禁断×契約×偽装×策略
(どういうこと?)
貴哉の目は鋭い。驚いていると、声を出さずに唇が動いた。
(向こうで話す?)
向こうとは、これから案内する雪乃のために用意された部屋のことだろう。雪乃は迷ったけれど、ここではできない話があるのかもしれないと思うと、移動してその話を聞きたいと思った。
「わかりました」
そう返事をすると、貴哉は手を離した。それに合わせて雪乃が立ち上がる。
「では、彼女を案内してきます」
「ああ、頼んだ」
貴哉にエスコートされて部屋から出ようとする。その際、少し振り返って実康を見やると、ポケットから小瓶を取り出して、錠剤のようなものを口に入れるところだった。
(薬? 体が悪いの?)
廊下に出て、前を歩く貴哉の背を見ながら、そういえば、と思う。
実康は自らこの宇條グループの総帥だと述べた。同時に比較的早い段階で貴哉に引き継ぐつもりだとも言った。
ならば近い未来、貴哉が宇條グループの総帥になり、自分は妹としてそれを支えるために呼ばれたのだろうか。今までは綾子がいたし、まだ学生だったが、今は一人だし、あと半年もしたら社会人になる。名実ともに宇條家の者として迎え入れるから、一族の者として働けということなのだろうか。
(でも、だったらなぜ、貴哉さんは――)
あの時のことがまた蘇り、雪乃は怒りと嫌悪で全身が熱くなるのを感じた。
(どうしてあんなことをしたの? 妹なのに!)
片親とはいえ、血のつながった兄と性行為に至ったのだ。
なんという背徳だろうか。
そして貴哉の心を疑わずにいられない。
妹とわかっていて、好きだと言ったのだろうか。迎えに来ると言ったのだろうか。知っているのに好きという感情を抱けるのか。
前者でも後者でも、雪乃にとってはたまらなく恐ろしい。
貴哉が立ち止まった。
「ここが雪乃の部屋だ。で、こっちが俺の部屋」
廊下を挟んで向かい合っている二つの部屋を紹介される。
「そう簡単に出入りできないよう、しっかり監視しているから安心してくれていい」
「どういうこと?」
「説明は中でする。手を出して」
「手?」
「指紋認証の鍵だから」
家の中の、部屋の鍵が指紋認証ということに驚く。と同時に、自分がとんでもないところに来てしまったと強く思った。
(危険って、本当に?)
今までのマンションで一人暮らしは危険だというのは、本当に命の危険がある、ということなのか。
言われるままに手を出すと、貴哉は慣れた様子で指紋を登録した。そして扉を開く。
「入って」
「……すごい」
中は広く、二十畳程あるだろうか。生活に必要なものはすべて整っている。扉を開けていくとウォークインクローゼットのほかに、トイレとバスがあり、またシンクや冷蔵庫なども完備されている。ホテルのハイランクの部屋のような造りだ。飲み物が欲しいなど、ちょっとしたことでわざわざ部屋を出てキッチンに行かなくてもいいようにしているのだろう。
それはすなわち、この屋敷の中でさえなるべく歩き回ることがないように、と言われている気がするのだが。
「マンションのものはこちらで運び入れる。それから、これ」
丸テーブルに置かれている封筒を渡され、中を確認したら三人の顔と名前が記載された紙だった。
各務響子、吉沢香苗、佐久間彩奈とある。
「そこにある人間しか部屋に入れるな。もし強引に入ろうとしたら俺に知らせるんだ」
「え?」
「どんな理由を言われても、絶対に部屋に入れてはいけない。さっきの指紋認証も勝手に書き換えられないように設定しているが、雪乃も気をつけてくれ。登録は十人までで、雪乃以外ではそこにある三人と、父さん、俺、それから母さんの七人が登録されている」
父さん、という言葉がズン! と胸に重く落ちてくる。
「……私を危険な目に遭わせようとしているのは誰?」
「俺の母親だ」
「どうして当人の指紋が登録されているの?」
問うと、貴哉は苦笑を浮かべた。
「もちろん不要だろうと阻止しようとしたさ。けど、夫婦の子となった娘の部屋に親が入れないのはおかしいと言われたんだ。正論だから断れなかった。でも、手は打っている」
「手?」
