禁断×契約×偽装×策略
第五章 決意
遺書を持つ雪乃の手が震えている。恐怖ではない。怒りだ。
(こんなこと――こんな。ひどすぎる)
どれほどの無念だったことろう。
どれだけ苦しかったことだろう。
一文字一文字、一文一文に、浅見の苦悩が読み取れる。
特に最後の一文。すまない、と実康に向けて書かれた四文字は、その線が歪んでいるのが痛々しい。
どんな思いで書いたのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだ。
遺書を書くために詳細を思いだすこともつらかっただろうに、そう思うと、雪乃は涙が込み上げてくるのを抑えられなかった。
(貴哉さんがあれほどの怒りと憎しみを抱くのも、無理はないわ。実の母親なのに、うぅん、血を分けた実の母親の所業だからこそ許せないんだわ。母親も、その血を受け継ぐ自分も)
遺書を手にしつつ、顔を学習机の上に向ける。フォトフレームの中では母、綾子が幸せそうに笑っている。雪乃は、そういえば、と綾子との会話を思いだした。
――自分の気持ちに素直に突き進むことも大事だし、自分の気持ちを大切して静かに見守ることも大事だし。どんな愛し方が正しいのかなんてわからないけど、雪乃がお母さんの選んだ形が寂しいと思うんだったら、違う形を求めたいい。人間は学んで生きる生き物だから。幸せは本人が感じることだし、他人にはわからないものよ。幸せそうにしているように見えても、大きな苦しみに苛まれているかもしれないし、その逆もあるわ。
実康と綾子がどんな会話を交わし、どんな時間や気持ちを共有していたのかは雪乃にはわからない。ただ、綾子が訪ねてくる実康の苦悩する姿を見、ただ黙って寄り添っていたのだろう。
人は言葉で労ってほしい時もあれば、すぎた言葉よりもただ寄り添っているだけでいい時もある。人にわかってもらえることが、どれほど心癒やされることか。どれほど励まされることか。
脳裏に子どもの頃、実康と母の三人で過ごした穏やかな時間が蘇る。
(お父さんはお母さんが寄り添ってくれることで、癒やされていたんだわ。もしかしたら、お母さんはお父さんを守りたかったのかもしれない。ずっと愛人として一方的に守られているのだと思っていたけど、違ったんだと思う。周囲からどんな目で見られようと、お父さんの心を守ろうとしていたんだ)
そう思うと、次に貴哉の顔が浮かぶ。苦悩する顔は、母への怒りと、実の父への悲しみと、育ての父への愛情が交じり合っているのだ。
右手を胸の前にもってきて、ギュッと握りしめた。
(貴哉さんは二人の父のために戦っているんだわ。私も貴哉さんを支えたい)
そう考えると体の奥底からなにかが込み上げてくるのを感じる。そして雪乃の心をたきつける。
(お母さんの選択は正しいとは思えない。やっぱり人の旦那さんを奪ってはいけないと思う。だけど、だけど、好きな人を支えるだけの強さは立派だったのだと思う。内向きじゃいけない。愛人の娘だからと、内向きになってはいけない。戦わないと。守られているばかりじゃなく、貴哉さんの心を守って、支えたい。一緒に戦いたい。強くならないと)
雪乃は大きく息を吸い込み、腹の底に力を込めた。
京香は三日ほど帰ってこなかった。よほど実康との話が気に入らなかったのだろう。だがおかげで食事の時間は終始和やかだった。
朝食後に貴哉たちを見送り、雪乃は自室でいつものようにサブスクの映画を観ていた。そこにコンコンとノック音が響いた。
「はい」
「雪乃さん、私よ」
立ち上がろうとしかけた体がビクリと震える。
「ちょっとよろしいかしら? 大切なお話があるの」
「…………」
続けて言葉をかけられて慌てて立ち上がり、扉をあけた。
「奥様、お帰りなさいませ」
「仰々しいわね。それにあなたは主人の娘で、この宇條家のファミリーなのよ? そんな召使いみたいな言動はしなくていいわ」
