禁断×契約×偽装×策略
「これで俺が、雪乃を宇條家の跡継ぎとして守る決意をしていると伝わったかもな」
 廊下を歩きながら貴哉が言うが、その口調には怒りが感じられる。
「跡継ぎ? 跡継ぎはあなたでしょ?」
「今は」
「今はって」
「父さんに就職先の相談をするつもりだったんじゃないのか?」
「それは……」
「宇條グループに就職することは決定的だろう。それが総帥の座だって同じだ」
「なにを言ってるの?」

 貴哉はニヤリと微笑む。

「貴哉さん」

 貴哉は返事をせず、早足で進む。雪乃の部屋ではなく貴哉自身の部屋の扉を開けた。ベッドまで進むと雪乃は抱き上げられて放り投げられる。貴哉が覆いかぶさってきた。

「待って、ちょっと!」

 上野のホテルでさんざんやったというのに、また? と焦ると、貴哉はくつくつと笑って身を返し、ヘッドボードに凭れた。

 互いに互いをじっと見つめ合う。

「あの女の実家は佐上家といって華族の流れを汲んでいる。政財界に人脈があって、裏では絶大な力を持っているんだ」
「あの女って、貴哉さんのお母さんなのよ?」
「あんなゲスは、あの女呼ばわりでいいんだ」
「…………」

 あまりの言い方に言葉を失う雪乃を見て、また笑った。だが目は鋭い。よほど嫌っているのだろう。なにもかもが雪乃の想像を超えていて、もう考えても無意味に思えてくる。雪乃は、ほぅ、っと息を吐き、貴哉の横に並んでヘッドボードに凭れた。

「奥様の実家が華族の流れを汲んでいる家柄であることはご本人から聞いたわ。お父さんとは昔風に言うと政略結婚だったって」

「そうだ。佐上家は特に政界に強いコネクションがある。だが、政治家を動かすには金が要る。戦後のどさくさに紛れて何人もの政治家を買収しようとしたが、やりすぎた。それをもみ消すために大金を使ったんだ。だから佐上家の懐具合は良くない。だが、誰しも一度手にして味わった名声や権力は、なかなか手放せないもんだ。そこで目をつけたのが宇條グループだった。娘を嫁がせて宇條を手中に収めようと画策した。その時の宇條グループは海外展開真っ最中で、各国での上流階級のコネクションを求めていた。だから祖父さんたちの利害が一致して縁談が決まったが、蓋を開けたら佐上家との攻防だったってわけだ。有力政治家との癒着はなかなか侮れなくて、祖父さんも父さんも苦労のしっぱなしってわけだ」

「そんな家柄の人なら、私なんて憎くて仕方がないでしょうね」
「まぁな」

 貴哉は両手を頭の後ろにやって天井に顔を向けた。

「父さんは迷ってる。どの方法が最善か。その結論が出るまでお前に本当のこと言うことができない。奴らはこの宇條グループを乗っ取ろうとしている。それを阻止しないといけない。雪乃。俺に協力してくれ」
「わからないわ。貴哉さんにとっては母方の親戚じゃない。乗っ取るかとか乗っ取らないとかないわよ。私と貴哉さんの性別が逆だったらかわるけど」
「お前は佐上家、いや、あの女にとって脅威なんだ。俺はこれから佐上家と戦わないといけない。あの女がどんな陰湿な真似をしても、ここから出て行かず、俺の傍にいるんだ。俺がお前の身を守るから」
「でも……」
「雪乃、お前は宇條実康の娘なんだ。この宇條グループを守る責務がある。俺との、この契約の履行に命を懸ける覚悟で臨んでほしい」
「そんな……大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃない。もう少し待ってくれ。父さんがすべてを決めたら真実を話すから」

(真実?)

