大正浪漫 斜陽のくちづけ
 迎えに来た相楽の車に乗り、帝国劇場へと向かう。

「やっぱりその服、清楚な凛子さんに似合うと思った」

 贈り物を身に着けるのは思わせぶりだろうかと思ったが、届いた服が自分でもとても似合っていて気に入ってしまった。
 お洒落を楽しむにも心に余裕が必要で、一緒に出かける相手もいない凛子は自然と、興味をなくしてしまっていた。

「女性に物を贈りなれているのですね」

 華やかだが品のあるワンピースは、確かに凛子の魅力を引き立ててくれる。

「まさか。百貨店で、店員に聞いて回ったんですよ。それこそ足が棒になるまで」
「さぁ、着いた」

 差し出された肘の意味が一瞬わからなかったが、エスコートする気なのだと気づき、そっと手を取り劇場内へと入った。

「オペラを見たことは?」
「女学校時代に一度だけ」

 友人でもいれば、一緒に行くこともあるだろうが、もうそんな機会もないし、家で一人で本を読んだりピアノを弾いたりするほうが気楽だった。
 演目を見ると「カルメン」とある。兼ねてから評判の舞台で大体のあらすじは知っていたが、見たことはなかった。

「なににも縛られず自由に生きる女の話だ。なかなか日本のご婦人には理解しがたいところもあるかもしれないが」
「自由に生きる……」

 親や夫に従うことをよしとされる日本では、女性が自由であろうとすれば、世間の反感を買いやすい。文化の異なる異国ではそういう生き方もありえるのかと、不思議な気がした。


 物語は、奔放なジプシーであるカルメンが、衛兵のホセに花を投げるところで始まる。
 やがてカルメンはホセを誘惑し、ホセは自分と対照的に自由に生きるカルメンに恋をする。
 真面目だったホセはカルメンに恋するあまり婚約者とも別れ、上官とも揉めて少しずつ道を踏み外していく。

 美しい女優が、恋と自由の歌をと高らかに歌う姿は圧巻で、どんどん物語の世界に引き込まれる。
 気まぐれなカルメンは別の男と恋仲になり、ホセへの気持ちは冷めていくが、ホセの恋の炎は燃え上がるばかり。舞台に不穏な空気が流れ始める。破滅の香りを漂わせながら、物語は突き進んでいく。

 ついに嫉妬に狂ったホセがカルメンに刃を向ける──。
 
 段々と妙な息苦しさを感じてはいたが、その場面で一気に心臓が壊れたように凄まじい早鐘を打った。冷たい汗が背中を落ちていく。

 ──怖い。
 忘れがたい過去の辛い記憶がその場面を見て生々しく蘇ってしまったのだ。
 もう舞台でどんな物語が続いているのか、見る余裕はなかった。

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