「ですが……」
「まるで本妻が愛人の娘を虐めているみたいじゃないの。やめてちょうだい」
ズバリ言われて息をのみ、雪乃は「すみません」とおとなしく謝った。
「これ、あなたのために用意したのよ」
京香は手に持っている二通の封筒を雪乃に差し出してきた。
「これは?」
「縁談よ」
「縁談?」
「そうよ。あなたは宇條実康の娘ですから、相応しい嫁ぎ先を探して差し上げたのよ」
「…………」
驚く雪乃に京香が首を傾げた。
「なにかおかしいかしら?」
「――――」
「まさか独身のまま、ずっとここにいようとか考えていたのかしら? それはないでしょう? 誰だって結婚して、家庭をもって、幸せになろうとするのですもの。ただ、今も言ったように宇條実康の娘なら、相応しい家柄が求められるのでね。一通は政治家の息子よ。末は大臣かもしれなわね。もう一通はファンド会社の社長をしているの。とっても優秀で、アメリカに留学してMBAを取得しているんですって。素晴らしいでしょ」
雪乃は中を確認することなく、二通の封筒を京香につき返した。
「お心遣いありがとうございます。ですが、私はまだ二十二歳です。まだ早すぎます。それに私、好きな人がいるんです。だから不要です」
「好きな人?」
「はい」
「おつきあいされている人はいなかったわよね?」
「いません。片想いです」
これは嘘だが、今はそう言うしかない。雪乃は堂々とそう言い返した。
「……言っておくけど、貴哉さんとあなたは兄妹よ。それはわかっているわよね?」
「もちろんです。戸籍は違いますが、兄に変わりはありません」
「――――」
「失礼します」
礼儀正しくお辞儀をして雪乃は部屋に戻った。京香が目を釣り上げているのを視界の端で一瞬捉えたが、雪乃は無視した。
(真実を知ったから、もう悩まないし、全体に負けない)
扉一枚向こう側にいる京香に対し、雪乃は決意を新たにした。
一週間が経った。この間に、雪乃は貴哉に宇條家のこと、宇條グループのことを詳しく知りたいと伝えた。言った直後は急がなくていいとか言っていた貴哉だったが、真相を知って雪乃も本気になったと理解したのだろう。すぐに資料をそろえ、渡してくれた。だから雪乃はこの一週間、ずっとそれらの資料を読み込んで学んでいた。
コンコン、と扉をノックする音がする。雪乃は顔を上げた。
「お嬢様、いらっしゃいますでしょうか?」
なんだかずいぶん慌てている口調だ。
「三輪と申します。会社の方から連絡がございまして!」
名前を名乗って声をかけてきたハウスキーパーは初めてだ。しかも会社からの連絡と言う。なにかあったのかと雪乃は立ち上がって部屋の扉をあけた。
「旦那様がお倒れになったとのことです。病院に急いでください」
またそんな嘘を――そう言いそうになって雪乃は踏みとどまった。そう言えば、と思いだす。ここに来た日、実康が錠剤を飲んでいたのを見た。このハウスキーパーは名前も名乗る礼儀正しさもあるし、実康が倒れたというのは本当なのかもしれない。
「どこの病院ですか?」
「かかりつけの大学病院に輸送をお願いしたそうです。玄関で車が待っていますから、それに乗ってください」
「わかりました」
部屋に戻って鞄にスマートフォンや財布などを入れ、急いで取って返して廊下を走る。靴を履いている間に、三輪が玄関扉をあけて待っていてくれている。そして立ち上がって外に出ると、目の前に黒いセダンが止まってた。
「お嬢様」
「ありがとうございます」
三輪が後部座席をあけてくれたので乗り込むと、車はすぐに動きだした。
(あっ)
バックミラーに映っている運転手の目元部分から、運転席にいるのが弁護士の飯塚であることに気づいた。
(どうしてここに? 会社にいるんじゃないの? それともわざわざ迎えにかけつけてくれた?)