「七名以外の登録がされたら、アプリから通知が来るようになっている。あとで削除されても履歴が残るのでこちらは犯人がわかる。もし誰かが立ち入ったら、すぐに部屋を確認する」
「確認って?」
「盗聴器やカメラが置かれていないか、だ」
いったいどこのスパイ映画なんだと言いそうになりつつも、雪乃はなにも言わずに貴哉の顔を見つめた。そして、はぁ、とため息をつく。
「正妻は、愛人の娘なんて許せないでしょうね。それなのに、屋敷に住まわせるなんて考えられないでしょうよ。でも、さっき安心しろと言われたわ。そうじゃないの?」
貴哉はかぶりを振った。
「雪乃は、母さんにとって、夫の隠し子というだけじゃないんだ。それもいずれきちんと説明する。今は待ってほしい。あのマンションはもう整理に入った。とにかく今日からここに住んで、俺たちの目の届くところにいてほしい。それから安全のために大学は休学してもらう」
「休学? 学校に行ってはダメなの? あと半年なのに」
「一人で出歩くこともいけない。外出の際はボディーガードをつけるから必ず申告するように。しばらくは特に注意してほしい。雪乃の身を安全のためだ」
ボディーガードと聞いてますます不安が増してくる。
「そんな……」
「お前にもしものことがあったら、俺たちは――絶望しかない」
貴哉は雪乃の正面まで来ると、腕を伸ばして抱きしめた。
「やめて」
雪乃は咄嗟に貴哉の手を振り払った。
「雪乃、俺を、拒絶しないでくれ」
「だって、私たち、血がつながっているのよ?」
「…………」
「知っていたくせに! どうしてあんなこと……あんな恐ろしいことっ」
「すまない」
「すまないで済まされないわ。自分がなにをしたかわかっているの? あなたは私の兄なのよっ――あ!」
雪乃が反応するよりも早く、貴哉が強い力で抱きしめてくる。貴哉の体温、吐息が雪乃を包み込み、めまいが起こった。
「ダメだって」
「雪乃、お前が好きだ」
「!」
苦しい――雪乃は咄嗟にそう思った。そして貴哉の服を鷲掴みにし、力の限り握りしめた。
このぬくもりをずっと求めてきた。初恋の人、愛しい人、そう思い、結ばれることを願ってきたのだ。そして、それは実った。実ったというのに。しかし現実は、残酷という言葉では足りない恐ろしい姿で雪乃を襲ったのだ。
それなのに――
こうやって触れられると、どうしようもできない。振り払うことができない。
醜い感情が湧きあがってくる。それでも貴哉が好きだと思ってしまうのだ。
――俺は本気だ。信じてほしい。信じて待っていてほしい。頼むよ。
あの言葉はこのことだったのだろうか。
本気で血のつながった妹とそういう関係であり続けるつもりなのだろうか。
だとしたらなんと恐ろしいことだろう。いや、恐ろしいのは貴哉だけではない。自分自身もだ。雪乃は自分の中にある感情がすべて嫌悪でないことを理解している。
(私は、狂っている――)
雪乃は貴哉の腕の中で目を伏せた。
***
数時間後、雪乃はダイニングルームにいた。
夕食だということで呼ばれたのだが、ただでさえ緊張感が漂っていたのに、現れた女性によって一気に空気が凍った。
「紹介する、妻の京香だ」
言われなくてもわかったが、雪乃は緊張で手が震えるのを感じていた。
「はじめまして、雪乃さん。宇條京香です」
「は……はじめまして、遠山雪乃です」
「あら、宇條雪乃、でしょ?」
「……すみません」
「なにを謝るの? あなたのことはずいぶん前から知っていたわよ。それで、もう籍は移したのかしら?」
京香は顔を実康に向け、小首を傾げた。フルメイクに赤い口紅は毒々しいが、女優のように整った容姿で、それがまた迫力だった。胸元がくっきりと見える襟の広いワンピースは自宅で夕食をとろうとするような恰好ではない。それだけに雪乃は自分に向けられている敵意をひしと感じた。
「いや、まだだ。それよりも今日は外出ではなかったのか?」
「雪乃さんが来ると聞いたのでキャンセルしたのよ。ご挨拶しないといけないと思ってね」
「そうか」
「お母様を亡くされて気落ちしていることでしょうし。知らないところに無理やり連れてこられて、ここに住めと命じられて、自由も奪われて、不安も大きいでしょう? だから、なんの心配もなく安心して暮らしてちょうだいと、直接伝えようと思ったのよ。私が言うのが、一番効くでしょうから。ねぇ、雪乃さん」
