都筑とたまたま会って助けられてから、情けないけれど彼の事が頭から離れない。
忘れなければ、そう思うのに通院の度に都筑に会えたらと心のどこかで切望してしまう自分がいた。
このままでは前に進めない。
そう思った梨紗は思い切ってパリまでやって来た。
何かやったことの無いような事をすれば、気分も変わり、心機一転できるかもしれないと思ったからだ。
エッフェル塔近くのホテルに荷物を置いて、六番線のメトロでシャンゼリゼ通りに向かった。
歩いているだけで、寒さで手がかじかんで耳が痛いし、雪も降り続けている。
それでもワクワクした。
都筑の言っていた通り、街のあちこちにクリスマスのデコレーションが施され、琥珀色に輝く電飾はロマンチックだ。
道幅の広いシャンゼリゼを凱旋門からゆっくり下って行く。
途中、マルシェ・ド・ノエルでヴァンショー(ホットワイン)を買って飲んだ。
シナモン等のスパイスが効いていて身体の芯まで温まる。
歩きながら、凱旋門の方を振り返ると、並木に連なるライトがチラチラと降りしきる雪化粧の中で幻想的に輝いている。
「綺麗……」
いつかカレンダーで見たのよりも数段美しい。
(都筑先生と見られたら、もっともっと綺麗だったろうな……)
ぽろっと浮かんでしまった本音に梨紗は自分でも愕然とした。
せめて告白ぐらい出来る環境で出会いたかった。想いすら告げられない事がこんなにも辛いなんて、知りたくなかった。
柔らかなイルミネーションの光以外はそれ程明るくない事に安堵しながら、流れてしまった一粒の涙をそっと拭いた。
胸が痛い。
こんなに綺麗な景色も、初めての海外旅行にワクワクしていた気持ちも、もう心に入ってこない。
意味を解さないフランス語があちこちから飛び交う。
少し遠くではロマンチックなクリスマスの歌が掛かっていて、アーモンドをキャラメリゼした甘い香りがどこからともなく流れて来て鼻をくすぐる。
(何も要らない、ただ都筑先生の腕の中にぎゅって抱き締めて、キスして欲しい……ううん、今夜ただ少しの間一緒に居て、あの瞳に私を映してくれるだけでもいい……)
梨紗は虚しくなって、シャンゼリゼ通りを元来た方へ歩き始めた。
その矢先、少し盛り上がっていた道の凸面につまずいて、前を歩いていた人の背中に手に持っていたホットワインをこぼしてしまった。
「すみませんっ!」
咄嗟に出たのは日本語だった。
相手が振り返る。
「嘘だろ……」
梨紗はその声に下げていた頭を上げる。
その瞬間に、周りの音がきこえなくなった。
「つ、都筑先生……?」
梨紗は穴が空くほど相手の顔を見てしまう。
「あの、都筑先生ですか……?」
固まったままの相手に問うと、ようやく「そうです。こんな所で出会うなんて驚きました、日向さん」と言った。
「すみません、うっかりしていて、先生のコートの背中にホットワインをこぼしてしまいました……弁償させて下さい!」
その質の良さそうなコートに、この時ばかりは弁償したらいくらだろうと別の意味でのドキドキに包まれる。
「大丈夫です、気にしないで下さい。黒だから見えませんし、もうずっと着ていて家族からも買い換えろと言われていたくらいですから」
「でも……ではせめてクリーニング代を……」
納得出来ない梨紗は代替案を持ち掛ける。
「日向さん、この後ご予定はありますか?」
「いえ、特には……ふらっと来た一人旅ですので……」
気恥ずかしくなって、少しうつむく。
「では私にコーヒーを一杯ご馳走してくれませんか? それでコートの事は忘れて下さい」
「でもっ……そんなんじゃ……」
「寒くて凍えそうなんです。ねっ?」
都筑はそう言って梨紗の左手を取った。
確かにその手は氷のように冷たくなっていた。
都筑はこぼれてしまったホットワインのカップを梨紗から受け取ると、近くの屑籠に入れた。
「この時間帯は人が増えます。はぐれないようにしてください。さあ、行きましょう」