いろいろと疑問が湧くが、今はそんなことよりも実康の状況が心配だ。雪乃は車窓に視線を向け、どこの病院に向かっているのだろうかと思った。
しばらく東京の中心を走り、湾岸に出た。そして高級ホテルの車寄せで止まった。
「飯塚先生、ここは病院ではないです。どういうことですか?」
「病院? いえ、私は奥様からこちらへご案内するよう仰せつかりましたが」
「――!」
嵌められたと思っても、もう遅い。飯塚が運転席を下り、後部座席の扉をあける。雪乃は動かず、飯塚を睨みつけた。
「降りません」
「奥様からの指示でございまして」
「なら、なおさら従えません。私はお父さんが倒れて病院に運ばれたと言われたんです。そうでないなら帰ります。出してください」
「お嬢様、おとなしく従っていただきたい。でなければ、宇條グループは斉木様の顔に泥を塗り、大きな貸しを作ることになります」
「斉木?」
「あなた様の見合いの相手ですよ」
(こんなこと――こんな。ひどすぎる)
どれほどの無念だったことろう。
どれだけ苦しかったことだろう。
一文字一文字、一文一文に、浅見の苦悩が読み取れる。
特に最後の一文。すまない、と実康に向けて書かれた四文字は、その線が歪んでいるのが痛々しい。
どんな思いで書いたのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだ。
遺書を書くために詳細を思いだすこともつらかっただろうに、そう思うと、雪乃は涙が込み上げてくるのを抑えられなかった。
(貴哉さんがあれほどの怒りと憎しみを抱くのも、無理はないわ。実の母親なのに、うぅん、血を分けた実の母親の所業だからこそ許せないんだわ。母親も、その血を受け継ぐ自分も)
遺書を手にしつつ、顔を学習机の上に向ける。フォトフレームの中では母、綾子が幸せそうに笑っている。雪乃は、そういえば、と綾子との会話を思いだした。
――自分の気持ちに素直に突き進むことも大事だし、自分の気持ちを大切して静かに見守ることも大事だし。どんな愛し方が正しいのかなんてわからないけど、雪乃がお母さんの選んだ形が寂しいと思うんだったら、違う形を求めたいい。人間は学んで生きる生き物だから。幸せは本人が感じることだし、他人にはわからないものよ。幸せそうにしているように見えても、大きな苦しみに苛まれているかもしれないし、その逆もあるわ。
実康と綾子がどんな会話を交わし、どんな時間や気持ちを共有していたのかは雪乃にはわからない。ただ、綾子が訪ねてくる実康の苦悩する姿を見、ただ黙って寄り添っていたのだろう。
人は言葉で労ってほしい時もあれば、すぎた言葉よりもただ寄り添っているだけでいい時もある。人にわかってもらえることが、どれほど心癒やされることか。どれほど励まされることか。
脳裏に子どもの頃、実康と母の三人で過ごした穏やかな時間が蘇る。
(お父さんはお母さんが寄り添ってくれることで、癒やされていたんだわ。もしかしたら、お母さんはお父さんを守りたかったのかもしれない。ずっと愛人として一方的に守られているのだと思っていたけど、違ったんだと思う。周囲からどんな目で見られようと、お父さんの心を守ろうとしていたんだ)
そう思うと、次に貴哉の顔が浮かぶ。苦悩する顔は、母への怒りと、実の父への悲しみと、育ての父への愛情が交じり合っているのだ。
右手を胸の前にもってきて、ギュッと握りしめた。
(貴哉さんは二人の父のために戦っているんだわ。私も貴哉さんを支えたい)
そう考えると体の奥底からなにかが込み上げてくるのを感じる。そして雪乃の心をたきつける。
(お母さんの選択は正しいとは思えない。やっぱり人の旦那さんを奪ってはいけないと思う。だけど、だけど、好きな人を支えるだけの強さは立派だったのだと思う。内向きじゃいけない。愛人の娘だからと、内向きになってはいけない。戦わないと。守られているばかりじゃなく、貴哉さんの心を守って、支えたい。一緒に戦いたい。強くならないと)
雪乃は大きく息を吸い込み、腹の底に力を込めた。
京香は三日ほど帰ってこなかった。よほど実康との話が気に入らなかったのだろう。だがおかげで食事の時間は終始和やかだった。
朝食後に貴哉たちを見送り、雪乃は自室でいつものようにサブスクの映画を観ていた。そこにコンコンとノック音が響いた。
「はい」
「雪乃さん、私よ」
立ち上がろうとしかけた体がビクリと震える。
「ちょっとよろしいかしら? 大切なお話があるの」
「…………」
続けて言葉をかけられて慌てて立ち上がり、扉をあけた。
「奥様、お帰りなさいませ」
「仰々しいわね。それにあなたは主人の娘で、この宇條家のファミリーなのよ? そんな召使いみたいな言動はしなくていいわ」
