大正浪漫 斜陽のくちづけ
二章 強引な求婚
「縁談? 私に?」
一体どうしてこんなことになったのか。
一か月ほどして、突然父から舞踏会の日に会った相楽遼介という男から求婚されたと言われ驚いた。
「ああ見えて、仕事は堅実でね。お前を気に入ったらしく熱心に頼まれた」
父は厳格な人で、それゆえ一度決めたことを覆すことはない。断らなかった時点で、父自身は前向きだということだ。
舞踏会での相楽を思い出す。
あの夜のことは印象的で記憶に新しかったが、もう会うこともないだろうと思っていたからだ。
『籠から出て、自由になれる日も来るやもしれませんよ』
ふいに相楽が舞踏会で何気なく放った言葉が、頭をよぎった。
覇気があるとはああいう人を指すのだろう。身分や生まれが重視される社交界の場で、臆することなく立っていた。
その雰囲気に、世間慣れしていない凛子は吞まれそうになる。
──怖い。
それが凛子の抱いた印象だった。
人畜無害な男性には見えない。どちらかといえば、腹に一物抱えた信用できない人間のように思えた。
九条家は名誉はあれど、華族の体面をかろうじて保てるという程度でその生活に余裕はない。
庶民から見れば十分華やかに見えるその暮らしも、きわどいところで成り立っている。
実際華族と言っても色々で、明治後期になってからは、生活に困窮し身分を返上する家も出始めた。
年号が大正に変わり、世間では庶民にも権利と自由を求める声が増えた。
華族の体面や格式を保つために、庶民からしたら贅沢な暮らしをしてはいても、実際は火の車ということも珍しくはなくなった。
九条家も例外ではない。
父が敢えて相楽の申し出を断らなかったのも、そういった事情も関係しているのではないかと思うと、これからのことが不安になる。
家名を汚した凛子を父は持て余しているのかもしれない。
夜になって姉の聖子の部屋へ行って、縁談のことを相談した。
九つ上の聖子は婿養子を取って、家に残った。長女らしくしっかりした性格で今年五つになる女の子にも恵まれ、家を守っている。
幼くして母を失った凛子にとっては、母代わりのような存在である。
「お父様ともずいぶん話したの。このまま独りでいるのも良くないわ」
「ごめんなさい……私があんな事件さえ起こさなければ」
それもこれも三年前に凛子が巻き込まれた事件が原因だった。
今年で十九になるが、凛子のもとへまともな縁談の話が来たことはない。
少なくとも家柄が釣り合うような男性は、まず凛子と結婚しようとは思わないだろう。
「謝るのはおよしなさい。そんな卑屈になっては駄目よ。昔のことはもう忘れて。こそこそせずにあなたは幸せになっていいのよ」
「でも世間はそうは思いません」
ずっと胸を支配する閉塞感。もう自分の人生は終わったのだという諦念。
だからこそ、凛子に求婚する人などいなかったのだ。おそらくこれからも。
凛子を見て、聖子がふぅとため息をつく。
「どちらにせよ、私もお父様もあなたがふさぎ込んで家にずっといるのは良くないと思っているの」
家名を汚した自分が華やかな暮らしをするわけにもいかず、必然凛子は静かに屋敷で過ごすことになった。
聖子はそんな凛子を気の毒がって、小説やら詩集を差し入れてくれる。
「私、あの方が怖いのです」
「相楽さんが?」
「ええ。なにが怖いっていうわけじゃないけれど、今までああいう方と会ったことがないから」
本来ならいくら財力があったとしても、平民である相楽が華族の令嬢に求婚などありえない。
権威主義者の父が縁談の申し出を受け入れたのも、世間的にはすでに凛子が傷物であるとわかってのことだろう。
父も凛子を持て余しているのだろう。少なくとも凛子には、そう思えた。
「あなたはよその世界を知らないから、怖くて当然よ。どうしても嫌なら私からもお父様にやめるよう頼んであげますから、一度だけお会いしたらどうかしら」
「わかりました。お会いします」
姉の言葉に背中を押される形で、見合いの席が実現することになった。
あの不思議な生命力と自信に満ちた男の顔を思い出す。
しょせん、この先まともな縁談など来ようはずもないのだからという投げやりな気持ちもあった。