都筑は梨紗の手を繋いだまま、シャンゼリゼから一本入った小道にあるカフェに入る。
落ち着いた雰囲気のカフェで、都筑が何かフランス語で言うと、店員が笑顔で奥のソファ席に案内してくれた。
向かい合って座る段になって、都筑はようやく手を離した。
都筑はカフェを、梨紗はカプチーノのを頼んだ。
「本当にすみませんでした」
梨紗がこの信じられない様な状況に舞い上がりつつも改めて謝ると、都筑は気にしないで下さいと笑った。
「先生、何か用事の途中だったのではないですか?」
都筑の持っていた女性物の高級ブランド靴の紙袋をチラッと横目に見ながら尋ねる。
「用事があるのは明日の昼です。今年はパリに住む祖母が80歳になるので、皆でこちらでクリスマスを祝うことになって、さっき日本から到着しました」
「お祖母様は、フランスの方なんですか?」
「祖母と僕の母がフランス人です」
「それで先生はフランス語が話せるのですね」
「祖母には語彙が少ないと会う度にお叱りを受けます。日向さんは何日位こちらにいらっしゃるんですか?」
「27の夕方に日本に帰ります」
「そうですか。パリは初めていらしたんですか?」
「そうです、と言うか海外旅行自体初めてで……でも大分身体の調子も良くなりましたし、シャンゼリゼ通りのイルミネーションを見てみたくて……」
「実物はあのカレンダーより綺麗でしょ?」
「え……」
梨紗は絶対に忘れてるだろうと思っていた事を都筑がなんでもない無いことのように言ったので、驚いてしまう。
それを梨紗が忘れていて分からないと受け取ったのか、都筑は慌てて説明しようとする。
「去年の今頃、診察室にシャンゼリゼのイルミネーションの写真のカレンダーがあって、日向さんとそのお話をしたんです。覚えてないですよね、突然すみません」
ふと視線を反らす都筑。
梨紗はあんな小さな会話の内容を都筑が覚えてくれていた事が嬉しくて、たまらなかった。
「覚えてます……」
梨紗が小さな声で答える。
「フランスではイルミネーションのせいで停電することもあるって……」
都筑が目を見張った。
あぁ、なんで今日の都筑は一段とかっこいいのだろう。ちょっと強引で、よく笑って、あんな小さな事も覚えてくれていて、ついつい勘違いしそうになってしまう。
梨紗はハンドバッグからお財布を出しながら言った。
「先生が話して下さった事はよく覚えています。どんなにささやかな事でも……すみません、これでは足りないかもしれませんが、クリーニング代です」
そう言って紙幣数枚を出してテーブルに置いた。
梨紗はこれ以上ここに居たら、妙な事を口走ってしまいそうで、驚く都筑を置いて立ち上がり、店の出口に向かう。後ろで都筑が何かウェイトレスに告げているのが聞こえる。
さっき来た道を戻り、シャンゼリゼの人混みに紛れれば、雪も降っているし、多少涙が流れたって、誰も気にも止めないはずだ。
コートを汚してしまった都筑には申し訳ないが、ただ一目だけでも会いたいと願った自分の祈りが叶ってしまった。
たった5分くらいだけの時間だけれど、奇跡みたいに幸せな時間だった。
(もういい。これで、この思い出だけで、生きていける。こんなにも好きな気持ちが溢れてしまうなんて、思ってもいなかった。これが吊り橋効果なのか、気の迷いなのか、錯覚なのか、解らない。でもこの幸せで、苦い痛みの感覚だけは本当──)
「──さん、日向さん、待ってください」
梨紗は後ろから右のコートの袖を掴まれた。
思わずよろけそうになると、都筑が支えて抱き締められた。
気が付くとすっぽりと都筑の腕に収まっていた。
「どうして急に居なくなってしまったんですか?」
「先生、離して下さい……」
「日向さんが本当の事を言ってくれたら話します」
「でも、これだと息もまともに出来ませんっ!」
必死に訴えると、都筑は渋々解放したが、梨紗のコートの両袖は掴んだままだった。
大きな子供が駄々をこねているみたいだ。
「私、あのまま先生の側に居たら、とんでもないことを言ってしまいそうで……」