「ですが……」
「まるで本妻が愛人の娘を虐めているみたいじゃないの。やめてちょうだい」
ズバリ言われて息をのみ、雪乃は「すみません」とおとなしく謝った。
「これ、あなたのために用意したのよ」
京香は手に持っている二通の封筒を雪乃に差し出してきた。
「これは?」
「縁談よ」
「縁談?」
「そうよ。あなたは宇條実康の娘ですから、相応しい嫁ぎ先を探して差し上げたのよ」
「…………」
驚く雪乃に京香が首を傾げた。
「なにかおかしいかしら?」
「――――」
「まさか独身のまま、ずっとここにいようとか考えていたのかしら? それはないでしょう? 誰だって結婚して、家庭をもって、幸せになろうとするのですもの。ただ、今も言ったように宇條実康の娘なら、相応しい家柄が求められるのでね。一通は政治家の息子よ。末は大臣かもしれなわね。もう一通はファンド会社の社長をしているの。とっても優秀で、アメリカに留学してMBAを取得しているんですって。素晴らしいでしょ」
雪乃は中を確認することなく、二通の封筒を京香につき返した。
「お心遣いありがとうございます。ですが、私はまだ二十二歳です。まだ早すぎます。それに私、好きな人がいるんです。だから不要です」
「好きな人?」
「はい」
「おつきあいされている人はいなかったわよね?」
「いません。片想いです」
これは嘘だが、今はそう言うしかない。雪乃は堂々とそう言い返した。
「……言っておくけど、貴哉さんとあなたは兄妹よ。それはわかっているわよね?」
「もちろんです。戸籍は違いますが、兄に変わりはありません」
「――――」
「失礼します」
礼儀正しくお辞儀をして雪乃は部屋に戻った。京香が目を釣り上げているのを視界の端で一瞬捉えたが、雪乃は無視した。
(真実を知ったから、もう悩まないし、全体に負けない)
扉一枚向こう側にいる京香に対し、雪乃は決意を新たにした。
一週間が経った。この間に、雪乃は貴哉に宇條家のこと、宇條グループのことを詳しく知りたいと伝えた。言った直後は急がなくていいとか言っていた貴哉だったが、真相を知って雪乃も本気になったと理解したのだろう。すぐに資料をそろえ、渡してくれた。だから雪乃はこの一週間、ずっとそれらの資料を読み込んで学んでいた。
コンコン、と扉をノックする音がする。雪乃は顔を上げた。
「お嬢様、いらっしゃいますでしょうか?」
なんだかずいぶん慌てている口調だ。
「三輪と申します。会社の方から連絡がございまして!」
名前を名乗って声をかけてきたハウスキーパーは初めてだ。しかも会社からの連絡と言う。なにかあったのかと雪乃は立ち上がって部屋の扉をあけた。
「旦那様がお倒れになったとのことです。病院に急いでください」
またそんな嘘を――そう言いそうになって雪乃は踏みとどまった。そう言えば、と思いだす。ここに来た日、実康が錠剤を飲んでいたのを見た。このハウスキーパーは名前も名乗る礼儀正しさもあるし、実康が倒れたというのは本当なのかもしれない。
「どこの病院ですか?」
「かかりつけの大学病院に輸送をお願いしたそうです。玄関で車が待っていますから、それに乗ってください」
「わかりました」
部屋に戻って鞄にスマートフォンや財布などを入れ、急いで取って返して廊下を走る。靴を履いている間に、三輪が玄関扉をあけて待っていてくれている。そして立ち上がって外に出ると、目の前に黒いセダンが止まってた。
「お嬢様」
「ありがとうございます」
三輪が後部座席をあけてくれたので乗り込むと、車はすぐに動きだした。
(あっ)
バックミラーに映っている運転手の目元部分から、運転席にいるのが弁護士の飯塚であることに気づいた。
(どうしてここに? 会社にいるんじゃないの? それともわざわざ迎えにかけつけてくれた?)
いろいろと疑問が湧くが、今はそんなことよりも実康の状況が心配だ。雪乃は車窓に視線を向け、どこの病院に向かっているのだろうかと思った。
しばらく東京の中心を走り、湾岸に出た。そして高級ホテルの車寄せで止まった。
「飯塚先生、ここは病院ではないです。どういうことですか?」
「病院? いえ、私は奥様からこちらへご案内するよう仰せつかりましたが」
「――!」
嵌められたと思っても、もう遅い。飯塚が運転席を下り、後部座席の扉をあける。雪乃は動かず、飯塚を睨みつけた。
「降りません」
「奥様からの指示でございまして」
「なら、なおさら従えません。私はお父さんが倒れて病院に運ばれたと言われたんです。そうでないなら帰ります。出してください」
「お嬢様、おとなしく従っていただきたい。でなければ、宇條グループは斉木様の顔に泥を塗り、大きな貸しを作ることになります」
「斉木?」
「あなた様の見合いの相手ですよ」