大正浪漫 斜陽のくちづけ
「なかなか一人にならねぇな……」

 市村は苛立った様子で、火のついた煙草を地面に投げ捨てた。
 全く近頃なにをやってもうまくいかない。九条の家の秘密をかぎつけたが、強請るには少し証拠が足りない。
 ずいぶん前に手を出した密輸の件で、ついに指名手配されたのが相楽の家を訪れた直後のことだった。

 急いで家を引き払い、放浪する羽目になった。かつて全てがうまく回っていた時にはこれほど追いつめられるとは思わなかった。

 自分は無敵なのだと頑なに信じていた。だからこそ、落ちぶれはしても、これで終わりたくない。大陸へ逃げてもう一度やり直すつもりだった。
 そのための資金集めが必要だった。

 ──いくら落ちぶれても娘が誘拐されたら金は払うだろう。相楽にも一矢報いることができるし一石二鳥だ。
 相楽の女を尾行し始めてから十日が経った。なぜだか女は相楽の妾の家にいた。だがそんなことはどうでもいい。

 いざとなったら白昼堂々攫ってやるつもりだ。
 詐欺まがいのことをしてまで資金を集めて手を出した投機も失敗した。焦りが失敗を呼び、さらなる深みにはまってしまった。
 もうあとがない。

 ──手堅く成功を積み上げていくあいつとは大違いだ。どこで命運が別れた?
 相楽とは同じ汽船会社へ就職し、一緒にのし上がった仲だ。ちょうど空前の好景気が相まって、全てがうまくいった。あの頃の奇跡的な高揚が今も忘れられない。

 しばらく一緒に事業をやっていたが、相楽は一番うまくいっている時に、市村の元を去り独立した。
 馬鹿な奴だとその時は思ったが、その後の相楽は大きな成功を収め、その名を世に轟かせた。

 奴の市況への読みは早く正確だった。
 大戦後荒れに荒れた市場で市村を始め、多くの成金とよばれる者たちが富を失うことになるが、それも相楽は乗り切った。

 大胆に見えて慎重だ。だからこそ他の成り上がりとは違って、恐慌もいち早く察知して乗り切った。
 皆が躊躇するような時に、恐れず挑戦し、皆が油断している時は逆に慎重に留まろうとする。
 今や財政界で相楽の名を知らぬ者はいない。
 ──資金さえあれば、もう一度やり直せる。このままで終わると思うなよ。

 今まで見下してきた奴らを屈服させたい。
 そのためなら手段は選ばない。大金を得たらそれを軍資金にして、一旗上げるつもりだった。
 面倒なので女と引き換えに金を要求することにした。

 ──呑気にしていられるのも今だけだ。
 なにも知らない女の後ろ姿を見て、そっと呟いた。





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