 貴哉が身を起こして雪乃をぎゅっと抱きしめた。

「絶対に、なにがあっても守るから」
「――――」

 言葉が詰まって返事ができなかった。だが、待つしかないのだろう。契約やら服従やら言われたが、それは説得の口実で、実際雪乃にはもう貴哉に託すしか道はないのだろう。

 雪乃は小さくうなずいた。

(だけど……)

 不信感が完全に払拭されたのかと問われれば、否と答えるだろう。ほんのわずか、本当にほんのわずか、雪乃はまだ貴哉のことを疑う気持ちがあることを否めなかった。

「私、そろそろ部屋に戻るわ」

 起き上がろうとする雪乃の手首を貴哉が掴んで止めた。

「貴哉さん?」
「明日、掃除をするから今夜はここにいろ」
「でも……」
「ゴキブリが散らばっているんだぞ? いいのか?」

 そう問われてゾッと震える。確かにそうだ。雪乃は自らを掻き抱くようにして左右の腕をさすった。

「今夜は、そうさせもらう」
「ああ」

 貴哉に屈託のない笑みを向けられ、雪乃は湧いてくる安堵と幸福に戸惑うばかりだった。

     ***

 翌日。

 朝から機会を持った数名の男たちが雪乃の部屋に入ってうろうろしている。発信機や盗聴器が隠されていないか調べているのだ。貴哉が立ち会っているので、誰も近づけなかった。終わったら燻蒸式の殺虫剤で部屋に散らばった虫を駆除する。そんな様子をハウスキーパーたちが遠めに窺い、ヒソヒソとなにやら話をしている。

 雪乃は最初こそ貴哉の傍で見ていたものの、ダイニングルームに移動してお茶を淹れてもらっていた。隣にいるのは三人の内の一人である佐久間で、雪乃はリラックスしていた。四十三歳の佐久間は落ち着きがあって、それだけで雪乃に安堵を与える。綾子に年が近いのもあるかもしれない。

「そういえば、お食事のことを聞いていませんでしたね。今更感がありますが、食べられないものとかありますか? 好き嫌いもそうですが、アレルギーとか」
「好き嫌いはないですが、サバを食べたら発疹が出るから食べないようにしています」
「アジやブリはどうです?」
「いえ、それは大丈夫です。サバだけなんで。でも、それも必ずじゃないし」
「そうですか。昔からサバは当たりやすいって言いますものね。安全のためにサバは避けるようにします」
「すみません。ありがとうございます」

 佐久間はにっこりと微笑んでうなずいた。ここのハウスキーパーたちはみな京香の息がかかっているので視線も口調も冷たい。いや、ハウスキーパーたちだけではない。母は日陰の存在だった。そのことに気づいた者たちも冷ややかな態度だった。雪乃は今までの人生で、真に他人から優しく温かく接してもらったことが少なかった。だから佐久間の屈託のない笑顔は心底ほっとするし、嬉しかった。

「好きなものはなんですか? お料理もですが、食材でも、あれば伺いたいです」
「好きなもの……なんでも食べますけど」

 ちょっと考え、それから「あっ」と顔を上げた。

「トマトが好きなんです。生もだけど、火の入ったものも。中にミンチとか詰めて焼くのがありますよね。あれ、とってもおいしいので好きです」
「スタッフドトマトですね。わかりました。トマトなら、ミネストローネとかもお好きです?」
「はい。大好き」

 佐久間は微笑んでうんうんとうなずいた。

「今日はお出かけだと聞いていましたけど、なくなってしまって残念でしたね」
「仕方ないです」
「私、これから買い物に行くんですけど、ご一緒にいかがです?」

 佐久間の言葉に雪乃の顔がぱっと明るくなった。

「いいんですか?」
「ええ、もちろんです。ずっとお屋敷にいるのも退屈でしょうしね。私と一緒なら貴哉様も心配はなさらないでしょうから」

 雪乃はその言葉に貴哉に言われたことを思いだした。

――一人で出歩くこともいけない。外出の際はボディーガードをつけるから必ず申告するように。

(ボディーガードって言われた時、いかつい男性がずっとくっついてくるのかと思ったけど、誰かと一緒にいろという意味だったんだ。それならぜんぜん大丈夫)

 映画やドラマに影響されすぎだと思い、少し気持ちが楽になった。
 昼食は雪乃、貴哉、実康の三人で、京香は外出でいなかった。

「では行ってきます」
「ああ。佐久間さん、雪乃を頼みます」
「かしこまりました」

 雪乃は佐久間とともに屋敷を出た。駐車場にある軽自動車の助手席に乗り込む顔は嬉々としている。うれしさがだだ漏れだ。そんなわかりやすい雪乃を見て佐久間はただ微笑んでいた。

