大正浪漫 斜陽のくちづけ
 すぐに見合いの日取りは決まった。姉に付き添われ、車で銀座の料亭へと着くとすでに相楽は待っていた。

「会って頂けると聞き、天にも昇る気持ちでした」
「いくらなんでも言い過ぎです」

 大げさなことを言う人だ。こういう言葉で女の機嫌が取れると思っているのかもしれない。
 ──どうして私に?

 その疑問がまだ頭から抜けない。相楽とは一度舞踏会で会っただけだ。
 凛子を気に入ったという言葉を文字通り受け取ることはできなかった。
 本心が読めない。微笑んではいても、目の奥の強い光が男が野心家であることを物語っていた。

「大分前にお屋敷でお会いしたことがあるんですが、覚えていないでしょうね」
「え? ご、ごめんなさい。私、人の顔を覚えるのが苦手で」

 父の客人はひっきりなしに訪れるから、一度来たくらいではすぐに忘れてしまう。
 射抜くような目で見られ、居心地が悪くなる。

 日本人には珍しいがっしりとした体格なうえに顔つきに険があるから、どうしても威圧感を感じてしまう。
 同時に、舞踏会の時にも感じた得体の知れないものへの好奇心も湧いてくる。
 

 父はこの件に関してなにも言わなかった。だからこそ無言の圧力も感じる。
 凛子にはもう良家からの縁談は来ないとわかっているのだろう。
 維新で四民平等が謳われてから五十年近く経ったが、現実には歴然とした身分差は存在する。

 特に特権意識が強く閉鎖的な華族社会では、露骨に平民を見下すものも多い。
 もし相応の身分でない者が求婚してきたら普通は、門前払いとなる。

「凛子さんはあまり外へ出ないと聞きましたが、お嫌ではありませんでしたか」
「父が大切にしすぎたんですわ。私と違って妹は内気で」

 あまり触れられたくない話題に、姉の聖子が助け船を出してくれた。
 内気な凛子とは違い、聖子は社交的な性格で肝も据わっている。
 少しずつ運ばれてくる懐石料理を食べながら、歓談する。商人というだけあって、巧みな話術でもって、堅物の聖子までも声を上げて笑わせていた。

 ここに来る前に、少し彼の話は聞いた。
 貧しい家から汽船会社に就職し、その後独し、造船会社を設立。
 世界大戦を機に、舟の需要が高まった時に同業者を買収し、一気に巨額の利益を生み出し、その名を世に知らしめたという。

 その後は貿易に力を入れ、総合商社を立ち上げたらしい。
 聞いただけで自分とはまるで違う世界の人のようで、ため息が出た。
 世の中のことなどまるで知らないが、こういう人と自分がうまくやれるとは到底思えなかった。

 ここに来る前、九条家の娘を娶るのにふさわしいとはいえない男だと、女中たちが噂しているのを聞いた。

『いよいよこの家も危ないかもしれないわね』
『あんな品のない男の求婚を受けるなんて、伯爵家の矜持もどこへやら。家名目当てに近寄ってきた相手と結婚させるなんて、以前では考えられない落ちぶれようね。台所事情、かなり厳しいみたいよ』
『お嬢様もあんな事件さえ起こさなければ、今頃誰もが羨む良家の男子と結婚できたかもしれないのに』

 いい気味だとでも言いたげな、意地の悪い笑い声まで聞いてしまった。

『でもさ。相手の男も金だけはたんまりあるって言うんだから、羨ましいわ』
『ほんとよねぇ。心中の生き残りだってのに、華族の娘ってだけで金持ちに嫁げるなんて世の中不公平だわ』

 ──心中の生き残り。
 最後の言葉が耳に突き刺さる。
 こういう人の悪意を間近に感じることも幼い頃はなかった。
 この求婚にもそれなりの理由があるのだろう。おそらく愛だとか恋だとか美しい理由以外の。

 経済的に困窮した華族の娘と成金の結婚。
 なるほど、そう言われてみれば互いに利のある話だ。
 絵巻や掛け軸といった先祖代々の宝物を少しずつ売り、なんとか凌いでいる華族も少なくない。経済力をつけた実業家がそれらを買い取るのだという。

 歴史ある宝物を手にすることで己の権力を示すことができるからだ。
 相楽が凛子に縁談を申し込んだのも、似たようなものなのかもしれない。
 経済的に成功した証として、華族の娘を手に入れたいと思っても不思議はない。

 貴族院に所属する父との繋がりが欲しいのだろう。
 口数の少ない凛子に変わって、聖子は上機嫌で歓談を続けていた。
 ──お姉様がこういう男性を気に入るとは思わなかった。

 どちらかというと聖子は保守的な性格で、相楽のような破天荒な人間とは合わないと思っていた。 
 家族にはこれまで心配と心労をかけてきた。家のためになるなら、誰であれ嫁ぐべきなのだろう。

 仕事の話なども面白おかしく聞かせてくれたが、凛子の興味は別にあった。
 聖子が席を立った隙に、思い切って聞いてみる。

「私みたいな貧しい華族の娘と結婚しても、あなたに利益があるとは思えません」

 話が進む前に、この人から断ってくれたらいい。そう思っていた。

「ははっ。あんなお屋敷に住んで、食べるに困らないのを貧乏だなんて、やはり平民とは感覚が違うな。だが必要とあらば、俺にはあなたのお父上の助けとなることができる。あなた次第だ」

 これほど歯に衣着せぬ物言いを直接ぶつけられた経験はない。けれど、この無礼な男に対して不思議と腹は立たなかった。

「どういうことですか」
「あなたはただ頷いて、俺のところへ来ればいい。それだけで全て解決する」
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