一体どうしてこんなことになったのか。
一か月ほどして、突然父から舞踏会の日に会った相楽遼介という男から求婚されたと言われ驚いた。
「ああ見えて、仕事は堅実でね。お前を気に入ったらしく熱心に頼まれた」
父は厳格な人で、それゆえ一度決めたことを覆すことはない。断らなかった時点で、父自身は前向きだということだ。
舞踏会での相楽を思い出す。
あの夜のことは印象的で記憶に新しかったが、もう会うこともないだろうと思っていたからだ。
『籠から出て、自由になれる日も来るやもしれませんよ』
ふいに相楽が舞踏会で何気なく放った言葉が、頭をよぎった。
覇気があるとはああいう人を指すのだろう。身分や生まれが重視される社交界の場で、臆することなく立っていた。
その雰囲気に、世間慣れしていない凛子は吞まれそうになる。
──怖い。
それが凛子の抱いた印象だった。
人畜無害な男性には見えない。どちらかといえば、腹に一物抱えた信用できない人間のように思えた。
九条家は名誉はあれど、華族の体面をかろうじて保てるという程度でその生活に余裕はない。
庶民から見れば十分華やかに見えるその暮らしも、きわどいところで成り立っている。
実際華族と言っても色々で、明治後期になってからは、生活に困窮し身分を返上する家も出始めた。
年号が大正に変わり、世間では庶民にも権利と自由を求める声が増えた。
華族の体面や格式を保つために、庶民からしたら贅沢な暮らしをしてはいても、実際は火の車ということも珍しくはなくなった。
九条家も例外ではない。
父が敢えて相楽の申し出を断らなかったのも、そういった事情も関係しているのではないかと思うと、これからのことが不安になる。
家名を汚した凛子を父は持て余しているのかもしれない。
夜になって姉の聖子の部屋へ行って、縁談のことを相談した。
九つ上の聖子は婿養子を取って、家に残った。長女らしくしっかりした性格で今年五つになる女の子にも恵まれ、家を守っている。
幼くして母を失った凛子にとっては、母代わりのような存在である。
「お父様ともずいぶん話したの。このまま独りでいるのも良くないわ」
「ごめんなさい……私があんな事件さえ起こさなければ」
それもこれも三年前に凛子が巻き込まれた事件が原因だった。
今年で十九になるが、凛子のもとへまともな縁談の話が来たことはない。
少なくとも家柄が釣り合うような男性は、まず凛子と結婚しようとは思わないだろう。
「謝るのはおよしなさい。そんな卑屈になっては駄目よ。昔のことはもう忘れて。こそこそせずにあなたは幸せになっていいのよ」
「でも世間はそうは思いません」
ずっと胸を支配する閉塞感。もう自分の人生は終わったのだという諦念。
だからこそ、凛子に求婚する人などいなかったのだ。おそらくこれからも。
凛子を見て、聖子がふぅとため息をつく。
「どちらにせよ、私もお父様もあなたがふさぎ込んで家にずっといるのは良くないと思っているの」
家名を汚した自分が華やかな暮らしをするわけにもいかず、必然凛子は静かに屋敷で過ごすことになった。
聖子はそんな凛子を気の毒がって、小説やら詩集を差し入れてくれる。
「私、あの方が怖いのです」
「相楽さんが?」
「ええ。なにが怖いっていうわけじゃないけれど、今までああいう方と会ったことがないから」
本来ならいくら財力があったとしても、平民である相楽が華族の令嬢に求婚などありえない。
権威主義者の父が縁談の申し出を受け入れたのも、世間的にはすでに凛子が傷物であるとわかってのことだろう。
父も凛子を持て余しているのだろう。少なくとも凛子には、そう思えた。
「あなたはよその世界を知らないから、怖くて当然よ。どうしても嫌なら私からもお父様にやめるよう頼んであげますから、一度だけお会いしたらどうかしら」
「わかりました。お会いします」
姉の言葉に背中を押される形で、見合いの席が実現することになった。
あの不思議な生命力と自信に満ちた男の顔を思い出す。
しょせん、この先まともな縁談など来ようはずもないのだからという投げやりな気持ちもあった。