大正浪漫 斜陽のくちづけ
喉がひどく渇いていた。ずっと高熱が下がらない。全身が軋むように痛む。
枕元で、もう駄目かもしれないと医師が話し合う声が聞こえた。
悪運だけは強いと自負していたが、もはやこれまでかとうっすらとした意識の下で思う。
繰り返しひどい夢を見た。父親に捨てられ、母と二人厳しい貧しさの中、ぎりぎり生きていた頃の夢。ひどい現実から逃れるため、大海へ向かう船ばかり見ていたあの頃。
盗みも暴力も厭わなかった。
寒さや飢えばかりの惨めな思い出だけが残る少年時代。
父が逝き、母も逝った。自分もあちらへ行くのか。ふと凛子の顔がよぎる。
屈託のない柔らかな笑みをもう一度見たかった。
自分などいなくても、変わらず生きていけるのだろうか。
泣いたり、我慢したりしている顔をたくさん見たような気がする。幸せにしてやりたかっただけなのに、ひどい目に遭わせてしまった。無事だろうか。
ふと人の気配がして目が覚めた。
実家に戻ったはずの凛子が寝台の脇に座り、こちらに突っ伏したまま眠っていた。
──こっちが現実か。
久しぶりに見る顔に、先ほどまでの苦い思いは消え失せた。
入院して二週間経ったことを思い出す。
市村に肩を撃たれ、掌は弾丸が貫通して穴が開いた。完治は難しいと医者に言われたが、そんなことはどうでもよかった。
事件のあと、相楽は入院し、凛子は実家に半ば強引に連れて行かれた。
どうして一人でここに来たのか。
身分違いの結婚で注目が集まったところに、九条家の過去の醜聞まで蒸し返されて、世間は大騒ぎになった。
市村という人間につけこまれ、凛子を巻き込んだ責任は感じている。
最悪離縁を申し出られてもおかしくはない状況だった。
疲れの滲んだ頬を撫でていると、凛子も目を覚ました。
「痛みは……? すごい熱です」
痛々しいほど心配そうな顔をする。事件以来会うのは初めてだった。
「ああ。あいにく身体だけは頑丈でな。目も覚めたことだし、未亡人にはさせないと思う。離縁はされるかもしれないが。凛子の怪我は?」
「あなたに買った懐中時計が守ってくれたんです」
そう言って、弾丸で変形した懐中時計を取り出して見せた。
急に雨が降ったせいで胸元に忍ばせておいた時計が、命を守ってくれたのだという。
「あなたのほうが心配です」
「俺は大丈夫だ。凛子が無事ならそれでいい。偶然に感謝するよ」
市村は逮捕され、おそらく一生を牢で過ごすことになるだろう。他にも従業員を暴行し死に至らしめたことがあったのが事件後発覚した。
「本当? でも無理なさらないで」
「恨まれるのには慣れてる。でもあなたを巻き込んだことは、死ぬほど後悔している。離縁を申し出られても仕方がない」
「そんなこと露ほども思いません」
「しばらく家でできる仕事以外は人に任せることにする。ここに来ていいのか?」
強引に連れ帰られた凛子は、もう戻ってこない可能性も寝台の上で何度か考えた。
「私は、私の意思でここに来ました。縁を切られても構いません」
見たことがない迷いのない強い瞳。この短期間になにかが彼女の中で変わったらしい。
「もう誰の目も気にしません。あなたさえ無事ならそれでいいの」
なにか眩しいものでも見るように、相楽は目を細めて妻を見た。
「前に話してくれたでしょう。自分には美しい子供時代なんてなかったって。子供時代に戻ることはできないけれど、これからは私がいます。美しい思い出だって作れます」
真摯に語る姿に胸打たれる。
こんなふうに必死に語りかけてくることは、今までにはなかった。ようやく心と心が通じたような気がした。
「美しい思い出か……育ちを恥じたことも後悔したこともないが、もし自分に子ができたら、きれいなものをうんと見せて、安心できる居場所を与えてやりたいと思っていたよ」
「これからきっと叶います」
「それは楽しみだな」
「あなたは少し子供っぽいところがあるから。きっと人より余計に楽しめるわ」
「ははっ! 言うようになったな。そうだ。男はいつまでも経ってもガキだから、守るべきものがないと成長できない」
笑うと傷口が痛む。怪我していないほうの手で凛子の頬に触れる。
「守られるだけでは嫌です。もう守ってもらったから、これからは私も家やあなたを守ります」
「俺のお姫様は頼もしいな。苦労して手に入れた甲斐があったよ。三年越しの片思いが実った」
そう言うと、驚いた顔をする。
「三年?」
「あぁ。凛子は覚えていないだろうが、前に邸で会ったことがある。よく晴れた春の日だった。ぶつかったお詫びにと、桜の枝をくれた。あの笑顔がまぶしくて、こんなところまで連れ去ってしまったのかもしれない」
凛子は記憶の糸を手繰るように視線を彷徨わせ、
「そういえば……そんなことがあったかもしれません」
「あのあと、色々あって失われてしまったものを少しでも取り戻せたらいい。それをずっと願ってた」
「ええ。きっと取り戻せます。あなたとなら」
そう言って微笑む顔に、かつてあった翳りはもうない。
過去の傷を乗り越え、本来の快活さや、明るさが戻ってきたのかもしれない。
「頼みたいことがあるんだ」
「なんでもどうぞ」
「痛み止めのせいで、眠たいんだ。起きるまで帰らないでここにいてくれ。そうしたらいい夢が見られそうだ」
まだ話していないことがたくさんある。起きたら何から話そうか。
「もちろんいます」
そう言って凛子は淡く甘く微笑みと、手をぎゅっと手を重ねた。その笑顔を見ていると安心したのか眠気が再び押し寄せてきた。今度は悪い夢は見なかった。