「……は、い。えと」
なんと答えていいのかわからず、口ごもってしまい、雪乃は俯き加減になった。
「あなたはこの人の娘なのだから、堂々としていればいいわよ。愛人の娘だからと不逞な態度を取る者もいるでしょうけど、貴哉が守ってくれるだろうから。ねぇ、貴哉」
「ああ、その通りだ」
ちらりと貴哉を流し見ると、彼は不機嫌そうに答え、そっぽを向いた。
「大学にも行かないよう言われているんでしょ? ひどい話だわ。いったいどんな危険があるのというのかしら。たかが宇條グループの総帥の隠し子ってだけなのに」
雪乃は貴哉だけではなく、実康もうんざりしたような様子で視線をテーブルの端にやっているのを見て、いたたまれなくなってきた。この状況を招いている原因が、間違いなく自分であるからだ。
言葉では雪乃をかばいつつ実康を責めているけれど、実際はその逆で、愛人の娘のくせにのこのことやってきたことをなじっているのだ。
赤い口紅の塗られた口から出てくる言葉は、まるで毒のように思えてしまう。
「退屈でしょうから、庭にある温室に行くといいわ。なかなか立派なのよ」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
丁寧に礼を述べると、京香は満足したような笑みを浮かべた。
美人だ。素直にそう思う。年は五十代くらいだろう。年齢的なものは外見に出ているが、根本的はものが整っていて美しく思わせる。パーツそれぞれの形や、全体のバランスなど。
じろじろ見るのも失礼なので、雪乃は伏し目がちに視線を下げた。
そこにハウスキーパーたちがやってきて、テーブルに料理を並べていく。一般家庭の夕食とはとても思えない豪華なメニューに驚きながら、雪乃はなるべく存在を消そうと試みつつ食事を口に運んだ。
おいしいはずの料理は、まったく味を感じなかった。
貴哉の目は鋭い。驚いていると、声を出さずに唇が動いた。
(向こうで話す?)
向こうとは、これから案内する雪乃のために用意された部屋のことだろう。雪乃は迷ったけれど、ここではできない話があるのかもしれないと思うと、移動してその話を聞きたいと思った。
「わかりました」
そう返事をすると、貴哉は手を離した。それに合わせて雪乃が立ち上がる。
「では、彼女を案内してきます」
「ああ、頼んだ」
貴哉にエスコートされて部屋から出ようとする。その際、少し振り返って実康を見やると、ポケットから小瓶を取り出して、錠剤のようなものを口に入れるところだった。
(薬? 体が悪いの?)
廊下に出て、前を歩く貴哉の背を見ながら、そういえば、と思う。
実康は自らこの宇條グループの総帥だと述べた。同時に比較的早い段階で貴哉に引き継ぐつもりだとも言った。
ならば近い未来、貴哉が宇條グループの総帥になり、自分は妹としてそれを支えるために呼ばれたのだろうか。今までは綾子がいたし、まだ学生だったが、今は一人だし、あと半年もしたら社会人になる。名実ともに宇條家の者として迎え入れるから、一族の者として働けということなのだろうか。
(でも、だったらなぜ、貴哉さんは――)
あの時のことがまた蘇り、雪乃は怒りと嫌悪で全身が熱くなるのを感じた。
(どうしてあんなことをしたの? 妹なのに!)
片親とはいえ、血のつながった兄と性行為に至ったのだ。
なんという背徳だろうか。
そして貴哉の心を疑わずにいられない。
妹とわかっていて、好きだと言ったのだろうか。迎えに来ると言ったのだろうか。知っているのに好きという感情を抱けるのか。
前者でも後者でも、雪乃にとってはたまらなく恐ろしい。
貴哉が立ち止まった。
「ここが雪乃の部屋だ。で、こっちが俺の部屋」
廊下を挟んで向かい合っている二つの部屋を紹介される。
「そう簡単に出入りできないよう、しっかり監視しているから安心してくれていい」
「どういうこと?」
「説明は中でする。手を出して」
「手?」
「指紋認証の鍵だから」
家の中の、部屋の鍵が指紋認証ということに驚く。と同時に、自分がとんでもないところに来てしまったと強く思った。
(危険って、本当に?)
