大正浪漫 斜陽のくちづけ



 凛子に見送られ、会社に向かう車の中で運転中の鈴木が声をかけてきた。

「凛子さん、元気そうですね。市村さんに脅されて意気消沈していると思いました」
「最近確かに笑顔が増えたな」
「しかし、市村さん。死ぬほど社長に惚れてますよね」

 市村が凛子にまでやってきたと知り、警備を兼ねて使用人を増やしたばかりだった。

「気持ちの悪いことを言うな」
「でも、わかるんすよ。俺。羨ましくて、憧れて、んで妬ましくて憎くてたまらないっていう気持ちも。大人しく引き下がるといいんですが」
 凛子を強請りにきたことをきっかけに、探偵を雇い動向を調べさせているところだった。

 妙な動きをしたら、すぐに知らせるように伝えてある。

「わかりたくない。そんなもん」

 憮然と答える。
 ──一緒に泥水すすった仲だろう。復讐しようぜ。俺らを馬鹿にしてきた奴らによ。
 かつて市村が言った言葉だ。
 互いに貧しさから、上に行くことを夢見て切磋琢磨していた若かりし日を思い出す。

 多少なりとも共鳴する部分があったのだろう。今はもう違う。
 同じ道を歩んでいたはずの仲間の凋落。

 苦楽を共にしたこともあった。自分も一歩間違えば市村のようになっていたかもしれない。

「なにもかもを手に入れたように見えるんでしょうねぇ。実際、そうですし」

 鈴木が言う。
 一番欲しいものは、まだ手に入っていない。
 凛子は、なかなか自分に心を開かなかった。近くにいても心までは手に入らない。

 どこか冷めた目で見つめられると征服欲をそそられ、弱い姿を見れば庇護欲を掻き立てられる。

 要するに、凛子は相楽の欲をあらゆる面で刺激した。
 気づけば凛子に夢中になって、一挙一動に振り回されている。
 最近特に、やたらとそわそわしている。市村のことで情緒不安定かと思いきや、なんだか少し楽しそうに見える。まるで恋でもしているような──。

「女はわからん」
「まさかその言葉が社長から出るとは。結婚は男を変えるって本当なんですねぇ」

 陽気に笑う鈴木に、

「突然、小さい生き物は好きかと訊かれた。それと最近やけに落ちつきがない。食事中も上の空だ」
「ええっ! それなんて答えたんですか」
「好きじゃないと。どうも動物は苦手でな。凛子が飼いたいなら犬くらい飼ってもいいが」
「いや。それ、おめでたじゃないですか? 反応が怖いから遠回しに聞いたんじゃないすか。ほら、社長が強引に結婚までこぎつけたし、凛子さんまだ本音とか言えてなさそうじゃないですか」

 いつも抜けている鈴木だが、時々鋭いことを言うから侮れない。

「妊娠? まさか」

 様子がおかしいとは思っていたが、その可能性はまだ考えていなかった。
 確かに妊娠してもおかしくはないが、まだ先だろうと思っていた。
 やけに浮かれた様子なのは、子を授かったからなのか。

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