 銀座にある百貨店の駐車場に滑り込み、エレベーターで上階に向かう。最初に入ったのは高級感が漂うカフェだった。

(いきなりお茶? 佐久間さん、喉渇いてるのかな)

 スタッフに席を案内され、腰を下ろす。差し出されたメニューに載っているスイーツはどれもおいしそうだった。

 それぞれケーキと紅茶を選んで、水を飲みながら一息つく。まもなくケーキセットが運ばれてきた。雪乃は生クリームがたっぷりのシャインマスカットのケーキとアッサム、佐久間は和栗モンブランとレディグレイだ。

「うわぁ、おいしそう!」
「ここのケーキは評判ですから。すぐに入れてラッキーでしたね」
「はい」

 フォークで一口分を取り、口に運ぶ。食べた瞬間、濃厚な生クリームが口内いっぱいに広がった。次にマスカットのさわやかな甘さが続く。

「んんんーーーー!」

 舌だけではなく心まで蕩けそうだ。

「おいしいっ」
「よかったです。お母様を亡くされてから辛いこと続きでしたでしょう。みな本当にひどいことをするものです。胸中お察しいたします」
「…………」

「私は社長と専務から雪乃様をお守りするように言われています。私と各務、吉沢の三人は夫人が契約されている派遣会社からのハウスキーパーではありません。宇條グループの親会社である宇條物産に所属しておりまして、秘書室員です」

 佐久間の説明に雪乃は目を見開いた。所属が異なるばかりか、そもそも三人はハウスキーパーではなく秘書という職業の人間だったとは。そして貴哉が三人だけを信じるように言った意味を理解した。

「夫人からすれば許せない存在でしょう。ご実家の家柄もあって誇り高いと申しますか。実際にお美しくていらっしゃるし、社交界でも人気です。男性にもとてもおモテになったと聞いています。そんなご自分が、夫に浮気されているなど許せないのだと思います。社長は大変穏やかな方です。夫人ご自身が優しく接すればよいものを」

「…………」

「すみません、口が過ぎました。専務から事情や起きそうな可能性を聞いておりましたが、実際の様子を見てあまりにひどいので驚きました。社長や専務が心配されるのも無理はありません」

 まっすぐ目を見て話す佐久間の真摯なまなざしを正面から受け止め、雪乃はジンとなった。ひどい人間もいるが、親身になってくれる人間もいる。宇條家の屋敷は理不尽でもう居たくないと昨日は飛び出してしまったけれど、こうやって同情して守ってくれる存在もいるのだ。

「奥様が私を憎まれるのはわかります。夫を奪った女の娘です。認知はしなければいけなくても、自分の伺い知らぬところでひっそり生きていればいいって、浮気をされた妻の立場なら思うはずです。それなのに、よりにもよって、自宅に連れてこられて一緒に住まないといけないなんて……地獄の思いだと、思うんです。でも、それでも、命まで狙うものなのかなって」

「今の世ですよ? 家族であっても、なにか事が起きれば警察に届けます。ありえないと思います」

 確かにその通りだ。であれば、それだけ京香の怒りが大きいのか、揉み消せると自信があるのか。

「ご事情があるようです。この状態がずっと続くわけでもないとのことなので、社長や専務を信じて待っていたら自由になれます。今しばらくの辛抱です」

 雪乃は佐久間の顔を見つめ、それからティーカップに視線を落とした。

 雪乃の身を守るよう言われているなら、全部ではなくとも説明を受けているはずだ。少なくとも自分よりはこの件について知っているのではないか、と思う。

「貴哉さんからいろいろ言われているんですが、不安で、つい。それにお父さんや貴哉さん以外の人と話をすることがないので、その、なんというか、相談というか、疑問ばかり増えて、誰のなにを信じたらいいのかわからなくなって……」

 佐久間が、うんうん、とうなずいている。

「私や各務たちがいますので、なんなりと言ってください。この件だけじゃなく、雑談も。遠慮なく。特に各務は年が近いので話しやすいと思いますしね」
「ありがとうございます」
「今日のお買い物は雪乃様のお好きなものを買うよう言われているんです。今から各階回って、ショッピングをしましょう」
「そうなんですか?」
「はい」

 にっこりと微笑む佐久間に、雪乃の顔もほころんだ。


< 12 / 27 >

この作品をシェア

pagetop