大正浪漫 斜陽のくちづけ
五章 婚礼
千々に乱れた心を整える方法もわからないまま、婚礼の日は訪れた。
心を覆う悩みを誰に打ち明けることもできず、一人で抱えていた。長い孤独な生活の中で、諦めるということに凛子は慣れすぎていた。
「おめでとうございます」
口々に紡がれる祝いの言葉。華やかな宴の中、凛子の頭からセツのことが離れることはなかった。色とりどりの花で飾られた華やかな会場も今は灰色に見える。
中には新聞記者もいた。労働者上がりの平民が、九条家の娘と結婚するということは世間の好奇を誘った。
日比谷神宮での挙式に加え、そのあとの帝國ホテルでの披露宴と息つく間もなく一日が過ぎて、ようやく新居に辿りついたのが、夜半過ぎだった。
なにもかもが慌ただしく、慣れないことばかりだった。
すでに届いた山のような花嫁道具も手付かずのままだった。
女中頭に邸宅を案内され、いよいよここに住むのかと思っても、まだ実感がなかった。
「旦那様には、奥様が困らぬようにと申しつかっております。なにかあればお申しつけください」
「ありがとうございます」
右も左もわからない凛子には、その心遣いは嬉しかった。
商人の妻となったからには、今までとは違うこともしなければならないだろう。
「私のほうこそ、なにか至らないことがあればおっしゃってください」
そう言うと女中頭が面食らったような顔をする。
「どうなさったの?」
「いえ。思ったより気さくな方で驚きました」
世間では、華族などというとお高く止まっていると思う人もいるのかもしれない。あながち間違いとも言い切れないが、凛子にはその手の矜持はない。
むしろ身分などという枷から解き放たれるという意味では、少し気楽になる。
狭い社交界で、後ろ指を指され続けた三年間。鳥籠の中で、ただ余命を全うするだけの人生だと思っていたのが、少し道を外れた。それが幸か不幸かまだわからない。
「お疲れでしょう。お湯の準備ができておりますので、どうぞそのままお入りください」
風呂一つとっても実家とは勝手が違うから戸惑った。
凛子と結婚するために購入した和洋折衷の屋敷は、実家から車で三十分ほどの港町にある。
一人で熱い湯に浸かると、疲れて棒のようになった足にじんわりと血が通う。少しだけ開いた通気口から潮の香りがする。
──これからは、もう頼る人もいないし、私がしっかりしなくては。
心配をかけないためにも、今までの娘気分ではいけない。そんなことを思ってはいても、すでに姉や姪のいる実家が恋しくなっていた。
入浴を終え、先に寝室に入った凛子は緊張していた。
そわそわと不安な気持ちでいると、寝室に入ってきた相楽が凛子の傍にきた。
あれから結局なにも話し合わないまま夫婦となってしまった。
家のための結婚と割り切ろうと自分に言い聞かせて、もやもやとした気持ちを呑み込むことにした。
──結局、私は自分が傷つきたくない弱虫なだけ。
「髪、下ろしてるの初めて見た」
そう言って濡れた髪を一房掬い上げ、そっとくちづけた。
外出する時はいつも髪をまとめている。まっすぐで黒い髪が美しいとされているが、凛子の髪は色素も薄くてやや癖がある。じっくり見られるのは恥ずかしい。
「式ではあまり話せなかった。疲れただろう」
「ええ。少しだけ」
「凛子があんまり綺麗だから、皆、言葉を失っていたよ」
呼び方が変わったことに、どきりとする。
「言い過ぎです」
いつもどおりの大げさな言葉に苦笑いしていると、
「なにがおかしい。本当のことだ」
肩を抱かれ、首筋に口づけられた。
「やっと二人きりになれた」
「んっ、まだ私……」
なにも聞かないままに結婚することを決めたのは、ほかならぬ凛子だったが、まだ彼を受け入れがたく思うのも事実だった。
「ま、待って!」
一度激しく相楽を拒んでからというもの、気まずいまま迎えた初夜だった。
「ずっとこうしたかった」
うっとりと耳元で囁かれる甘い言葉も冷たくなった心を温めはしない。。
疑う気持ちを持ちながら、新しい生活を始めるのが気鬱だった。
とはいえ、他に選択肢などなかったように思う。心に壁さえ作ってしまえば、傷も浅くて済むだろう。
そんなことばかり考えていると、抱きすくめられ、耳元で囁かれると鼓動が早くなる。
「俺がどれだけ待ち焦がれていたか、あなたにはわかるまい」
横抱きにされ、寝台へとおろされる。
啄むような口づけを幾度もされ、体に力が入らなくなる。
「よく似合う」
凛子の夜着は、嫁入り道具として用意されたものだった。
行商曰く、仏蘭西から輸入したという上質な絹でできた夜着は、しっとりとなめらかで肌触りもやさしい。白い生地には細やかな花の刺繍が施され、初夜の新妻らしい意匠だった。
夜着の上から無骨な指が凛子の体をまさぐり始める。腰や背中といったなんでもないところでも、触れられるたびにびくりと体が震えた。
