大正浪漫 斜陽のくちづけ
「会いにきてくれたのか。一人で?」

 鈴木が出ていくと、奥の部屋に通された。

「ええ。しばらく会えなかったので、少し話がしたかったんです」
「あなたのほうから会いに来てくれるとはね。一人で大丈夫だった?」
「ちょっと近所に買い物に行くと言ってきました」

 相楽が破顔する。
 どうやら凛子が帰るのを待ちわびてやってきたと思ったらしく、感激した様子だった。そんな些細なことで喜ぶと思わなかったから意外だったが、切り出しづらくなってしまった。

「あの……仕事中に大丈夫でしたか?」
「こっちの事務所には鈴木と俺しかいない。がやがや人がいると集中できない性質でね。わざわざ会いにきてくれたのに、仕事などしていられないだろう」

 当然のように凛子を胸に抱きよせる。

「誰か来たらどうするんです」

 必死に分厚い胸を押し返すと、

「婚約者と二人きりでいるのに、入ってくるような気の利かない奴は雇わんさ」

 顎に手をやり、顔を上げられたかと思うと唇が重なった。驚いて顔を背けようとしても、相楽の手がそうはさせまいと頭をおさえた。
 婚約してからというもの、少しでも二人きりになる時間があれば、こうして凛子に触れるようになっていた。一線こそ超えていないものの、どんどん大胆になっているようだった。
 流されそうになった瞬間、セツの顔が頭をよぎった。

「やめて! やめてください」

 自分でも驚くほど、冷たい声だった。さきほど聞いたことが頭から離れない。
 直接聞いて、真実だったら今度こそ自分の心が壊れてしまうと思った。

「浮かない顔だ。どうした?」
「色々考えることがあって……」

 言葉を濁すが、嘘はついてはいない。真実を言ってもいないが。
 相楽がため息をつく。

「婦人には、男にはわからない不安や葛藤があるのかもしれないな……家を出て性も変わる。それに特権階級から庶民に降りるわけだしな」
「そういうことではなくて──」
「ならばなぜ。なにか心配ごとでも? 顔色が悪い」
「…………」
「せっかく来てくれたのに、ご機嫌斜めか」

 相楽の無骨な指が髪をなぜ、悪戯に頭皮に触れる。触れられた部分が熱っぽくなる。

「あ、あの……」

 勇気を出して、切り出そうとすると、

「戻りましたぁ! 羊羹買ってきたので、どうですか?」

 先ほどの青年が戻ってきた。
 どうやら、気を利かせて外出したわけではなかったようだ。

「気の利かない奴がいた……」

 お茶と羊羹を出され、鈴木はいかに相楽が素晴らしい人間であるかを滔々と語っていた。どうやら目下の者からの人徳はあるようだ。
 そうして、二人きりで話す機会を失ってしまった。

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