大正浪漫 斜陽のくちづけ
「お帰りなさい」

 十日ぶりに神戸から帰った夫を出迎える。

「お話があります。お時間ください」

 凛子の声色には、いつもはない静かな怒りがあるのに、まだ気づいてはいない。

「ああ。約束だ。いない間、なにか変わったことは?」

 ついに切り出す時が来た。

「昨日、あなたによく似た男の子が来たんです」
「喜一か」

 相楽はしばらく考えてから、戸惑うようにその名を声に出した。

「どうして話してくれなかったんです。あなたに異母弟がいるなんて知らなかったわ」
「戸籍上は他人なんだ。親父が死んでから遠い親戚から連絡があって、葬式に行ったら赤ん坊のあいつがいた」
「私、結婚前にあなたに隠し子がいて、セツさんともまだ続いてると聞きました」

 相楽がぐっと眉根を寄せた。

「でたらめだ。なぜ黙っていた」
「こちらの台詞です! 不誠実だわ。ひどい!」

 悶々と過ごした日々が馬鹿みたいで、悔しくなる。話してくれさえしたら、最初からうまくいったかもしれないというのに。

「悪かった。隠してたわけじゃない」
「でもあの子はあなたを父親みたいに頼りにしているんでしょう。知らん顔するなんて人の道に反します」
「セツさんにもう関わるなと言われたんだ。うろつかれると噂になって新しい旦那もできないと。凛子の耳に入るとは思わなかったんだ」

 それでもどうしてもすぐには許せないし、長いこと苦しんだ自分が馬鹿みたいで、怒りは収まらない。

「私にだけ話してくださればよかったのに」
「ずっと俺のことを怖がってただろう。借金にかこつけて無理やり結婚したようなものだからな。当然といえば当然だが。ろくに目も合わせてくれなかった」
「だって信用できなかったんですもの」
「全部俺の責任だ」
「あの女性が好きな気持ちがあるから、言えなかったのではないのですか?」

 一番聞きたかったことを訊くと、相楽が驚いた顔をする。

「私との結婚は、お父様と縁を繋ぎたいからだと──」
「凛子……馬鹿なことを。悪い癖だ。なんでも悪いように考えて」

 強く抱きすくめられると、ようやく安心できた。
 今まで言いたくて言えなかったことを全て言葉にすると、胸のつかえが取れた。

「もう秘密はないですか」
「いや……あるな」
「えっ」

 まだなにかあると言われ、再び不安になる。

「おいで。ちゃんと話すよ」

 長椅子の上に腰かけると、凛子を呼び膝の上に乗せる。
 耳元でそっと囁く。

「猫にばかり夢中なのが気に入らない。昔の恋人の手紙を後生大切に持っているのも」
「そんなこと」

 手紙は、相楽のいない間にお寺でお焚き上げしてもらったばかりだった。

「ちゃんと、俺と向き合え」

 顎に手をやれ、有無を言わさぬ様子で圧をかけられては頷くしかない。

「不安にさせて悪かった。信頼されない俺が悪い。これからは頑張るから」

 そのまま唇を重ねられる。

「悪かった。もう心配させない。なにかあったらちゃんと言うんだ」
「はい」
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