大正浪漫 斜陽のくちづけ
「駄目よ。お父様が許さないわ」

 凛子が断ると、

「そうだ、そうだよな」

 うつむいたまま、ひとり言のように呟いた顔が悲愴だった。このまま放っておいたら、どうにかなるのではないかという恐れがあった。

「夕方までに帰るなら……」

 思えばこれが運命の分かれ道だったのかもしれない。
 誰かに相談し、一人で行くべきではなかったのだ。

 けれど、もし時間が戻ったとしても、あのまま彼を放っておくことなどできはしないとも思う。
 二人で乗合自動車に乗り、どんどん元の場所から離れていくと不安だけが募る。

「ねぇ、湖を見たら、帰るんでしょう」

 このままでは帰るまでには日が暮れてしまう。不吉な予感に、必死ですぐに帰るように頼んだ。

「あぁ……」

 道中手渡されたお茶は、妙な味がした。車の中でどんどん意識が朦朧として、到着した頃には、目を開けているのも難しい状態だった。

「ごめん……君はなにも悪くないのに」

 ──なに?

「自分に流れる血が許せない」

 なんのことを言っているのか。景色が歪んで、頭がくらくらしてきた。

「どうせ誰かのものになるならいっそ」

 そのあとの言葉は聞き取れなかった。抱き上げられたところで意識がなくなった。
 世界が白く濁っていく。そのあとの記憶はない。

 次に目が覚めた時は病院だった。
 あれは夢だったのかと、現実との区別がつかなかった。
 真一郎が遺体で見つかったことを聞き、呆然とした。あまりのことに涙すら出なかった。

 おそらく一緒に入水するつもりだったが、凛子を連れて行くことに最後の最後でためらったということらしい。
 そのあとの騒ぎについては、もう思い出したくもない。

 将来を悲観していたのが原因だとか色々言われていたが、本当のところはわからない。
 どうして凛子を連れていかなかったのか。永遠に癒えない傷と謎だけを残して逝ってしまった。

 噂は尾ひれがついて広まった。
 心中は大罪だ。
 父が知人の伝手を使い、なんとかもみ消したようだったが、一度広まった噂を完全に払拭することなどできない。

 むしろ必死にもみ消そうとしたことで、凛子が妊娠していたという根も葉もない噂まで出回り、狭い華族社会でそういった怪文書が何度も出回った。
 凛子は女学校を退学に追い込まれ、世間の目から隠れるような暮らしを余儀なくされた。

 友人だと思っていた級友も、皆去っていった。
 あとに残ったのは、深い悲しみと喪失感だけだった。
 ──あのまま、会わずにいれば真一郎も死ぬことはなかった。

 優しかった彼をあんなふうに変えてしまったのは、凛子なのかもしれない。
 噂そのものよりも、真一郎の死に深く関わったという事実が心に深い傷を残した。


 そこまで一気に話している間、相楽はじっと痛みをこらえるような顔をしていた。
 もう日が沈みかけている。西日に照らされて、二人が赤く染まる。

「私が……私が死なせてしまった。だから誰かと幸せになる権利なんてないとそう思っていたんです」

「あなたはなにも悪くない。もう忘れるんだ」

 自分ではどうにもできない激しい感情がまだある。

「忘れることはできません。私が背負うべき過去だから」

「ならば俺があなたの過去ごと引き受ける。あなたが心で誰を思っていようと、構わない。俺はあなたを残して死んだりなんかしない」

 そのまま一気に抱き寄せると、凛子の頬に口づけた。骨が軋むほど強く抱かれる。

「あなたが好きだ」

 唇が、合わさる。何度か重ねたのち、激しさが増していく。
 煙草と男の慣れない香りに、くらくらする。
 息苦しさに離れようとすると、凛子の頭を大きな手が包む。

「凛子さん、結婚すると言ってくれ。頼む」

 切なげな懇願。気づけば頷いていた。
 日が沈み、辺りが闇に包まれた瞬間だった。
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