大正浪漫 斜陽のくちづけ
 二週間後、父が退院した。
 幸い、大病ではなかったが、父は目に見えて憔悴しきっていた。
 姉夫婦と父の間でどのような話し合いがあったのか凛子は教えてもらえず、いつまでも子供扱いをされているようで、寂しい気持ちになった。
 見舞いに訪れた相楽が、凛子に切り出した。

「こんな時に言うことじゃないかもしれないが──できれば早く返事が欲しい」

 求婚のことだ。

「私ではなく父が決めることです」

 目を逸らして答えをはぐらかした。
 父が嫁ぐように言うならば従うつもりだったが、肝心の父はその件について貝のように口を閉ざしていた。
 だからといって、凛子が一人で断ることも結婚を決めることもできない。

「この屋敷も抵当に入っていると聞いた。返済が滞ればここを出ざるをえない」
「相楽さんが貸しているお金ですか?」

 持っている紅茶のカップを落としそうになった。

「あなたのお父上は世間知らずゆえに、色々な人間にカモにされたんだ。もっともそうなる前から困っていたから、甘言に乗ってしまったんだろうが。家名だけで生き残れる時代はもう終わったんだ。わかるだろう」

「そんなふうにおっしゃらないで」

 赤の他人に言われるのは、傷口に塩を塗られるようなものだ。

「矜持や名誉だけでは生きてはいけない」

 返す言葉もなく押し黙っていると、
「俺ならあなた方を助けてやれる。あなたはただ頷くだけで家を救えるんだ。俺のところへ来れば、もうそんな心配はしなくていい。悪くない話だろう」

 結婚を条件に、困窮した九条家を助けるということだ。父が凛子になにも言わない意味がわかった。
 父には、率先して金で娘を売るようなことはできなかったのだ。
 ──弱くて、お優しいお父様。

「私がお金のために結婚しても、あなたは嫌ではないのですか」
「それならそれで構わない。俺はあなたが欲しい」

 結婚など取引と同じように考えているに違いない。

「私が断ったら?」

 父と縁を切るという脅されるのだろうか。

「いいや、あなたは俺と結婚することになる。そう言わせてみせる自信がある」

 こちらの気持ちなどお構いなしの様子に、呆れるのを通り越して尊敬の念さえ抱いてしまった。
 ──一体どうしたらこんな考え方ができるのだろう。
 その言葉には一切の迷いがない。こういう根拠のない自信こそが、この男を成功させてきたのだろう。
 家のためを思えば、凛子の結婚相手は相楽しかいない。
 

 婚約の記事が出てからというもの、頻繁に相楽は凛子を訪れるようになった。

「またなにか書かれてしまっては困ります」
「俺にとっては都合がいいんだがな。いずれ本当になる」

 男性側としては、そうかもしれない。けれど間違った噂で傷つくのは女のほうなのだ──そこまで思って、自分の評判はすでに地の堕ちたようなものだから、今さら品行方正にふるまったところで、信頼など回復しないのだという悲しい事実に行きつく。
 未婚の男女が二人きりで出かけていいものか迷ったが、相楽は父の許可を取り凛子を連れ出すようになった。

 その強引さに戸惑いつつ、出会ってから少しずつなにかが変わっていくのを感じた。
 以前であればありえないことだったが、父はそれを許した。
 今日誘われたのは帝国劇場で行われるオペラだった。
 凛子は朝から髪を結い上げ出かける準備をしていた。箪笥から相楽からの贈り物を選ぶ。白いレエスの襟のついた薄桃色のワンピースは裾がふんわりと広がり、清楚に見えた。

 ──私はあの人を愛せるのだろうか。
 いや、そもそもこの結婚に愛などは求められていないのだろう。
 生まれも育ちも、価値観もまるで違う。

 共有できるものなどまるで、なさそうだった。今はまだ手に入れていないから、こうして凛子の機嫌を取ってはいるが、いつまでもつかわからない。
 相楽が凛子に飽きたら自分は、一人寂しく過ごすのだろうか。

 今まで父親や姉の庇護のもと生きていた。守ってくれる者などもういなくなる。だからといってこの家にずっといるわけにもいかない。
 ぐるぐると同じことを考えていると、

「まぁ今日も相楽さんと出かけるの?」

 姉に声をかけられた。

「ええ」

「お父様も凛子さんには本当に甘いのねぇ。私は結婚まで二人きりになったことなんてなくってよ」
「やっぱりやめたほうがいいかしら……」
「いいのよ。言ってみただけ。楽しんでいらっしゃい。家で暗い顔をしているよりずっといいわ」

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