大正浪漫 斜陽のくちづけ
「忘れたいの──。全部」

 うまく言葉にできないもどかしさの代わりに相楽の胸に顔を埋めた。それが精一杯だった。大きな手が凛子の髪を撫でた。
 何かに追いつめられるように、二人はきつく抱き合いともに果てた。

 汗に濡れた肌を寄せ合っていると、憂きことは全て忘れてしまえそうだが、
それはわずかの間だけだともう知っている。
 どれほど肌を重ねても埋まらない虚ろが、二人の間にはまだ存在していた。

「……悪かった」
「私もごめんなさい。その……白粉の香りがしたので嫌な気分になって」

 素直に言うと、意外な顔をされた。

「接待だったんだ。確かに芸妓はいたけど、やましいことはしていない」

 本当だろうか。けれど信じている振りをすれば、この時間は幸せでいられる。
 今はまだこうしていたい。

「香りが移るほど、近くにいたんですか」

 体を重ねたあとのせいか、素直に聞ける。

「座敷で転んだのを支えたんだよ」

 真偽もわからないし、とにかく面白くない。凛子がむっとしていると、

「嫉妬したのか?」
「しません」

 そう言ってすげなく背を向けると、強引に抱き寄せられくちづけられた。

「怒っててもかわいいな」
「ずるい……ごまかして」
「ごまかしてない。本当だ。初めて会った時、あんまりきれいだから天使かと思ったよ」

 二人きりの時だけ、やけに甘ったるい言葉を口に出す。
 差し出された腕に頭を乗せ、凛子は夫の胸に顔を埋めた。互いに傷を慰めるように、抱き合う。

「今日、市村さんが来ました」
「なんだって」
「私の過去を書いた文書を買い取ってほしいと。断りました。私にはもう名誉なんてないですし」

 気になるのは、実家だった。また迷惑をかかるといけないとは思うが、だからと言って強請りに応じることもできない。

「それでおとなしく帰ったのか」
「ええ……。それで市村さんの持ってきた文書と一緒に手紙も処分しようとしていたんです。私はもうあなたと結婚したから、忘れようと思って」
「怖い思いをさせて悪かった。警備の者を追加で雇う。二度とここには来させない」

 凛子を抱く手に力がこもる。
 もうこれ以上、過去に心を乱されたくない。
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