心を覆う悩みを誰に打ち明けることもできず、一人で抱えていた。長い孤独な生活の中で、諦めるということに凛子は慣れすぎていた。
「おめでとうございます」
口々に紡がれる祝いの言葉。華やかな宴の中、凛子の頭からセツのことが離れることはなかった。色とりどりの花で飾られた華やかな会場も今は灰色に見える。
中には新聞記者もいた。労働者上がりの平民が、九条家の娘と結婚するということは世間の好奇を誘った。
日比谷神宮での挙式に加え、そのあとの帝國ホテルでの披露宴と息つく間もなく一日が過ぎて、ようやく新居に辿りついたのが、夜半過ぎだった。
なにもかもが慌ただしく、慣れないことばかりだった。
すでに届いた山のような花嫁道具も手付かずのままだった。
女中頭に邸宅を案内され、いよいよここに住むのかと思っても、まだ実感がなかった。
「旦那様には、奥様が困らぬようにと申しつかっております。なにかあればお申しつけください」
「ありがとうございます」
右も左もわからない凛子には、その心遣いは嬉しかった。
商人の妻となったからには、今までとは違うこともしなければならないだろう。
「私のほうこそ、なにか至らないことがあればおっしゃってください」
そう言うと女中頭が面食らったような顔をする。
「どうなさったの?」
「いえ。思ったより気さくな方で驚きました」
世間では、華族などというとお高く止まっていると思う人もいるのかもしれない。あながち間違いとも言い切れないが、凛子にはその手の矜持はない。
むしろ身分などという枷から解き放たれるという意味では、少し気楽になる。
狭い社交界で、後ろ指を指され続けた三年間。鳥籠の中で、ただ余命を全うするだけの人生だと思っていたのが、少し道を外れた。それが幸か不幸かまだわからない。
「お疲れでしょう。お湯の準備ができておりますので、どうぞそのままお入りください」
風呂一つとっても実家とは勝手が違うから戸惑った。
凛子と結婚するために購入した和洋折衷の屋敷は、実家から車で三十分ほどの港町にある。
一人で熱い湯に浸かると、疲れて棒のようになった足にじんわりと血が通う。少しだけ開いた通気口から潮の香りがする。
──これからは、もう頼る人もいないし、私がしっかりしなくては。
心配をかけないためにも、今までの娘気分ではいけない。そんなことを思ってはいても、すでに姉や姪のいる実家が恋しくなっていた。
入浴を終え、先に寝室に入った凛子は緊張していた。
そわそわと不安な気持ちでいると、寝室に入ってきた相楽が凛子の傍にきた。
あれから結局なにも話し合わないまま夫婦となってしまった。
家のための結婚と割り切ろうと自分に言い聞かせて、もやもやとした気持ちを呑み込むことにした。
──結局、私は自分が傷つきたくない弱虫なだけ。
「髪、下ろしてるの初めて見た」
そう言って濡れた髪を一房掬い上げ、そっとくちづけた。
外出する時はいつも髪をまとめている。まっすぐで黒い髪が美しいとされているが、凛子の髪は色素も薄くてやや癖がある。じっくり見られるのは恥ずかしい。
「式ではあまり話せなかった。疲れただろう」
「ええ。少しだけ」
「凛子があんまり綺麗だから、皆、言葉を失っていたよ」
呼び方が変わったことに、どきりとする。
「言い過ぎです」
いつもどおりの大げさな言葉に苦笑いしていると、
「なにがおかしい。本当のことだ」
肩を抱かれ、首筋に口づけられた。
「やっと二人きりになれた」
「んっ、まだ私……」
なにも聞かないままに結婚することを決めたのは、ほかならぬ凛子だったが、まだ彼を受け入れがたく思うのも事実だった。
「ま、待って!」
一度激しく相楽を拒んでからというもの、気まずいまま迎えた初夜だった。
「ずっとこうしたかった」
うっとりと耳元で囁かれる甘い言葉も冷たくなった心を温めはしない。。
疑う気持ちを持ちながら、新しい生活を始めるのが気鬱だった。
とはいえ、他に選択肢などなかったように思う。心に壁さえ作ってしまえば、傷も浅くて済むだろう。
そんなことばかり考えていると、抱きすくめられ、耳元で囁かれると鼓動が早くなる。
「俺がどれだけ待ち焦がれていたか、あなたにはわかるまい」
横抱きにされ、寝台へとおろされる。
啄むような口づけを幾度もされ、体に力が入らなくなる。
「よく似合う」
凛子の夜着は、嫁入り道具として用意されたものだった。
行商曰く、仏蘭西から輸入したという上質な絹でできた夜着は、しっとりとなめらかで肌触りもやさしい。白い生地には細やかな花の刺繍が施され、初夜の新妻らしい意匠だった。
夜着の上から無骨な指が凛子の体をまさぐり始める。腰や背中といったなんでもないところでも、触れられるたびにびくりと体が震えた。