大正浪漫 斜陽のくちづけ
 凛子に初めて会ったのは、ちょうどその頃だった。
 苦労して自分を育てた母親は、やっと親孝行ができると思った矢先、風邪をきっかけにあっけなく他界してしまった。そのことで言いようのない虚しさに襲われていた時期だった。

 必死に社会で認められることに必死で、色々なものを見失っていた。敵もたくさん作ったし、友人も失った。
 貧しさゆえに辛酸を舐めた過去に復讐したかったのかもしれない。
 どれほど富を築いても、心に空いた穴が塞がらない気がした。

 人生の皮肉さ、なにより自分の愚かさに失望していた頃でもある。
 目標を失ったようで張り合いがなくなった。
 世間で思われているほど、自分が強欲な人間ではないのかもしれないと思った。

 そんな折、桜吹雪の舞う春の昼下がり、仕事で九条家を訪れた。
 なにやら楽しげな笑い声がして、半分開いた窓の向こうに彼女がいた。幼子と共にピアノを一緒に弾いている。

 音楽なんぞわかりもしないが、心底楽しそうな様子に目が離せなくなった。
 透きとおった白い肌に薄茶の髪が柔らかく風に揺れている。
 まるでそこだけ光が当たっているように見えた。

 鬱屈とした日々を過ごしている中、少女の鈴のような笑い声を聞いて、あんなふうに笑える人間にほのかな憧れを抱いた。
 最後に心から笑ったのはいつだろう。

 九条伯爵との面会を終え、廊下に出ると、先ほど窓の外から見た少女が小走りでやってきて、相楽の胸にぶつかり、うしろへ倒れこんだ。

「ごめんなさい」
「こちらこそ申し訳なかった。大丈夫ですか」

 謝る少女に手を差し伸べる。白くて小さくて温かな手だった。
 いかにも育ちのよさそうな笑みを浮かべ、

「初めまして。父のお客様ですか?」
「ええ。仕事を頼まれていましてね」
「あら。頭に花びらがついていますよ」

 そう言うと背伸びして、相楽の頭に手をやり花びらを取ってくれた。
 その人懐こい笑顔に、やられてしまった。あれがまずかった。
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