大正浪漫 斜陽のくちづけ
三章 斜陽
朝食を終え、いつものように離れにある自分の部屋に戻ろうとすると、卓子に置かれ開かれたままの新聞に目がいく。
父が読んでいる途中だろうか。さほど大きくない記事だが、目に入ってしまった。
「九条伯爵令嬢、実業家の相楽氏と婚約」
まだ婚約は決まっていないので、先走った情報だ。どこから漏れたのだろう。
思わず手に取って読んでみると、一件祝福しているようでいて、よく読むと批判的な内容だった。
経済的な窮地に追いやられている華族に援助する形で関係を深め、ついには縁戚関係になる成金が出たことを皮肉って記事は終わっていた。
「お父様……これ」
「気にしなくていい。まだ決まったわけではないのだから」
本当に聞きたかったのは婚約云々の話より、家の経済状況だったが、近頃めっきり疲れが顔に出ている父にそんな話をするのは憚られた。
議員報酬だけで暮らしを維持するのは難しく、色々な事業に手を出してはいたが、うまくいかずにやめるということを繰り返しているのは知っていた。
姉夫婦も色々考えてはいるようだが、昔からそういった話を凛子にすることはない。
いつまでも子供ではないのにと思う反面、自分がなにもできない弱い立場だから頼りにされないのだと悲しい気持ちになる。
記事が出て数日もしないうちに父が倒れて、十日ほど入院することになった。
医師の話によると、原因は夏風邪と過労で休養が必要とのことだった。
皆で病院へ向かい帰宅したあと、居間で姉夫婦が深刻そうな顔で話していた。嫌な予感がして思わず尋ねた。
「お父様、そんなに悪いの」
「実は、さっき銀行の方が来て書類を置いていったそうなの……。お父様と約束していたみたいなんだけどその内容が──」
言いにくそうな姉に代わり義兄が答えた。
「借財のためにこの屋敷も抵当に入っているという話だった」
にわかには信じられなかった。
余裕はなくとも、父もそんなそぶりは見せなかったからだ。
急速に自分の家が没落しているのを確信した。
「知人に誘われて新興株を相当額買ったことは聞いていたんだけれど、最近になってそれが軒並み値下がりしてしまったようなの」
「そんなことが……」
いずれも凛子は知らされていない事実だった。
義兄と共に家を守るべき姉には伝えても、いずれ家を出るかもしれない凛子には言わないと決めていたのだろう。
そのことが口惜しくなる。
「お父様は政治家としては立派でも、お金儲けには向いていないのでしょうね。先祖伝来の土地も売って、なんとかやりくりしてきたんだけれど」
土地を売るということは、地代が減ってさらに収入が先細りするということだ。それがわかっていても、目先の現金が必要なほど追いつめられていたということだろうか。
さすがの聖子もうつむき、落ち込んでいるようだった。
「お姉様。お父様は相楽さんにお金を借りているのですか」
「どこから聞いたんです」
単なる憶測に過ぎなかったが、聖子の神妙な顔が答えだった。
「あなたとの結婚のことは、別の話です」
「でも……」
自分の知らないところで、相楽がこの家に関わっている。関係がないなどとは思えない。
「安心して。今日明日にどうにかなるってことはないから」
ということは長い目で見れば、なにかあってもおかしくないということだ。姉の発言でより不安が増す。
「私働くわ。今は女性ができる仕事も増えたんでしょう」
世間のことなぞ何一つ知らない凛子の台詞に、姉の顔が一気に険しくなる。
「そんなこと言うのはおよしなさい。世間にいいように言われてしまうわ。女性の仕事が増えたからと言って、伯爵家の娘がお金に困って働いているなんて知られたら、それこそうちの信頼が失墜してしまうの。わかるでしょう」
お金に困っているというのに、働くことすらできないとは、なんて窮屈なのだろう。
ただ家が落ちぶれていくのを、ぼんやりと見ているしかないというのだろうか。
「凛子さん、あなたは余計なことは考えないで」
「でも! 私だってなにかしたいのです。相楽さんと結婚したらいいのですか?」
思わず浅ましい言葉を口にしてしまった。だが、他になにもできることがない。
「凛子さんをお金で売るようなことはできないとお父様も一度は断ったの。でもあまりに熱心だから一度くらい会わせてもいいかとお父様も悩んだのですよ。あなたに過去に囚われていつまでも不幸なままでいてほしくないと」
窓の向こうに広がる景色に目をやる。
──この家が人手に渡ってしまう。
春には庭園で色とりどりの花が咲き誇り、蝶が舞う。夏には庭先で花火を楽しみ、秋は紅葉。冬には霜柱を見つけては踏んで歩いた。
姪が庭で遊ぶ姿を見るのが好きだった。辛い時もその姿を見ると癒された。