「とんでもないことを?」
梨紗はコクりと頷く。
「私、多分、先生の事が好きでした。でもそれが錯覚なのか、本当の気持ちなのか自分でも分からなくて……」
都筑を見上げると寒さで少し潤んだ瞳で自分を見つめていて、耳と頬は赤くなっている。
「良かった、勘違いじゃなくて……」
そう呟くと都筑は再び梨紗を抱き締めた。
今度は優しく、まるで繊細なものを壊さないように細心の注意を払うかのように。
「さっき道で日向さんに会った時に、やっぱり好きだって痛感しました。それで強引にお茶に誘ってしまいました。しかも些細な会話の内容を覚えてくれていて、もしかして少し位は脈があるんじゃないかって期待してしまいました」
「先生が、私を……?」
「そうです。多分、初めて会った時から。一目惚れでした。でも立場上、当たり前ですが何も伝えられませんでした。その上、治療を途中で止めたいと言われて、僕の治療では日向さん力になれなかったんだと反省して、後悔もしました」
都筑はそこまで言ってぎゅっと梨紗を抱き締めた。
「先生、ちょっと痛いです……」
「すみません、また逃げられてしまいそうで、不安なんです」
「そんな……治療を止めたのは、先生への気持ちが溢れて来て辛かったからです。先生に申し訳ない気持ちもありましたし……」
「……じゃあキスで償ってくれますか?」
「へ?」
「嘘です。でも日向さんにキスしたいのは本当です」
そう言った都筑は抱き締めていた梨紗の左頬に手を添えてキスをした。
梨紗の心臓は甘い痛みでキュンキュンとねじれそうだった。
短いキスが名残惜しくて思わず目を開けて都筑を見た。
「日向さん、その表情と唇は反則です……」
やれやれと言う風に己の髪をかき上げたかと思うと、今度は食べられてしまうんじゃないかと思うほどの激しいキスをされる。
心だけじゃなくて、腰も溶かされて、立っているのがやっとの梨紗を都筑が抱き止めながら、長い長いキスが終わらない。
何度も唇が重なり、その中まで執拗に求められ吸われて、身体の中心がとろけていく。
いつもの冷静な都筑からは考えられない程の情熱と、深まるキスにどんどんその存在を誇示してくる都筑の下半身に、自分にこれ程迄に淫らな部分があったのかと思えるほどのあられもない願望が湧き出てくる。
ピチャピチャと二人の粘膜や舌が絡み合って聞こえてくる水音だけでも恥ずかしいのに、背中をコート越しに撫でられただけで「んん……」とはしたない声が漏れてしまう。
もうどうにでもして、むしろめちゃくちゃにして欲しい、そんな事を思いながらすがるように都筑の背中に腕を回した時、梨紗はあることを思い出し「あっ!」と明らかに今までとは違う声を上げた。
「ん?」
どうしたの?とでも言うように甘い笑顔で梨紗を覗き込む都筑の瞳に、男の欲望の色が滲んでいる。
「先生、プレゼント! お祖母様へのプレゼント、カフェに忘れてませんか!?」
「日向さん、そんな事今は……」
本当に恨めしそうに梨紗を見る都筑の腕を引っ張ってカフェに戻ろうとする梨紗。
「駄目ですよ、パリは盗難が多いって言うし、もしかしたらもう無いかも……急ぎましょう!」
「梨紗」
急に名前で呼ばれて立ち止まる。
「梨紗って呼んでいいですか?」
「……どうぞ」
正直恥ずかしいけれど、嬉しい気持ちの方が強い。
「僕の名前は、知ってますか?」
まだキスを中断されて拗ねているような顔をして聞いてくる。
「存じ上げています、圭一さん……」
「梨紗に名前を呼んでもらえる日が来るなんて。梨紗が居てくれれば、もう一生クリスマスプレゼントも何も要らない気分です」
さっきまでの駄々っ子はどこへやら、満足気な都筑の笑顔は凄まじく色っぽくて、祖母へのプレゼントを見つけ次第、さっきのキス以上の事が間髪入れずに開始する事がありありと伝わって来た。
梨紗は赤くなる頬を感じながら「私もです……でも今は早くカフェに行きましょう」と小声で言うのがやっとだった。