大正浪漫 斜陽のくちづけ
「凛子さん、どうした?」

 セツと別れたあと無言になった凛子に相楽が訊いた。

「きれいな方だなって見とれてしまいましたの」

 それは本当だった。やや年嵩ではあるが、それゆえの色香があった。

「私、自分の力で生きている人を見ると少し不安になるんです。私にはなにもないから」

 結婚に際し、抱えている不安を吐露した。

「なにもない? そんなことはないだろう」
「私、働いたこともないし、流されるだけでいいのかなって」

 女学校を退学してからは、世間の目から隠れるようにして暮らしていた。誰かの役に立つことはおろか、自立さえできていない。
 世の中は刻々と変わっていて、女性も働き自立することが可能となってきた。そんな話を聞くと、いつも自分だけが取り残されているような気分になる。

「何を言う。あなたはあなたにしかできないことがあるでしょう」
「そんなものはないわ。世間から見たら遊んで暮らしているようなものよ」
「俺にピアノを弾いてくれた。心慰めるような」
「あまりにささやかだわ」

 慰めの言葉に苦笑した。しょせんお遊び程度だ。

「ささやかでなにが悪い」 

 相楽のほうがむきになっているのを見て、卑屈でいるのが逆に申し訳なくなる。

「私自信がなかったんです。ずっと。でもこれからはあなたのお役に立てるように頑張ります」
「凛子さんは自分を知らないだけだ」

 車が家の前で止まった。

「今日はありがとうございました」

 家に入ろうとすると腕を掴まれて、抱き寄せられた。
 顎に手をやり、顔を上げられたかと思うと唇が重なる。昼間にしたのとは違う触れるだけの優しいものだった。

「なにも心配しなくていい。あなたのことは俺が守ると決めたんだ」
 

 翌日、足りない嫁入り道具の買い付けに女中のふみと共に、日本橋の呉服屋を回っていた。
 本来なら相当数の物を持っていくはずだが、凛子の願いで最低限のものだけ揃えることにしていた。

「お嬢様……あの」

 買い物を終え、車に荷物を移すと、ふみがおずおずと声と声をかけてきた。

「どうしたの?」
「いえ……その」

 どうにも様子がおかしい。

「具合でも悪いの?」
「告げ口みたいなことをしたくなかったんですが……誰かに聞かれるとまずいので、お屋敷では話しにくくて」

 その言い方によい話でないことは察した。

「うちの親が、神田で蕎麦屋をしているのは知ってますよね」
「ええ」
「それで、聞いたんです。近くにある小料理屋さんに相楽さんが来てるのを見たって」
「相楽さんが……」
「神楽坂で芸子をしていた女性との間に子供がいるって。それで、今は小料理屋さんをもたせてまだ続いているらしいと。相楽さんはあのとおり目立つし有名だから、見間違えるはずがないと」

 さっと心が冷えるのを感じた。小料理屋──昨日会ったセツのことが頭によぎる。

「本当なの」
「近所では皆知っているようです。旦那様や聖子様に先に言うのが筋とは思ったのですが」
「いいえ。私に言ってくれてありがとう」

 体調の悪い父の耳に入るくらいなら、直接聞いたほうがいいと思った。
 本当なら父がすぐにでも破談にするであろう話だが、相楽に大金を借りている現状で、どうするかはわからなかった。
 突然降ってきた不穏な話に、凛子は激しく動揺していた。

「このことは、誰にも言わないで」

 その日はなにも手につかず、一日中そのことばかり考えていた。
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