大正浪漫 斜陽のくちづけ
凛子にはかつて恋した男がいた。
同居していた今は亡き従兄の真一郎だ。放蕩癖のある叔父が芸者との間に作った子だと聞いた。
凛子が七つの時に突然現れた二つ年上の従兄の存在に、大人の事情も知らずにわくわくしたことを覚えている。
叔父は真一郎とは暮らそうとせず、真一郎を九条家に預けて祖父から譲り受けた別邸で暮らしていた。一度も会いに来たことはない。
「凛子さん、真一郎さんのことを外で話してはいけませんよ」
そう言った姉は、彼を黙殺しているように見えた。
理由は聞けずにいた。成長して、世間体だとか体面だとかいう大人の事情を少しずつ理解した。
今思えば父には男の子が生まれなかったから、真一郎が九条家を継ぐことになるのを警戒したのもあるだろう。
当の本人は使用人のような扱いを受けても卑屈になることもなく、真一郎は聡明な少年だった。
凛子に対しても、一定の距離を保ちつつ、優しくしてくれた。
やがて思春期を迎え、二人の心境にも変化が訪れる。
学校で苛められ、気落ちする凛子を真一郎が慰めたことをきっかけに、二人の距離が縮まった。
少女の凛子にはまだわからなかった。
兄を慕うような気持ちが成長と共に恋慕に変わっていくのを。真一郎の目が時に熱を帯びていることを。
母を亡くした凛子と母と別れ、九条家に引き取られた真一郎。
それぞれ胸に抱えた欠落を補うように、二人は惹かれ合っていった。従順な凛子が抱えた唯一の秘密が真一郎だった。
従兄とはいえ異性と親しくなりすぎてはいけないということもわかっていた。
人前で話すことは避けていたが、こっそり話す機会が増えた。
本能的に同じ気持ちなのだろうということは、お互いわかっていたと思う。
別れは突然やってきた。
九条家での微妙すぎる立場が辛かったこともあるのだろう。
真一郎は大学に進学すると共に、家を出て、一人で下宿を始めた。学費は父が援助したという。
凛子が十五、真一郎が十八になる年のことだった。
「出て行くの」
「いつまでも他人の自分が世話になるわけにはいかないんだ」
真一郎もこの家の血は引いているのだから、他人という言葉に辛くなる。
「帰ってくる?」
答えない真一郎に、もう会えないのだと思うと凛子は泣きだしてしまった。
「泣かないで。いつかふさわしい男になったら戻るから」
「本当に? 待っているから」
初めて想いを口にした瞬間だった。
その言葉を信じていた。
家を出たあとも、誰にも秘密で真一郎に手紙を書いていたが、ある時を境に返事は来なくなった。
二年目から真一郎は、盆や正月にも帰ることがなくなった。
なにかあったのかと、父に訊くと大学を退学したきり、連絡が取れないという。
これはただごとではないと、家族には言わずに真一郎の下宿先へと向かった。
部屋にいた彼は、同一人物とは思えないほど、痩せて顔色も悪かった。
「どうしたの? どこか悪くしたの? 病気ならお父様に頼んでお医者様を呼ぶから」
「なんで来たんだ」
聞いたことのない冷たい声。
「え?」
「帰ってくれ」
以前なら考えられない冷たい言葉に凍りつく。なにがあれば人はそこまで変わってしまうのか。
「ど、どうしてそんなことを言うの。凛子が嫌いになったの」
「嫌いになれたらよかった。そしたらこんなふうに苦しまずに済んだのに」
意味がわからず、悲しみに打ちひしがれて、無言でその場を立ち去った。
部屋を出てすぐに、真一郎の友人だという男性に声をかけられた。
「真一郎の身内の方ですか?」
「ええ」
「どうも最近様子がおかしいんです。なにか思い悩んでいるようで」
「私もわからなくて……。もう来るなと言われたんです」
「なるほど。ただ今のまま放っていていいとも思えんのですよ。あんな姿はなにしろ見たことがない。真面目な奴だったのに。そのうち取り返しのつかないことにならなければいいが」
「取り返しのつかないこと……」
そんなことを言われては、放っておくことはできない。
それでも心配な気持ちを抑えきれず、時々食料などを差し入れに部屋に行ったが、相変わらずだった。
──なにか悩み事があるなら話してほしい。
その頃は、まだ幼くて自分の気持ちばかり押し付けることの傲慢さに気づけなかったのだ。
凛子がしたことは全て自己満足で、一層真一郎の苦悩を深めてしまった。
「君はいつも太陽みたいに屈託なく笑う。そこが好きだった。でも今はもうそれが受け入れられない。見ていると辛くなるんだ。この部屋ももう引き払うから、これでお別れだ」
あまりにも残酷な決別の言葉だった。
「もう会いにこないから」
凛子ももうこれで終わりなのだと悟った。そう言うと真一郎は、凛子の手を掴んだ。
「今日で最後にしよう。もう全部終わりにするんだ。最後に湖へ行かないか」
そこは、真一郎も行ったことがある九条家の別荘のある場所だった。
ここからは車で行っても片道二時間はかかる。
言っていることが支離滅裂だった。凛子のことを受け付けないと言いながら、思い出が欲しいという。
真一郎の正気を疑った。今思えば、あの時引き返していれば、不幸なことは起きずに済んだのかもしれない。
