大正浪漫 斜陽のくちづけ
「凛子さん。あなたは大人しいから、ああいう行動力のある男性と意外に合うかもしれないわね」

 帰りの車の中で、姉が切り出した。

「お姉様……私には結婚するということが想像がつかないの」
「そうね。私だって家を出たわけではないから、わからないところはあるけれど」

 聖子の夫は物静かで、誠実な男性だった。あまり目立つこともないが、父や姉を陰で支えていた。
 確かな信頼で結ばれた堅実な姉夫婦のことは羨ましくもあり、尊敬もしていた。この先、姉の厄介にはなりたくない。

 さりとて、華族の娘が家を出て働くことすら新たな醜聞となる。
 屋敷の中で、ただ静かに年齢を重ねていく。
 十九にして、凛子はすでに晩年を生きているような心地がしていた。ひっそりと余生を過ごすだけの。

 先ほどの会話を反芻する。
 自分とは全く違う価値観をもつ人間への反発と嫌悪。そして相反する羨望と好奇心も同時に生まれた。

 言うなれば、凛子の閉ざされた世界に突如風穴を開けられた気分だ。
 相楽との出会いによって、なにかが変わっていくような、そんな予感がした。


 見合いから数日経ったある日。
 凛子が離れにある自室で読書をしていると、五つになる姪の春子が部屋にやってきた。

「凛ちゃん、ピアノ弾いて」

 凛子の影響で最近ピアノを習い始めた春子は、楽譜を持ってきてせがんだ。

「いいわよ」

 二人でピアノのある部屋へ行く。
 童謡から始め、簡単なクラシックなど数曲選んで弾いてみせると、手を叩いて喜んだ。

「やっぱり好きな曲だけ弾きたいなぁ」
「好きな曲を弾くには、好きじゃない曲もたくさん練習しないといけないのよ──って言いたいところだけど、私も実は好きな曲ばっかり弾いているの」

「ピアノの先生は厳しくてつまらないの。お母様も。凛ちゃんのほうが優しい」

 聖子から叔母である凛子には敬語を使うよう躾けられているが、凛子と二人きりになると子供らしい言葉使いになる。

 屈託なく甘えてくる姪の存在は、凛子の寂しさを癒してくれる。母親はとかく躾や教育に厳しくなりがちだから、時々こうして凛子のところへやってくる。

「お母様は春ちゃんにしっかりとした女性になってほしいから、時には厳しくなってしまうのよ。誰よりもが大切だからこそ」
「うん。わかってる」
「髪を結ってあげましょうか。三つ編みがいい?」
「うん!」

 一緒におやつを食べる頃には、すっかり機嫌がよくなったようだ。

 おやつのあとも、春子と一緒に連弾などして戯れていると、扉をノックする音がした。

「お嬢様、お客様が見えています」

 女中がドア越しに声をかける。

「どなた?」
「相楽様です」
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