大正浪漫 斜陽のくちづけ

八章 陽はまた昇る

「全く……残念でしたね」
「ええ。こんなことになるなんて」

 混乱の中、病院へと搬送される夫とは引き離された。事情聴取を受けたり、再び世間の注目を得ることになってしまった。
 事件後、凛子はしばらく実家へと戻された。

 撃たれた胸には、衝撃で濃い痣ができている。
 あの日、雨が突然降ってきたので濡れないようにと、夫のために買った懐中時計を胸元に忍ばせておいたために命が救われた。

 今自分が生きているのは、偶然に過ぎない。
 相楽は、実際に二か所も撃たれたのだから、幸運だったとはとても思えないが。
 何度か家を出て病院へ向かおうとしたが、使用人たちに力づくで止められた。姉の指示らしい。下駄も財布も取り上げられ、再び鳥籠の鳥となった。
 絶望的な気持ちでいると、窓を叩く音がした。
 カーテンを開くと、外に鈴木が立っていた。

「凛子さん、社長が危ないので来てください」

 その言葉に心臓が止まりそうになる。

「遼介さんが」
「ええ。傷口から菌が入ったとかで、高熱が下がらないんです。医者もお手上げだとかで。玄関からは入ったけど門前払いで、こっから失礼します。通りで待ってます」
「すぐに行くわ」

 すぐに姉のもとへ向かう。

「遼介さんが危ないの。帰らせてください」
「もう少し世間の騒ぎが収まるまで、お見舞いは我慢して。お父様の仕事にも影響があるのに、このまま帰すわけにはいきません」

 誰にどう思われても構わない。この目で触れて無事なことを確認したかった。

「私……帰ります」
「あなたは時々聞き分けが悪くなるのね。お父様も私も反省しているの。やはりあの方へ嫁がせるべきじゃなかったと。悪い人間と付き合いがあるから、こんな事件に巻き込まれてしまったんだわ」

 市村が言っていたことを思い出す。
 真一郎は父の子で、凛子の異母兄弟だと。
 本当なのだろうか。もしそうなら姉は知っているのだろうか。
 慕っていた聖子に対しても不信感が募る。

「遼介さんは悪くありません」

 単なる逆恨みであるなら、彼に責任はない。

「悪い人間との付き合いがあったから、あなたを危険な目に合わせたのよ」
「そう……ならばお父様も同罪です」

 姉の目の色が変わった。

「どういうこと?」
「あの犯人の男、真一郎さんはお父様の子で私たちの異母兄弟だと言っていたの。お姉様はご存じだったんでしょう」

 長い沈黙。
 姉が真一郎に向けていた冷たい目。その理由。事実だとすると、腑に落ちることが多すぎた。

「私、わからなかった。どうして真ちゃんが変わってしまったのか。なにが彼を絶望させたのか。実の父親にあんなふうに扱われて、やりきれなかったんでしょう」

 凛子が抱えてきた苦悩の原因は、他でもない父が撒いた種だった。その衝撃をまだ受け止めきれずにいる。

「どうして私に教えてくれなかったんです」
「あなたはまだ幼かったし、大人の事情を知るには早すぎたのよ」

 十歳離れた姉は、母の代わりに家を支えていた。同じ娘でも凛子とは立場が違う。

「あなたと一緒になりたいと言われた時に、真一郎さんには事実を話したの。身体の弱かったお母様があなたを生んですぐに亡くなってしまったのも、真一郎さんを生んだ人がお母様を追いつめたからよ。その人は、ある日真一郎さんをうちの前に置き去りにしたの。うちへの復讐心もあったのでしょうね」
「どうして真一郎さんを息子だと認めなかったんですか」

 妾腹などさして珍しいことではない。

「ゆくゆくは、私が婿養子を取って家を継ぐはずだったから。それに卑しい生まれの人間にこの家の権利を主張されては困るでしょう」

 普段は出すことのない聖子の差別意識に反発する気持ちが芽生える。それでいて、援助ができる裕福な相楽との結婚は許したことにも矛盾を感じる。
 結局家の利益になるかならないか。それだけなのかもしれない。

 薄々わかってはいたが、正面からその事実と向き合うのは、それなりにきつい事実だった。
 自分が信じていた世界が嘘で塗り固められていたことに気づく。

「人を卑しくするのはのは生まれもった立場ではなく、その行動です。本当に卑しいのはお父様だわ!」

 なんて身勝手なのか。優しかった父の、そして姉の残酷な一面を知ると同時に、なにも知らずいた自分自身への怒りも生まれた。

「真一郎さんも自分の父親が誰かなんて、知らなかったのよ。あなた方にも早めに教えておけば、あんな過ちは犯さずに済んだかもしれないわね」

 自分の出自を知り、どれだけの衝撃を受けただろうか。

「あなたを諦めないなら、学費の援助も打ち切って、今まで面倒を見た分のお金も返済なさいと私が話したの。全てあなたのためだったのよ」
「私のため?」

 家のため、自分のための間違いだろう。
 真綿で覆い隠した恐ろしい事実。平然と語る姉が、今までとは別人のように思われて、怖くなる。

「そうよ。まさかあんな大事になるとは誰も思わなかった。馬鹿な人。分不相応な夢なんか見なければ絶望することもなかったのに。黙って身を引けば、誰も傷つかずに済んだのに」

 ──これ以上聞いていられない。

「私、帰ります。お姉様。私、これ以上自分を殺して生きることはできませ
ん」

 もうここへは戻らないだろう。誰にも、もうなにも奪われたくない。
 大切なものは自分で選び、自分で守りたい。
 父を恨む気力も今はない。ただ自分の帰る場所は、もうここではなく夫の待つ家だ。
 自分にとって、なにが大切か。もう迷うことはない。
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