同居していた今は亡き従兄の真一郎だ。放蕩癖のある叔父が芸者との間に作った子だと聞いた。
凛子が七つの時に突然現れた二つ年上の従兄の存在に、大人の事情も知らずにわくわくしたことを覚えている。
叔父は真一郎とは暮らそうとせず、真一郎を九条家に預けて祖父から譲り受けた別邸で暮らしていた。一度も会いに来たことはない。
「凛子さん、真一郎さんのことを外で話してはいけませんよ」
そう言った姉は、彼を黙殺しているように見えた。
理由は聞けずにいた。成長して、世間体だとか体面だとかいう大人の事情を少しずつ理解した。
今思えば父には男の子が生まれなかったから、真一郎が九条家を継ぐことになるのを警戒したのもあるだろう。
当の本人は使用人のような扱いを受けても卑屈になることもなく、真一郎は聡明な少年だった。
凛子に対しても、一定の距離を保ちつつ、優しくしてくれた。
やがて思春期を迎え、二人の心境にも変化が訪れる。
学校で苛められ、気落ちする凛子を真一郎が慰めたことをきっかけに、二人の距離が縮まった。
少女の凛子にはまだわからなかった。
兄を慕うような気持ちが成長と共に恋慕に変わっていくのを。真一郎の目が時に熱を帯びていることを。
母を亡くした凛子と母と別れ、九条家に引き取られた真一郎。
それぞれ胸に抱えた欠落を補うように、二人は惹かれ合っていった。従順な凛子が抱えた唯一の秘密が真一郎だった。
従兄とはいえ異性と親しくなりすぎてはいけないということもわかっていた。
人前で話すことは避けていたが、こっそり話す機会が増えた。
本能的に同じ気持ちなのだろうということは、お互いわかっていたと思う。
別れは突然やってきた。
九条家での微妙すぎる立場が辛かったこともあるのだろう。
真一郎は大学に進学すると共に、家を出て、一人で下宿を始めた。学費は父が援助したという。
凛子が十五、真一郎が十八になる年のことだった。
「出て行くの」
「いつまでも他人の自分が世話になるわけにはいかないんだ」
真一郎もこの家の血は引いているのだから、他人という言葉に辛くなる。
「帰ってくる?」
答えない真一郎に、もう会えないのだと思うと凛子は泣きだしてしまった。
「泣かないで。いつかふさわしい男になったら戻るから」
「本当に? 待っているから」
初めて想いを口にした瞬間だった。
その言葉を信じていた。
家を出たあとも、誰にも秘密で真一郎に手紙を書いていたが、ある時を境に返事は来なくなった。
二年目から真一郎は、盆や正月にも帰ることがなくなった。
なにかあったのかと、父に訊くと大学を退学したきり、連絡が取れないという。
これはただごとではないと、家族には言わずに真一郎の下宿先へと向かった。
部屋にいた彼は、同一人物とは思えないほど、痩せて顔色も悪かった。
「どうしたの? どこか悪くしたの? 病気ならお父様に頼んでお医者様を呼ぶから」
「なんで来たんだ」
聞いたことのない冷たい声。
「え?」
「帰ってくれ」
以前なら考えられない冷たい言葉に凍りつく。なにがあれば人はそこまで変わってしまうのか。
「ど、どうしてそんなことを言うの。凛子が嫌いになったの」
「嫌いになれたらよかった。そしたらこんなふうに苦しまずに済んだのに」
意味がわからず、悲しみに打ちひしがれて、無言でその場を立ち去った。
部屋を出てすぐに、真一郎の友人だという男性に声をかけられた。
「真一郎の身内の方ですか?」
「ええ」
「どうも最近様子がおかしいんです。なにか思い悩んでいるようで」
「私もわからなくて……。もう来るなと言われたんです」
「なるほど。ただ今のまま放っていていいとも思えんのですよ。あんな姿はなにしろ見たことがない。真面目な奴だったのに。そのうち取り返しのつかないことにならなければいいが」
「取り返しのつかないこと……」
そんなことを言われては、放っておくことはできない。
それでも心配な気持ちを抑えきれず、時々食料などを差し入れに部屋に行ったが、相変わらずだった。
──なにか悩み事があるなら話してほしい。
その頃は、まだ幼くて自分の気持ちばかり押し付けることの傲慢さに気づけなかったのだ。
凛子がしたことは全て自己満足で、一層真一郎の苦悩を深めてしまった。
「君はいつも太陽みたいに屈託なく笑う。そこが好きだった。でも今はもうそれが受け入れられない。見ていると辛くなるんだ。この部屋ももう引き払うから、これでお別れだ」
あまりにも残酷な決別の言葉だった。
「もう会いにこないから」
凛子ももうこれで終わりなのだと悟った。そう言うと真一郎は、凛子の手を掴んだ。
「今日で最後にしよう。もう全部終わりにするんだ。最後に湖へ行かないか」
そこは、真一郎も行ったことがある九条家の別荘のある場所だった。
ここからは車で行っても片道二時間はかかる。
言っていることが支離滅裂だった。凛子のことを受け付けないと言いながら、思い出が欲しいという。
真一郎の正気を疑った。今思えば、あの時引き返していれば、不幸なことは起きずに済んだのかもしれない。