大正浪漫 斜陽のくちづけ
 帰り際、車で通りにある時計屋のショウウィンドウにある時計が目に入った。

「モダンで素敵」

 少し前、夫の懐中時計が調子が悪いと言ってたのを思い出す。

「ちょっとお店に寄るから、待っていて。すぐに戻ります」

 運転手に声をかけ、一人で店に入る。間近で見るとやはり洒落ている。外国へ行くことも多いせいか、垢抜けた雰囲気の相楽によく似合いそうだった。
 すぐに買うことを決め、店を出るとちょうど雨が降ってきた。

 時計が濡れないよう、着物の胸元にさっとしまった。
 小走りに大通りで待っている車のほうへと向かうと、

「お嬢さん、手巾を落としましたよ」

 後ろから声をかけられ、振り向いた矢先、脇腹に痛みが走る。お腹を抱えて地面に崩れたところを、男二人に無理やり車に押し込められた。
 その間ほんの十秒ほどで、凛子が逃げたり、助けを呼んだりする暇はなかった。

 後部座席で男二人に挟まれ、そのうちの一人が市村であることに気づき、ようやく拉致されたのだと気づいた。
 車窓の外を見るが、往来は至って平和な様子で、誰も車内の凛子など見ていない。

「助けを求めようなんて、思わないほうがいい」

 凛子の様子に気づいた市村が薄く笑んで言い、凛子の喉元にそっと指で触れた。

「細い首だなぁ。片手だけでどうにかできそうだ。それこそものの数秒で」

 やんわりとした声だが、暗に逆らえば殺すということだ。

「あんたに恨みはないんだけどさ、もう俺ぁ日本にいられなくなっちまってね。大陸に飛ぶ前に、ちょっと金が必要なんだ」

 小さな声でぶつぶつとひとり言のように囁く姿に狂気を感じる。麻薬でも
やっているのかもしれない。

「散々世話してやったのに、あっさり全ての取引を停止しやがった。恩知らずの奴め。あれからだ、なにをしてもうまくいかなくなったのは」

 脇腹に刃物を突きつけられる。

「しっかり言うこと聞けよ」

 穏やかな声で言われ、恐怖がことさら募る。

「恨むんなら馬鹿で人でなしの親父を恨みな」

 支離滅裂な言葉だ。父がなにをしたというのか。

「華族様ってのはいいよなぁ。大して働きもせず優雅に暮らして、困ったことがあれば権力でもみ消して、しょっぴかれることもない。実に不平等だ」

 もみ消すとは一体なんのことか、さっぱりわからないが、この男が狂っているということはわかった。
 舐めるような目線で凛子を見ながら頬を撫でた。全身に鳥肌が立ち、冷たい汗が背筋に落ちるのがわかった。

 どれくらいの間車に乗せられただろうか。薄暗い倉庫のような場所に辿りつくと、扉を開けるや否や突き飛ばされ、思わず膝をついた。
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