大正浪漫 斜陽のくちづけ
 仕事の話を終えて、玄関を出て帰ろうとすると、

「お待ちください」

 後ろから鈴のような甘い声がして振り返ると、さきほどの少女が笑って立っている。

 柔らかそうな髪が春風に吹かれて、なびいていた。

「さきほどのお詫びです」

 そう言って一朶の桜の枝を差し出した。
 受け取ると春の香りがこぼれてくる。

「これはこれは」
「もう桜も終わりですわね。それではごきげんよう」

 一礼して、門まで見送ってくれる。怒りや鬱屈などとは無縁の朗らかな笑み。
 まるで春の光に包まれた幸せな小鳥のようだ。彼女の周りだけが、きらきらと輝いて見えた。
 手を振る彼女の姿を淡く儚い遠い夢のような心地で見ていた。


 その後、彼女の身に起きた事件は、あの幸せそうな少女には似合わない陰惨な悲劇だった。
 引き寄せられ狂ってしまう男の気持ちはわからないでもないが、その理不尽さには怒りしか感じない。

 あの事件に相楽も少なからず関わってしまったことを凛子は知らない。
 世間から隠れて暮らすようになった凛子を痛ましく思った。
 再び舞踏会で出会った時には、もうあの無防備な笑顔はもう失われていた。
 全て諦めたような投げやりな目。

 楚々としたたたずまいも、どこか虚ろで儚い。
 ──狭い世界しか知らないから、いつまでも過去に囚われているのだ。
 他人の目などという無責任で不確かなものを恐れて、残りの人生を捨てる愚かしさを教えてやりたい。傲慢にもそう思った。

 卑劣な手段を用いて、やっと手に入れたと思い安心したのも束の間、いまだに凛子が過去を忘れられないでいることへ激しく嫉妬している。
 苛立ちと焦り。

 余裕のある振りもいつまでできるかわからない。
 自分にとって足りない唯一のものが、彼女であるような気すらする。どうにもならない空虚を彼女だけが埋めてくれる。

 そんなものは妄想に過ぎないとわかってはいても、狂気のような執着心でいつか凛子を苛んでしまいそうだった。
 もっと穏やかで、優しい男がいずれ彼女を求めたかもしれない。だからこうするしかなかった。

 いつか心を開いてくれるまで待つつもりだったというのに、自分の気の短さにはうんざりする。
 娘を売る父親に、買う男。どちらもろくでもない。それでも、自分なりに大切にするつもりだった。問題は凛子が受け入れるかどうかだ。
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