大正浪漫 斜陽のくちづけ
「この曲は?」
「トロイメライという曲です」
「知らないな」
「ドイツのシューマンという作曲家が、奥様から貰った手紙をきっかけに作ったそうです」
「へぇ……どんな手紙?」

 相楽がオルゴールの話に乗るとは思っていなかったから、意外だったが、自分の持ち物に興味を持ってくれたことが嬉しくなった。

「『あなたは時々子供のように見える』と。それでこの曲を含む『子供の情景』という楽曲を作って、そのうちの一つがトロイメライなんです。独逸語で夢とか夢想という意味があります」
「さすが華族の姫君は俺なんかと教養が違うな」

 感心した様子でそう言って、一度止まったオルゴールのねじを回し、もう一度初めから聞いている。
 久方ぶりに聞く音色だった。
 凛子にとってもまた子供時代の美しい思い出を象徴するようなもので、だからこそ事件以来聞くことができなくなってしまったのだとふと気づく。

「相楽さんとオルゴールや音楽の話なんてできると思わなかった」
「俺はもののあわれなんぞ解せぬ男だからな」

 そう言って笑みを浮かべる。

「そういう意味じゃ……」
「いや、事実そうだ。『子供の情景』か……。美しい子供時代なぞ知らない俺にも美しい思い出があったような気にさせてくれる。芸術とはそういうものなのかもしれないな」

 その言葉に凛子は切ない気持ちになる。相楽の過去は詳しく知らないが、貧しさから苦労したであろうことは、察した。
 

「聞いてみますか? あんまりうまくないけれど。その……ピアノで」
「ぜひともお願いしたい」

 相楽が気に入ったというトロイメライを弾く。
 決して難しい曲ではないが、ゆっくりとしたテンポの静かな曲で気持ちを入れないと退屈な曲に聞こえてしまう。

 ──曲名のとおり、聞いていて一時の夢を見るような心地にさせられたら。
 凛子は少女時代の思い出を辿るように、丁寧に一つ一つの音を紡いだ。
 同じ曲でも弾き方次第で退屈なものになることもあるし、人を魅了するきらきらとした輝きを放つこともある。

 技術の問題もあるが、最後は弾き手の気持ちが影響してくるのだとは思う。
 少しでもきれいな曲に聞こえるように、心を込めて弾いた。
 女学校でみんなの前で弾いた時よりなぜだか緊張した。

 美しい子供時代などなかったという相楽に、ひと時の淡い夢想を味わってほしかった。そんなことができたら素敵だなと思う。
 弾き終わると相楽が拍手をした。

「素晴らしかった。美しい森の中にでもいるような気分になったよ」
「喜んでもらえたなら光栄です」

 なんとなく今は彼が本心を言っているような気がした。
 ──この人のことをもっと知りたい。

「あなたはどんな子供でしたの?」

 きっとやんちゃな男の子だったのだろう。

「少しは興味を持ってくれたか? あなたとは、百八十度違う人生だ。生きるために盗みをしたこともあるし、人を騙したこともある」

 それでも人を殺めたことはないだろう。凛子のように。

「……嫌か? こんな下賤な男は」

 しかし、その響きに卑屈さはなく、その目は揺るぎない自信に満ちている。
 自分がいかに魅力的か知っているのだ。確かに惹きつけられる自分がいる。

「いいえ。逆境にめげずに立派な地位を築いている方を尊敬する気持ちはあっても、下賤だなんて思いません」

 おべっかを使うでもなく本心だった。
 相楽は凛子の言葉に意外そうに瞠目した。
 貧しさは知らなかったが、生きるために子供がした行為を軽蔑する気持ちはない。

 現にそういう過去を乗り越え、相楽は自分の足で立っている。いつまでも無力なまま、罪とも向き合えない弱い自分のほうがよほど恥ずかしかった。

「へぇ……そんなことを言ってくれるとは思わなかった。世辞とは思わず素直に受け取っておくよ」
「あの、例の件でしたら、私が決められることではありませんので」

 さりげなく、求婚の返事はできないと伝える。

「もちろん、お父上を口説き落とさないことには、なにも始まらないとわかっていますよ」

 父の真意が気になったが、まだ聞けずにいる。
 そのあと仕事に向かうと言う相楽を門のところまで見送った。

「また会いに来る。許してくれるか?」

 黙って頷くと、すっと凛子の手を取り、自然に口づけた。かがんだ拍子に相楽のつけているポマードと煙草の香りが凛子の鼻をかすめる。
 相楽が車に乗り、去ったあとも、凛子はしばらくその場を動けずにいた。
 唇を触れられた手の甲からじんわりと熱が広がっていく気がした。
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