大正浪漫 斜陽のくちづけ
 翌朝、起きるとすでに夫の姿はなく、凛子は慌てて着替えと化粧を済ませて寝室を出た。
 つい寝過ごしてしまったようだ。

 階下ではがやがやと音がして、なにやら人の出入りが激しいようだ。
 階段を下りて見にいくと、大きな荷物でも運ぶようで、数名の男性が入口を確保していた。

「なにか来るんですか」
「おいで」

 相楽に招かれ奥の部屋に行くと、象牙色のピアノが置いてあった。

「これ……」

 実家を出てからピアノを弾くことはなくなった。
 姉の聖子は新居に持っていくかと聞いてくれたが、姪の春子も使うため、置いてきたのだった。

 それに嫁いだ以上、色々もやらなくてはいけないと思っていたから、そんな時間はないと諦めていた。

「お得意さんにピアノを買わないかと言われて、付き合いもあるから買うことにした」
「ありがとうございます」

 実を言うと、唯一の趣味だったから、弾けない日々は物足りなかった。これからは毎日弾けると思うと嬉しくなる。

「少し弾いてみてくれないか」

 凛子に頼み事をするのは珍しい。そんなにピアノが好きなのだろうか。

「久しぶりだから、うまく弾けるかわからないけれど」


 即興で何曲か弾くと、長椅子の上で腕を組んだまま瞳を閉じて聞いているようだった。
 弾き終わると、静かに語り始めた。

「凛子を初めて見たのは、三年前だったかな。九条伯爵に招かれ屋敷に行ったら、綺麗なピアノの音が聞こえた。窓からまだ学生だった君が見えた。セーラー服に三つ編みをしたまま姪っ子と一緒に楽しそうにピアノを弾いていた」
「え?」

 そういえば以前から出入りしていたと言っていたが、見られていたとは思わなかった。

「二度目に見かけた時には、学校も辞めて、暗い顔をしていた」
「気づきませんでした」
「無理もない。こちらが一方的に見ていただけだからな」

 相楽が凛子の頬に触れた。どこか懐かしいような目で。

「舞踏会の夜に話したらどこか投げやりな顔をしていたから気になった。世の中に誰も理解者なんていないような」

 自分の幼稚さを指摘されたようで、頬が赤くなる。

「きっと無意識にそう思っていたんでしょうね」
「家族を助けるため嫁いだとしても、凛子の居場所はもうここだ」

 またあの瞳だ。逃げ場を塞ぐような。向き合わざるをえない。

「はい。私はもうあなたのものです」

 それは本心だった。
 ──あなたも私だけのものになってください。
 心の中でしか言えない言葉。

「妻は夫の所有物じゃない」
「あなたがそう言ったのに?」

 おかしな人だ。凛子への独占欲みたいなものは日々強く感じる。

「言葉の綾だな──いや、ただの願望で心は自由だ。誰にも縛れない」

 ふとそんな言葉を漏らした横顔には、隠しきれない寂しさがあった。
 ──自由な心で、あなたを愛していると言ったら?
 互いの心に届きそうで、届かない。ほんの少しの勇気がない。
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