今までのマンションで一人暮らしは危険だというのは、本当に命の危険がある、ということなのか。
言われるままに手を出すと、貴哉は慣れた様子で指紋を登録した。そして扉を開く。
「入って」
「……すごい」
中は広く、二十畳程あるだろうか。生活に必要なものはすべて整っている。扉を開けていくとウォークインクローゼットのほかに、トイレとバスがあり、またシンクや冷蔵庫なども完備されている。ホテルのハイランクの部屋のような造りだ。飲み物が欲しいなど、ちょっとしたことでわざわざ部屋を出てキッチンに行かなくてもいいようにしているのだろう。
それはすなわち、この屋敷の中でさえなるべく歩き回ることがないように、と言われている気がするのだが。
「マンションのものはこちらで運び入れる。それから、これ」
丸テーブルに置かれている封筒を渡され、中を確認したら三人の顔と名前が記載された紙だった。
各務響子、吉沢香苗、佐久間彩奈とある。
「そこにある人間しか部屋に入れるな。もし強引に入ろうとしたら俺に知らせるんだ」
「え?」
「どんな理由を言われても、絶対に部屋に入れてはいけない。さっきの指紋認証も勝手に書き換えられないように設定しているが、雪乃も気をつけてくれ。登録は十人までで、雪乃以外ではそこにある三人と、父さん、俺、それから母さんの七人が登録されている」
父さん、という言葉がズン! と胸に重く落ちてくる。
「……私を危険な目に遭わせようとしているのは誰?」
「俺の母親だ」
「どうして当人の指紋が登録されているの?」
問うと、貴哉は苦笑を浮かべた。
「もちろん不要だろうと阻止しようとしたさ。けど、夫婦の子となった娘の部屋に親が入れないのはおかしいと言われたんだ。正論だから断れなかった。でも、手は打っている」
「手?」
「七名以外の登録がされたら、アプリから通知が来るようになっている。あとで削除されても履歴が残るのでこちらは犯人がわかる。もし誰かが立ち入ったら、すぐに部屋を確認する」
「確認って?」
「盗聴器やカメラが置かれていないか、だ」
いったいどこのスパイ映画なんだと言いそうになりつつも、雪乃はなにも言わずに貴哉の顔を見つめた。そして、はぁ、とため息をつく。
「正妻は、愛人の娘なんて許せないでしょうね。それなのに、屋敷に住まわせるなんて考えられないでしょうよ。でも、さっき安心しろと言われたわ。そうじゃないの?」
貴哉はかぶりを振った。
「雪乃は、母さんにとって、夫の隠し子というだけじゃないんだ。それもいずれきちんと説明する。今は待ってほしい。あのマンションはもう整理に入った。とにかく今日からここに住んで、俺たちの目の届くところにいてほしい。それから安全のために大学は休学してもらう」
「休学? 学校に行ってはダメなの? あと半年なのに」
「一人で出歩くこともいけない。外出の際はボディーガードをつけるから必ず申告するように。しばらくは特に注意してほしい。雪乃の身を安全のためだ」
ボディーガードと聞いてますます不安が増してくる。
「そんな……」
「お前にもしものことがあったら、俺たちは――絶望しかない」
貴哉は雪乃の正面まで来ると、腕を伸ばして抱きしめた。
「やめて」
雪乃は咄嗟に貴哉の手を振り払った。
「雪乃、俺を、拒絶しないでくれ」
「だって、私たち、血がつながっているのよ?」
「…………」
「知っていたくせに! どうしてあんなこと……あんな恐ろしいことっ」
「すまない」
「すまないで済まされないわ。自分がなにをしたかわかっているの? あなたは私の兄なのよっ――あ!」
雪乃が反応するよりも早く、貴哉が強い力で抱きしめてくる。貴哉の体温、吐息が雪乃を包み込み、めまいが起こった。
「ダメだって」
「雪乃、お前が好きだ」
「!」
苦しい――雪乃は咄嗟にそう思った。そして貴哉の服を鷲掴みにし、力の限り握りしめた。
このぬくもりをずっと求めてきた。初恋の人、愛しい人、そう思い、結ばれることを願ってきたのだ。そして、それは実った。実ったというのに。しかし現実は、残酷という言葉では足りない恐ろしい姿で雪乃を襲ったのだ。