枕元で、もう駄目かもしれないと医師が話し合う声が聞こえた。
悪運だけは強いと自負していたが、もはやこれまでかとうっすらとした意識の下で思う。
繰り返しひどい夢を見た。父親に捨てられ、母と二人厳しい貧しさの中、ぎりぎり生きていた頃の夢。ひどい現実から逃れるため、大海へ向かう船ばかり見ていたあの頃。
盗みも暴力も厭わなかった。
寒さや飢えばかりの惨めな思い出だけが残る少年時代。
父が逝き、母も逝った。自分もあちらへ行くのか。ふと凛子の顔がよぎる。
屈託のない柔らかな笑みをもう一度見たかった。
自分などいなくても、変わらず生きていけるのだろうか。
泣いたり、我慢したりしている顔をたくさん見たような気がする。幸せにしてやりたかっただけなのに、ひどい目に遭わせてしまった。無事だろうか。
ふと人の気配がして目が覚めた。
実家に戻ったはずの凛子が寝台の脇に座り、こちらに突っ伏したまま眠っていた。
──こっちが現実か。
久しぶりに見る顔に、先ほどまでの苦い思いは消え失せた。
入院して二週間経ったことを思い出す。
市村に肩を撃たれ、掌は弾丸が貫通して穴が開いた。完治は難しいと医者に言われたが、そんなことはどうでもよかった。
事件のあと、相楽は入院し、凛子は実家に半ば強引に連れて行かれた。
どうして一人でここに来たのか。
身分違いの結婚で注目が集まったところに、九条家の過去の醜聞まで蒸し返されて、世間は大騒ぎになった。
市村という人間につけこまれ、凛子を巻き込んだ責任は感じている。
最悪離縁を申し出られてもおかしくはない状況だった。
疲れの滲んだ頬を撫でていると、凛子も目を覚ました。
「痛みは……? すごい熱です」
痛々しいほど心配そうな顔をする。事件以来会うのは初めてだった。
「ああ。あいにく身体だけは頑丈でな。目も覚めたことだし、未亡人にはさせないと思う。離縁はされるかもしれないが。凛子の怪我は?」
「あなたに買った懐中時計が守ってくれたんです」
そう言って、弾丸で変形した懐中時計を取り出して見せた。
急に雨が降ったせいで胸元に忍ばせておいた時計が、命を守ってくれたのだという。
「あなたのほうが心配です」
「俺は大丈夫だ。凛子が無事ならそれでいい。偶然に感謝するよ」
市村は逮捕され、おそらく一生を牢で過ごすことになるだろう。他にも従業員を暴行し死に至らしめたことがあったのが事件後発覚した。
「本当? でも無理なさらないで」
「恨まれるのには慣れてる。でもあなたを巻き込んだことは、死ぬほど後悔している。離縁を申し出られても仕方がない」
「そんなこと露ほども思いません」
「しばらく家でできる仕事以外は人に任せることにする。ここに来ていいのか?」
強引に連れ帰られた凛子は、もう戻ってこない可能性も寝台の上で何度か考えた。
「私は、私の意思でここに来ました。縁を切られても構いません」
見たことがない迷いのない強い瞳。この短期間になにかが彼女の中で変わったらしい。
「もう誰の目も気にしません。あなたさえ無事ならそれでいいの」
なにか眩しいものでも見るように、相楽は目を細めて妻を見た。
「前に話してくれたでしょう。自分には美しい子供時代なんてなかったって。子供時代に戻ることはできないけれど、これからは私がいます。美しい思い出だって作れます」
真摯に語る姿に胸打たれる。
こんなふうに必死に語りかけてくることは、今までにはなかった。ようやく心と心が通じたような気がした。
「美しい思い出か……育ちを恥じたことも後悔したこともないが、もし自分に子ができたら、きれいなものをうんと見せて、安心できる居場所を与えてやりたいと思っていたよ」
「これからきっと叶います」
「それは楽しみだな」
「あなたは少し子供っぽいところがあるから。きっと人より余計に楽しめるわ」
「ははっ! 言うようになったな。そうだ。男はいつまでも経ってもガキだから、守るべきものがないと成長できない」
笑うと傷口が痛む。怪我していないほうの手で凛子の頬に触れる。
「守られるだけでは嫌です。もう守ってもらったから、これからは私も家やあなたを守ります」
「俺のお姫様は頼もしいな。苦労して手に入れた甲斐があったよ。三年越しの片思いが実った」
そう言うと、驚いた顔をする。
「三年?」
「あぁ。凛子は覚えていないだろうが、前に邸で会ったことがある。よく晴れた春の日だった。ぶつかったお詫びにと、桜の枝をくれた。あの笑顔がまぶしくて、こんなところまで連れ去ってしまったのかもしれない」
凛子は記憶の糸を手繰るように視線を彷徨わせ、
「そういえば……そんなことがあったかもしれません」
「あのあと、色々あって失われてしまったものを少しでも取り戻せたらいい。それをずっと願ってた」
「ええ。きっと取り戻せます。あなたとなら」
そう言って微笑む顔に、かつてあった翳りはもうない。
過去の傷を乗り越え、本来の快活さや、明るさが戻ってきたのかもしれない。
「頼みたいことがあるんだ」
「なんでもどうぞ」
「痛み止めのせいで、眠たいんだ。起きるまで帰らないでここにいてくれ。そうしたらいい夢が見られそうだ」
まだ話していないことがたくさんある。起きたら何から話そうか。
「もちろんいます」
そう言って凛子は淡く甘く微笑みと、手をぎゅっと手を重ねた。その笑顔を見ていると安心したのか眠気が再び押し寄せてきた。今度は悪い夢は見なかった。