大正浪漫 斜陽のくちづけ
「なんだか旦那様、ご機嫌が悪くないですか」

 翌朝、朝食前に女中頭に耳打ちされた。昨夜はシロと一緒に空き部屋の椅子の上で眠ってしまったのを彼が寝台まで運んでくれたようだった。

「やっぱり猫が苦手なのかしら」

 引き取り手を探すべきか。そのことを思うと胸が張り裂けそうになる。

「いや、あれは嫉妬ですね」
「嫉妬?」
「奥様があんまりかわいがるので、面白くないんですよ。旦那様のことも構っ
て差し上げないと」
 大の男が子猫に嫉妬するなどありえないと思う。
 まして相手は相楽だ。

「奥様はお若いからわからないんでしょうねぇ。男らしさとは、すなわち子供っぽさにも直結しているんですよ」

 結婚生活の長い既婚女性が言う言葉には、理屈抜きの重みがあった。

「そ、そんなことってあるかしら」

 したり顔で語られても、納得はできないが、ひとまず気をつけようと思う。
 嫁した以上、夫を立てるべしと姉からもらった『新妻の心得』にも書いてある。
 

 夕方になってシロに餌をやろうと探しても、屋敷の中のどこにもいない。
 まだ小さいし外には最近飢えた野犬がうろついているから、窓は締め切って出ないようにしていたが、その日はなぜか窓が少しだけ空いていた。

「どうしよう」

 慌てて庭先を探しまわるが、姿は見えない。
 木の影や、近所の軒下まで見てみたが、どこにもいない。

「白い子猫を見ませんでしたか?」

 近所の老人に尋ねると、
「道路で馬車に轢かれた猫がいたなぁ」

 さっと血の気が引く。
 道路に思わず飛び出すと、往来を走ってきた自転車とぶつかりそうになる。

「なにしてる!」

 ちょうど帰宅した相楽が声を張り、我に返る。

「どうした?」
「シロが……シロがいなくて」
「とりあえず、落ちつくんだ。家に戻ってくるかもしれない」

 もう一度屋敷に戻った彼がシロを見つけてくれた。

「本棚の隙間に隠れて寝ていた」
「よかった……」

 シロを受け取ると、その場にへなへなと座り込んでしまう。

「ありがとうございます」
「全く……慌てすぎだ。──泣いてるのか」

 言われて眦から溢れた涙をごしごしとこする。
 なんだか、この人には泣き顔ばかり見せている気がする。

「無事でよかった」

 ぎゅっとシロを抱きしめる。


 今日は家で仕事をすると言い、相楽は朝から書斎に籠っていた。

「失礼します」

 扉を開けると仕事に没頭しているようだった。

「お茶をどうぞ」
『構え』と言われても、お茶を出すくらいしか思い浮かばないのが情けないけれど、しないよりはましだろう。
 机の上にお茶を置いて、部屋を出ようとすると、

「猫が来てから変わったな。笑うことが増えた」

 やはりどことなく不機嫌そうだった。たった一人でこの屋敷にやってきて、唯一頼るべき夫にも心を開けず孤独な日々だった。辛くなかったと言えば嘘になる。

「生き物が苦手なのにごめんなさい」
「嫌いなわけじゃない。ガキの頃、犬なら飼ったことがある」

 そういえば子供の頃の話を聞いたことがなかった。

「親父が飼ってたんだが、無責任に置いて出ていった。ぶらりと煙草でも買いに行くように家を出てそのまま帰らなかった」

 それは犬だけではなく、妻や子も捨てたということではないだろうか。
 訊いていいのか、悪いのか判断がつかず、ただ次の言葉を待った。

「馬鹿な犬でな。俺やお袋が諦めても、ずっと夕方になると親父を待ってたんだ。ある日大通りまで出て馬車に轢かれて死んじまった」

 凛子が猫を飼ったせいで、いらぬことを思い出させてしまったのだろうか。

「ごめんなさい。あなたの家なのに勝手なことをしました。猫は誰か引き取り手を探します」
「誰がそんなことをしろと言った。そこまで心の狭い男に見えるか」
「そんなことはありませんけど、なんだか辛そうだから」

 椅子にもたれた相楽がため息をつく。

「猫の前だと、こんなに幸せそうに笑うのかと驚いただけだよ」
「シロがいると、私も生きててもいいんだなって思えるんです。必要とされている気がして」

 呆れたように溜息をつかれてしまう。

「俺は猫以下か……」
「いえ。そんなことは──お仕事のお邪魔しました。失礼します」

 退室しようとすると、椅子から立ち上がり扉のほうへ向かってきた。

「凛子」

 腕を掴まれ扉に体を押し付けられた。そのまま口を吸われ体をまさぐられた。
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