大正浪漫 斜陽のくちづけ

七章 暗雲 ※サスペンス展開あり 注意

 ようやく気持ちが通じ合った翌朝。
 甘い情事のあと、幸せな気持ちでまどろんでいると、

「旦那様! 鈴木さんがいらしてます」

 扉を叩く音がして、慌てて体を離すと、

「大変です。横須賀支店が荒らされたと連絡があって」
「なんだって。すぐに行く。凛子、悪い。夜には戻るから」
「はい。どうかお気をつけて」

 仕事のことには、口を挟めず、心配な気持ちを押し込めて夫を見送った。





 相楽と鈴木が東京の事務所へひとまず向かうと、別の従業員から電話があり、荒らされたというのが嘘だということがわかった。

「しかし暇ですねぇ。こんなことをするなら、自分の仕事すりゃぁいいのに」

 鈴木が会社に届いたビラを持ってきた。
 近頃、身辺で妙なことが多い。関係各所にひっきりなしに送られているらしい怪文書。

「しかし面倒だな……こうもしつこいと」
「うちが不当に物品を買い占めて、物価を吊り上げている」という噂が出回っているらしい。
 証拠はないが、おそらく市村が関わっているだろうことは想像に難くなかった。
 それを信じた者たちが嫌がらせに一役買っているらしい。

「似たような噂で焼き討ちされたり、打ち壊されたりした商店もあるらしいんで、気をつけたほうがいいとは思いますね」
「あぁ……念のため警備を増やす」

 近頃の物価の高騰で貧富の差は広がるばかり。不満や鬱屈が社会の底に広がりつつある。相楽のような人間が富を得たことを気に入らない連中は数多存在する。
 そのせいで治安が悪化していた。

 ある種の人間は、自分と同格もしくは下だと思う人間の成功は許せないらしい。一介の労働者上がりの男が、大金を得たのは汚いことをしているからだという思い込みもあるのだろう。

 実際、若い頃は金のためならなんでもやったし、それを恥じることはない。
 そういった雑音にいちいち心をかき乱されていては、とてもじゃないがやっていけない。
 だが、実害があるとなると話は別だ。凛子にまで近づいてきたのは、許しがたい。

「市村さん、社長のことが好きでたまらないんでしょうねぇ。この執着は恋ですよ」
「気持ちの悪いことを言うな。もう探偵を雇って奴の行動は監視してる。これ以上なにかすれば、どんな手を使っても潰す」

 これ以上なく本気でそう思っていた。報告によれば、最近市村は最近満州にいる人間との繋がりを深めているらしい。
 そのうち大陸に拠点を移すもりなのかもしれない。

 かつては同志として、一緒に働いた仲だったが、先に結果を出したのは市村のほうだった。

 その頃、ちょうど一人で勝負したいと思う気持ちが強まり、一人で会社を興したが、最初はうまくいかないことのほうが多かった。
 それなりに失敗を繰り返し、ようやく時流の流れにうまく乗った頃、今度は市村が事業に失敗した。

 昔のよしみで何度か仕事を回したが、それでも巻き返すことはできなかったようだ。
 市村はやがて密輸に手を出した。そのことを知ってからは、一切の取引を停止した。

 生ぬるい正義感からではない。
 恨まれるのは覚悟のうえで、すっぱり切ったが、いまだになにかと理由をつけて商売に誘ってくる。一度は幸運で上りつめてたとしも、目先の利益に目がくらむ人間には遅かれ早かれ破滅がやってくるものだ。

 幾度もそういう人間は目にしてきた。
 凛子には見せずにいる市村が持ってきた書類。
 そこに書いてあったいくつかのおぞましい事実。知れば、衝撃を受けるのは想像に難くない。

 本人の目に触れなくてよかったと心底思う。
 ──全くもって世の中は不条理だ。純真な人間ほど自分を責める。
 無用な心配をさせたくないのもあるが、凛子にはもう過去を思い出してほしくない。

 考えていると、事務所の扉を叩く音がした。
 市村の動向を探るために雇っていた探偵だった。

「相楽さん、大変ですよ。市村の奴が指名手配されたそうです。詐欺だとか」
「なんだって」
「うちのほうでも昨日までの居所はつかめていたんですが」
「嘘の連絡といい嫌な予感がするな……。今すぐ帰ることにする」

 普段から倫理観などない人間が、追いつめられたらどうするか。
 相楽は凛子のいる家へ急いだ。
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