大正浪漫 斜陽のくちづけ
 男と会わないように急いで階段を慌てて降りると、ちょうど相楽が戻ってきたところだった。

「あっ」
「凛子さん。どうしてここに?」

 さきほど聞いてしまった内容に激しく動揺していたところに、本人が現れて一層混乱した。いざ目の前にすると言葉に詰まる。

「仕事を済ませたら会いに行こうと思っていたら、あなたがいて驚いだ」
「あ、あの」
「これは、これは相楽さん」

 戸惑っていると、先ほど相楽のことを話していた男性の声がして振り返る。

「市村か」

 相楽が露骨に嫌な顔をした。

「そのお嬢さんが噂の婚約者か? なるほど傾城の美人と言うにふさわしい。身を固める決意をするだけあるな。身分差を乗り越えた純愛か、美しい話だ」

 見え透いたおべっかに、白けた気持ちになる。
 市村と呼ばれた男の探るような視線に警戒していると、相楽が自分の背に凛子をかばうように隠した。
 さきほどまでの蔑むような口調が、相楽がやってきた途端媚びるように変わった。なんとなく嫌な感じがして、怖くなる。

「見てのとおり、控えめでおとなしい性格でしてね、そっとしておいてもらえると助かるよ」

 それとなく男の詮索に釘を刺してくれていることがわかった。

「ところでまた一緒に仕事するって話、考えてくれたか」
「悪いが、俺とあんたじゃやり口が違うんだ。前にうまくいったのはただ運がよかっただけだ」
「いいや、俺とお前がまた組めば天下が取れるさ。あんなに気持ちよく金儲けができたのは、あとにも先にもお前がいた時だけだ」
「時勢にうまく乗っただけさ。これからは運だけじゃやっていけない」
「お前の足りない部分は俺が補える。俺の相棒はお前しかいないと思っている」
「では、言い方を変えようか。俺は自分の好きなようにやりたい。誰の言いなりにもなりたくない。そのせいで失敗したとしても構わない」

 相楽のにべもない言葉に、市村は蛇のように陰湿な目でこちらを一瞥すると、
「また来る。お前の気が変わると願ってな」

 言い捨てて去っていった。
 影ではあしざまに相楽を蔑んでいたのに、いざ目の前にすると媚びるような態度に変わったり、凛子を探るような目で見たり不気味な男だった。

「嫌な気分にさせたら悪かった。あの男は俺が最初に就職した時の同僚でね。一緒に商売したこともあるんだが、どうも俺はあいつが苦手でな」
「いえ。私が突然来てしまったから──」
「わざわざ来てくれたのか」

 事務所の中に通される。従業員も大層いると聞いていたが、この事務所は少人数で回しているらしい。中から先ほど市村と話していた青年が出てきた。

「初めまして。鈴木です。社長に拾われてからずっとお世話になっております!」

 あんまり声を張るので驚いたが、人のよさそうな顔をしていた。

「初めまして。九条凛子と申します」
「舞踏会の夜は遠巻きに見てました。間近で見てもお美しい。社長が入れこむのもわかります」
「余計なことは言わなくていい」
「社長、俺はちょっと使いに出ます」

 鈴木と名乗った青年は、相楽に睨みつけられ、そそくさと出かけて行った。
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