三年前の事件の醜聞を揉み消すため、父がずいぶん金を使ったらしいことは聞いた。そして、それをきっかけに九条家の財政が傾き始めたことも。
父が読んでいる途中だろうか。さほど大きくない記事だが、目に入ってしまった。
「九条伯爵令嬢、実業家の相楽氏と婚約」
まだ婚約は決まっていないので、先走った情報だ。どこから漏れたのだろう。
思わず手に取って読んでみると、一件祝福しているようでいて、よく読むと批判的な内容だった。
経済的な窮地に追いやられている華族に援助する形で関係を深め、ついには縁戚関係になる成金が出たことを皮肉って記事は終わっていた。
「お父様……これ」
「気にしなくていい。まだ決まったわけではないのだから」
本当に聞きたかったのは婚約云々の話より、家の経済状況だったが、近頃めっきり疲れが顔に出ている父にそんな話をするのは憚られた。
議員報酬だけで暮らしを維持するのは難しく、色々な事業に手を出してはいたが、うまくいかずにやめるということを繰り返しているのは知っていた。
姉夫婦も色々考えてはいるようだが、昔からそういった話を凛子にすることはない。
いつまでも子供ではないのにと思う反面、自分がなにもできない弱い立場だから頼りにされないのだと悲しい気持ちになる。
記事が出て数日もしないうちに父が倒れて、十日ほど入院することになった。
医師の話によると、原因は夏風邪と過労で休養が必要とのことだった。
皆で病院へ向かい帰宅したあと、居間で姉夫婦が深刻そうな顔で話していた。嫌な予感がして思わず尋ねた。
「お父様、そんなに悪いの」
「実は、さっき銀行の方が来て書類を置いていったそうなの……。お父様と約束していたみたいなんだけどその内容が──」
言いにくそうな姉に代わり義兄が答えた。
「借財のためにこの屋敷も抵当に入っているという話だった」
にわかには信じられなかった。
余裕はなくとも、父もそんなそぶりは見せなかったからだ。
急速に自分の家が没落しているのを確信した。
「知人に誘われて新興株を相当額買ったことは聞いていたんだけれど、最近になってそれが軒並み値下がりしてしまったようなの」
「そんなことが……」
いずれも凛子は知らされていない事実だった。
義兄と共に家を守るべき姉には伝えても、いずれ家を出るかもしれない凛子には言わないと決めていたのだろう。
そのことが口惜しくなる。
「お父様は政治家としては立派でも、お金儲けには向いていないのでしょうね。先祖伝来の土地も売って、なんとかやりくりしてきたんだけれど」
土地を売るということは、地代が減ってさらに収入が先細りするということだ。それがわかっていても、目先の現金が必要なほど追いつめられていたということだろうか。
さすがの聖子もうつむき、落ち込んでいるようだった。
「お姉様。お父様は相楽さんにお金を借りているのですか」
「どこから聞いたんです」
単なる憶測に過ぎなかったが、聖子の神妙な顔が答えだった。
「あなたとの結婚のことは、別の話です」
「でも……」
自分の知らないところで、相楽がこの家に関わっている。関係がないなどとは思えない。
「安心して。今日明日にどうにかなるってことはないから」
ということは長い目で見れば、なにかあってもおかしくないということだ。姉の発言でより不安が増す。
「私働くわ。今は女性ができる仕事も増えたんでしょう」
世間のことなぞ何一つ知らない凛子の台詞に、姉の顔が一気に険しくなる。
「そんなこと言うのはおよしなさい。世間にいいように言われてしまうわ。女性の仕事が増えたからと言って、伯爵家の娘がお金に困って働いているなんて知られたら、それこそうちの信頼が失墜してしまうの。わかるでしょう」
お金に困っているというのに、働くことすらできないとは、なんて窮屈なのだろう。
ただ家が落ちぶれていくのを、ぼんやりと見ているしかないというのだろうか。
「凛子さん、あなたは余計なことは考えないで」
「でも! 私だってなにかしたいのです。相楽さんと結婚したらいいのですか?」
思わず浅ましい言葉を口にしてしまった。だが、他になにもできることがない。
「凛子さんをお金で売るようなことはできないとお父様も一度は断ったの。でもあまりに熱心だから一度くらい会わせてもいいかとお父様も悩んだのですよ。あなたに過去に囚われていつまでも不幸なままでいてほしくないと」
窓の向こうに広がる景色に目をやる。
──この家が人手に渡ってしまう。
春には庭園で色とりどりの花が咲き誇り、蝶が舞う。夏には庭先で花火を楽しみ、秋は紅葉。冬には霜柱を見つけては踏んで歩いた。
姪が庭で遊ぶ姿を見るのが好きだった。辛い時もその姿を見ると癒された。
三年前の事件の醜聞を揉み消すため、父がずいぶん金を使ったらしいことは聞いた。そして、それをきっかけに九条家の財政が傾き始めたことも。