それなのに――
こうやって触れられると、どうしようもできない。振り払うことができない。
醜い感情が湧きあがってくる。それでも貴哉が好きだと思ってしまうのだ。
――俺は本気だ。信じてほしい。信じて待っていてほしい。頼むよ。
あの言葉はこのことだったのだろうか。
本気で血のつながった妹とそういう関係であり続けるつもりなのだろうか。
だとしたらなんと恐ろしいことだろう。いや、恐ろしいのは貴哉だけではない。自分自身もだ。雪乃は自分の中にある感情がすべて嫌悪でないことを理解している。
(私は、狂っている――)
雪乃は貴哉の腕の中で目を伏せた。
***
数時間後、雪乃はダイニングルームにいた。
夕食だということで呼ばれたのだが、ただでさえ緊張感が漂っていたのに、現れた女性によって一気に空気が凍った。
「紹介する、妻の京香だ」
言われなくてもわかったが、雪乃は緊張で手が震えるのを感じていた。
「はじめまして、雪乃さん。宇條京香です」
「は……はじめまして、遠山雪乃です」
「あら、宇條雪乃、でしょ?」
「……すみません」
「なにを謝るの? あなたのことはずいぶん前から知っていたわよ。それで、もう籍は移したのかしら?」
京香は顔を実康に向け、小首を傾げた。フルメイクに赤い口紅は毒々しいが、女優のように整った容姿で、それがまた迫力だった。胸元がくっきりと見える襟の広いワンピースは自宅で夕食をとろうとするような恰好ではない。それだけに雪乃は自分に向けられている敵意をひしと感じた。
「いや、まだだ。それよりも今日は外出ではなかったのか?」
「雪乃さんが来ると聞いたのでキャンセルしたのよ。ご挨拶しないといけないと思ってね」
「そうか」
「お母様を亡くされて気落ちしていることでしょうし。知らないところに無理やり連れてこられて、ここに住めと命じられて、自由も奪われて、不安も大きいでしょう? だから、なんの心配もなく安心して暮らしてちょうだいと、直接伝えようと思ったのよ。私が言うのが、一番効くでしょうから。ねぇ、雪乃さん」
「……は、い。えと」
なんと答えていいのかわからず、口ごもってしまい、雪乃は俯き加減になった。
「あなたはこの人の娘なのだから、堂々としていればいいわよ。愛人の娘だからと不逞な態度を取る者もいるでしょうけど、貴哉が守ってくれるだろうから。ねぇ、貴哉」
「ああ、その通りだ」
ちらりと貴哉を流し見ると、彼は不機嫌そうに答え、そっぽを向いた。
「大学にも行かないよう言われているんでしょ? ひどい話だわ。いったいどんな危険があるのというのかしら。たかが宇條グループの総帥の隠し子ってだけなのに」
雪乃は貴哉だけではなく、実康もうんざりしたような様子で視線をテーブルの端にやっているのを見て、いたたまれなくなってきた。この状況を招いている原因が、間違いなく自分であるからだ。
言葉では雪乃をかばいつつ実康を責めているけれど、実際はその逆で、愛人の娘のくせにのこのことやってきたことをなじっているのだ。
赤い口紅の塗られた口から出てくる言葉は、まるで毒のように思えてしまう。
「退屈でしょうから、庭にある温室に行くといいわ。なかなか立派なのよ」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
丁寧に礼を述べると、京香は満足したような笑みを浮かべた。
美人だ。素直にそう思う。年は五十代くらいだろう。年齢的なものは外見に出ているが、根本的はものが整っていて美しく思わせる。パーツそれぞれの形や、全体のバランスなど。
じろじろ見るのも失礼なので、雪乃は伏し目がちに視線を下げた。
そこにハウスキーパーたちがやってきて、テーブルに料理を並べていく。一般家庭の夕食とはとても思えない豪華なメニューに驚きながら、雪乃はなるべく存在を消そうと試みつつ食事を口に運んだ。
おいしいはずの料理は、まったく味を感じなかった。