大正浪漫 斜陽のくちづけ
身重の聖子の代わりに、女中を連れ立って、結婚後住むという新居へ向かう。行商と今後必要なものについて話し合うことになっていた。
新居は東京湾に面した街にある。
門をくぐると、すぐに和洋折衷の屋敷が玄関が見えた。
相楽が出迎えてくれた。
入るとまだ室内はがらんどうだった。
「もう新居を購入したと聞いて驚きました。家具もないのに、どうやって暮らしているんですか」
「一日でも早く迎えたいのに、住むところもないんじゃ、どうしようもないからね。男一人ならどうとでも暮らせるものさ」
しばらくすると行商がやってきて、仰々しく凛子にも挨拶をした。
「いや、素晴らしいお屋敷ですな。これは相当腕利きの棟梁が技巧を凝らして作ったものとお見受けします」
行商の言うとおり、随所に細やか心遣いと、配慮の行き届いた粋な屋敷だった。
一通り屋敷を回ったあと、応接間で行商が算盤を持って、
「カーテンは、仏蘭西から取り寄せた生地で作るのがよろしいかと思います」
「卓子はいかが致しましょう」
「奥様のお着物をしまう桐箪笥はいくつ御入り用ですか」
矢継ぎ早に言われて、なにをどう決めたらいいかわからなくて、隣にいる相楽に助けを求めるように視線をやった。
行商が控帳に書き留めている金額が大きすぎて不安になる。
「好きに決めたらいい」
「でも、本来ならうちの実家が用意すべきものです」
聖子も色々凛子のために、準備をしてくれているが、贅沢はできない。なるべく質素に済ませたい。
「お父上にも、凛子さんに必要なものはこちらで用意すると伝えてある」
九条家の苦境を理解したうえで、気を使ってくれているのだろうか。
「私はさほど物を必要とする人間ではないのです」
誰にも迷惑をかけずに、静かに暮らせればそれで十分なのだった。
「それでも寝室にカーテンがなくては困るし、着物だって床に広げておくわけにもいかないだろう」
「でも少し高すぎませんか」
小声で訊ねると、
「いい物にはそれだけ払う価値がある。凛子さんは控えめすぎる。なんでも好きにねだったらいい。これくらいの金額で動じるようなら、そもそもあなたを娶る資格はないだろう」
そう言われては返す言葉もない。
「これで、ひとまず安心だ」
そもそも、日程が無茶と言っていいほど急だった。
──結婚が待ちどおしいってことかしら……。
「見せたいものがあるんだ」
行商が見積りをまとめている間に、相楽に手を引かれ、二階にある部屋へ行った。凛子のために用意したという南向きの部屋は、東京湾が一望できる。
「海が……」
壁を丸く切り取った硝子窓から見える景観に、思わず息を呑んだ。
ちょうど波に夕日が当たり、きらきらと海面が輝いていた。
遠くには漁船が見える。海を間近に見た経験はあまりない。
「きれいだろう。これがあるからこの物件にしたんだ。ガキの頃、この街に住んでいてね。外の世界を知らなかったから、大海へ出ていく船をいつも見ていたよ。俺はこんな狭い町にとどまりたくはないってね」
そんなふうに過ごした少年時代があるから、今の彼がいるのだろう。実際、この町に帰ってきたのも、なにかしらの思い入れがあるからに違いない。
「素敵……。私もここに住むんですね」
狭い世界で生きてきた凛子には、外の世界がどういうものかまだわからない。
硝子窓に手をやり、外の景色を見入っていると、後ろから大きな手が重ねられた。
背中にじんわりと他人の体温を感じ、鼓動が跳ね上がった。
「あの……父を助けてくださったこと、ありがとうございました。私との結婚はあなたにも利はあったのでしょうか」
言いたいことがうまく言えず、たどたどしくなってしまった。
「そういう色気のない言い方は嫌いだね」
振り向いた瞬間、顎に手をやられ、彼のほうを向かされた。
「あなたの心まで金で買えるとは思っていない。でも結婚までこぎつけられたのは、財力があったからだ。あなたが気にしてようが、俺はそのことを恥じる気は一切ない」
振り向くとそのまま唇を重ねられた。
「だ、駄目」
今日は二人きりで会うわけではないからと油断していた。扉の向こうにはまだ行商も、女中もいる。
