大正浪漫 斜陽のくちづけ
「どうした……?」
「少し気分が悪くて」

 真っ白な顔をした凛子が手巾を口に当て、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返しているのに、相楽が気づいた。

「休もう。歩けるか?」

 体を支えられ、もたれるようにして歩く。
 相楽は慌てて劇場から連れ出すと、支配人に控室を一部屋借りて休ませてもらえるよう手配してくれた。
 長椅子の上に座ると、まだ手が震えていた。

「悪かった。気づくのが遅れて」
 

「飲むと幾分ましになるかもしれない」

 相楽が冷たい檸檬水を買ってきて凛子に渡した。こくりと喉を鳴らしてそれを飲み干す。

「ありがとうございます。少し休めば大丈夫ですから」
「医者を呼んでくる」

 立ち上がろうとする相楽の背広の裾を凛子が掴んだ。

「待って」

 まだ苦しくて一人になりたくなかった。
 本気で心配してくれているのはわかるが、理由が言えない。
 ヒロインが殺される場面と自分の過去が重なったとは──。

 胸が疼くような濁った感情が湧いてくる。恐怖。後悔。憐憫。悲しみ……。
 相楽は長椅子の隣に座り、凛子の背を撫でた。

「ごめんなさい。迷惑かけて」
「構わない。気分は?」
「一時的なものです。もう大丈夫」
「今日はもう送っていく」
「いえ……。少しあなたと話がしたいんです。少しお時間をください」
「無理に今日でなくても俺は構わない」
「いえ、ずっと言わなくてはと思っていたんです」

 自分と結婚したいと相楽に、自分の過去を話してみたくなった。軽蔑するだろうか。
 それでも構わない。他でもない自分のために打ち明けることが必要だった。
 今まで誰にも話したことがないあの日のことを──。


 一時間ほど休むと大分落ちつきを取り戻した。
 忘れようにもいまだに自分が傷ついていることを思い知らされる。
 もう大丈夫だという凛子を相楽は日比谷公園まで連れて行った。たまたま今日は祭りの日だったらしく、たくさん並んだ露店に人が溢れていた。

 外の風に当たると大分落ちついた。
 話すとは言ったものの、どう切り出してよいか迷う凛子の気持ちを察するように、相楽は祭りのやっているほうへと連れ出した。

「もう大丈夫なのか」

「歌も演技も素晴らしかったけれど、こちらのお祭りのほうが楽しそうだわ。子供の頃禁止されていたから、憧れていたんです」

 日比谷公園の中にある露店で冷やし飴を買ってもらった。

「初めて飲みました。冷たくて美味しい」
「初めて? そんな人がいるとは思わなかったな。もっとも俺も貧しくて買ってもらえるのは年に一度の祭りの日だけだったが」
「露店で飲み食いなど絶対に許してもらえなかったんです」
「それは気の毒だな」
「でも一度だけ、私が行きたがっているのを知って、父がこっそり連れていってくれたんです。金魚すくいをして楽しかったのを覚えています」

 取りとめのない会話を続けていると。ぼんやりとしか知らない相楽の過去を本人の口から聞いてみたくなった。勇気を出して聞いてみる。

「相楽さんはどんなお子さんだったのですか」
「親父は俺が十の時に出て行って、お袋は小さな飲み屋をやりながら必死に育ててくれたんだが、五年前に亡くなってね。俺がようやくある程度稼げるようになった時にはもう病の床で、大した親孝行はできなかったよ」
「そう……」
「生活に必死だったから、あまりゆっくり話した記憶もないな。朝から晩まで働いてた」

 かける言葉が見つからなかった。ピアノを弾いた時にも感じたことだが、相楽はどこかしら満たされない想いを抱えて生きているのではないかという気がした。
 その想いこそが、彼を飽くなき成功へと駆り立てているのだろうか。

「そんな悲しそうな顔をしなくていい」

 ぽんと頭を叩かれ、再び手を引かれ歩き出す。
 もうすぐ日暮れ時だった。早く話さねばと思いつつ、どう切り出したらいいかわからなる。

「きれい……」

 綿菓子のような雲が夕日に照らされ金や橙色に染まっていく。自然を美しいと感じる心も長らく失っていたような気がする。
 ふと横にいる相楽を見ると、夕日ではなく凛子を見つめていた。

「相楽さん──私にはまだ言っていないことがあるの」

 話してみよう。
 ──どうしてか、今なら話せる気がした。
 強気に見える彼がふと見せる寂莫に心を奪われてしまったのだろうか。
 黙ったままこちらを見つめる相楽の瞳が、夕日を移しこんで紅く燃えている。驚いているようにも、戸惑っているようにも見えた。

「聞くよ」 
「私、好きな人がいたんです。その人を死なせてしまったの。だから誰とも結婚などできないと思っていました」

 相楽はためらいがちに話す凛子の手を握り、黙って話を聞いていた。
 彼に惹かれ始めている自分がいる、だからこそ告白しなければならないとそう思った。
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