大正浪漫 斜陽のくちづけ
 結婚さえすれば、父に援助するということだ。
 色恋に夢見ることがなくても、そんなことを言われると身売りを迫られているようで、虚しい気持ちになる。

「お金の話をすれば、私が言いなりになると思っているのですか」

 不躾な男の発言に煽られるように、凛子も礼儀をわきまえない質問をした。

「では、はっきり言おう。あなたの家はこのままではいずれ立ちゆかなくなる。金がなくてもなんとかなると? それは本当に困ったことがない人間の台詞だな。泥水をすすって生きてる人間にそれが言えるか? あなた方の言う貧しさとはわけが違う」

 表情は柔らかいが、言葉は辛らつだ。
 ぐっと言葉に詰まる。詭弁だとわかっても、世間知らずの凛子がなにを言っても説得力などない。

「でも……あなたは自分の利益になる女性なら誰でもいいのですか」

 父にも姉にも言えない本音がこぼれる。
 この人は、きっと本当に人を好きになったことなどないのかもしれない。
 言っていることに一理あるとしても、あまりに俗っぽい価値観についていけない。人として大切ななにかが欠けているような気すらする。

「とんでもない。あなただからですよ」
「私の噂をご存じないのですか?」
「噂?」

 空々しく聞き返す相楽に、凛子は笑んだ。
 おそらくだが、こうして求婚する以上、凛子のことは多少なりとも調べているはずだ。父とも浅からぬ仲のようだし、知らないはずはない。

「九条伯爵のお嬢様が美しいという噂なら、何度か耳にしましたがね」
「茶化さないでください。そうじゃくて、その……家にとってとても不名誉なことです」
「穏やかじゃないな」
「ええ。私、心中の生き残りなのです。だから知らないで求婚したのなら、気の毒に思いましたの」

 凛子は自分の過去を世間で噂されるとおりに伝えた。
 敢えて真実を濁したのは、相楽を試したかったからかもしれない。
 いずれ知られることだ。今のうちに言ってしまおう。後出しにしても互いに不幸になるだけだ。
 凛子は相楽の反応を窺った。
 迷うことなどなさそうな強い瞳が、こちらを瞬きもせず見つめていた。
 しんとした部屋で二人の視線が絡む。

「存じておりますよ。実際目にしたわけではありませんから、どこまで真実かは知らないし、知ろうとも思いません。過去になにがあろうと構わない。大切なのは未来でしょう?」

 自分にとっては、致死的ですらあった過去をなんとも思っていないという態度に驚いた。
 求婚した相手の過去に頓着しないのは、単なる無関心とも取れる。
 その清々しいまでの潔い態度に、意地の悪い気持ちでいた凛子は毒気を抜かれた。

「私は社交界の笑い者なのよ」

 世間では死んだも同然、いや実際に死んだほうがましかもしれなかった。この先、誰かから愛されたり、幸せになったりすることなど、ありはしないとわかっている。

「そんな卑屈なことは言わないで貰いたい。他人がどう思おうと、俺は自分が価値があると思えばそれを信じる。心中だって? 生きていてよかったくらいは思うが、だからってそれがあなたを諦める理由になぞならない」
「あなたほど財力があれば私でなくても、女性は選べるでしょう」
「俺はあなたがいいんですよ。凛子さん。掛け値なしのあなたが」

 言葉通り受け取ることはできなかった。
 ここ数年で人の悪意を受けてきたせいか、無意識に言葉や表に出る態度といったものと、本心の間の乖離に敏感になってしまった。

「私のことなどなにも知らないでしょう」

 どこまで本心か、まったくわからない。

「だから知りたいと思うのはおかしなことですか? それとも相手が俺では釣り合わないと?」

 凛子の不審を読み取ったように相楽が続けた。

「釣り合わないなんて……私誰とも結婚はしないと思っていたから、こんな話があって驚いています」

 話してみて、こういう類の男が噂や醜聞を気にしないのは当然のことに思えてきた。
 気にするのはおそらく実利だけ。
 割り切って生きることができるからこそ、成功できたのだろう。
 あまりよくないことに、この得体の知れない不遜な男に興味が湧いてしまった。恋などという浮ついたものではない。

 ただ知らないものを知りたいと思う好奇心かもしれなかった。危ないものには近寄ってはいけない。それは知っている。
 なにもかもが自分とは違う。だからこそ多少の興味も湧いた。

「私と結婚したらあなたも悪く言われるわ」
「それがなんだと? 俺は今まで欲しいものは必ず手に入れてきた。誰がなんと言おうと。これからもそうする。話したくない過去をわざわざ話すというあなたの誠意は受け取りました。けれど俺の気持ちは変わりません。これでよろしいか?」

 ──なんて人だろう。価値観も倫理観もまるで違う。
 自分という軸を決して曲げない生き方に、未知の生物でも見ている気分になった。

 いつも人からどう見られるかを一番に考えるよう教育されてきた凛子は、呆れると同時に、その潔さが羨ましく思えた。
 生まれ育った環境もあるが、おそらくそれだけではあるまい。
 姉が戻ってくると、相楽はなにも聞かなかったかのように談笑を続けた。
 
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