首を振り、拒んでいるとそのまま抱き上げられて、長椅子の上に乗せられた。
新居は東京湾に面した街にある。
門をくぐると、すぐに和洋折衷の屋敷が玄関が見えた。
相楽が出迎えてくれた。
入るとまだ室内はがらんどうだった。
「もう新居を購入したと聞いて驚きました。家具もないのに、どうやって暮らしているんですか」
「一日でも早く迎えたいのに、住むところもないんじゃ、どうしようもないからね。男一人ならどうとでも暮らせるものさ」
しばらくすると行商がやってきて、仰々しく凛子にも挨拶をした。
「いや、素晴らしいお屋敷ですな。これは相当腕利きの棟梁が技巧を凝らして作ったものとお見受けします」
行商の言うとおり、随所に細やか心遣いと、配慮の行き届いた粋な屋敷だった。
一通り屋敷を回ったあと、応接間で行商が算盤を持って、
「カーテンは、仏蘭西から取り寄せた生地で作るのがよろしいかと思います」
「卓子はいかが致しましょう」
「奥様のお着物をしまう桐箪笥はいくつ御入り用ですか」
矢継ぎ早に言われて、なにをどう決めたらいいかわからなくて、隣にいる相楽に助けを求めるように視線をやった。
行商が控帳に書き留めている金額が大きすぎて不安になる。
「好きに決めたらいい」
「でも、本来ならうちの実家が用意すべきものです」
聖子も色々凛子のために、準備をしてくれているが、贅沢はできない。なるべく質素に済ませたい。
「お父上にも、凛子さんに必要なものはこちらで用意すると伝えてある」
九条家の苦境を理解したうえで、気を使ってくれているのだろうか。
「私はさほど物を必要とする人間ではないのです」
誰にも迷惑をかけずに、静かに暮らせればそれで十分なのだった。
「それでも寝室にカーテンがなくては困るし、着物だって床に広げておくわけにもいかないだろう」
「でも少し高すぎませんか」
小声で訊ねると、
「いい物にはそれだけ払う価値がある。凛子さんは控えめすぎる。なんでも好きにねだったらいい。これくらいの金額で動じるようなら、そもそもあなたを娶る資格はないだろう」
そう言われては返す言葉もない。
「これで、ひとまず安心だ」
そもそも、日程が無茶と言っていいほど急だった。
──結婚が待ちどおしいってことかしら……。
「見せたいものがあるんだ」
行商が見積りをまとめている間に、相楽に手を引かれ、二階にある部屋へ行った。凛子のために用意したという南向きの部屋は、東京湾が一望できる。
「海が……」
壁を丸く切り取った硝子窓から見える景観に、思わず息を呑んだ。
ちょうど波に夕日が当たり、きらきらと海面が輝いていた。
遠くには漁船が見える。海を間近に見た経験はあまりない。
「きれいだろう。これがあるからこの物件にしたんだ。ガキの頃、この街に住んでいてね。外の世界を知らなかったから、大海へ出ていく船をいつも見ていたよ。俺はこんな狭い町にとどまりたくはないってね」
そんなふうに過ごした少年時代があるから、今の彼がいるのだろう。実際、この町に帰ってきたのも、なにかしらの思い入れがあるからに違いない。
「素敵……。私もここに住むんですね」
狭い世界で生きてきた凛子には、外の世界がどういうものかまだわからない。
硝子窓に手をやり、外の景色を見入っていると、後ろから大きな手が重ねられた。
背中にじんわりと他人の体温を感じ、鼓動が跳ね上がった。
「あの……父を助けてくださったこと、ありがとうございました。私との結婚はあなたにも利はあったのでしょうか」
言いたいことがうまく言えず、たどたどしくなってしまった。
「そういう色気のない言い方は嫌いだね」
振り向いた瞬間、顎に手をやられ、彼のほうを向かされた。
「あなたの心まで金で買えるとは思っていない。でも結婚までこぎつけられたのは、財力があったからだ。あなたが気にしてようが、俺はそのことを恥じる気は一切ない」
振り向くとそのまま唇を重ねられた。
「だ、駄目」
今日は二人きりで会うわけではないからと油断していた。扉の向こうにはまだ行商も、女中もいる。
首を振り、拒んでいるとそのまま抱き上げられて、長椅子の上に乗せられた。