禁断×契約×偽装×策略
「いません」
「そうなの? かわいくていらっしゃるから、モテると思うのだけど?」
「とんでもないです。私なんて、ぜんぜん……」
「あら、意外だわ」

 居心地の悪さをなんとかしようとスプーンを持つが、まだ京香の話は終わっていないらしく、口に入れる前に再開された。

「今時の子はもう小学生でも堂々と、カレシカノジョがいると言うのよ? 親しくした男性くらいいるんじゃないの?」

 雪乃は無理やり口角を上げて笑おうとしたが、どうにもできなかった。首を妙なリズムで左右に振りつつ視線を逸らし、それから少し考えて答えた。

「声をかけられることもなかったので」
「自分からは?」
「本当にとんでもないです。それに、早く帰って家事とかしないといけませんでしたし、勉強していい大学に行こうと思っていたから、異性とか交際とかまったく考えていませんでした」
「学部は……経済学部だったわよね?」
「医学部か法学部に行きたかったんですが、金銭的に負担はかけられなかったし、どちらもなれたとしてもしばらくは収入が大変って聞いて、それで企業に勤めるのがいいかと思いまして」
「お金の件がなかったら、受かってた?」

 鋭い質問に雪乃は困ったふうに首を傾げた。本当はいけたのだ。だが、法学部は在籍中に合格する自信はなかったので卒業してからも勉強を続けるのが生活費が心配だったし、医学部は六年と学費がかかるのでやめたのだ。が、それを素直に言って勉強ができると言っているように取られるのも困る。

「どうでしょうか……たぶん、無理だったと思います」
「そう」

 気の抜けたような返事だったので、雪乃は再びスプーンを持って口に運ぼうとした。

「お母様と暮らしていたマンション、あの人に頼まれ事をされて貴哉も行っていたと思うのだけど、主人や貴哉はどれくらいの頻度でそちらを訪れていたのかしら」
「…………」
「あら、他意はないわよ。もともと二人とも忙しくて、帰宅は遅いし出張などで家を空けることが多いから、いないのが普通みたいなものなのよ」

 どう答えるのが正解かわからず、雪乃は緊張で胃がキュッと鷲掴みにされるような気がした。

「雪乃さん?」
「頻度は……二、三か月に一度くらいだったような。貴哉さんはもっと少ないと思います」
「そんなことはないでしょう?」
「本当です。私はずっと母のいとこだと思っていたので、それが当たり前だと思っていました」
「親類が、そう頻々と訪れることはない、と?」
「はい」
「……そう」

 なんだか不穏なものを感じ、心臓が激しく打っている。スプーンを持つ手がほんのわずか震えているのが自分でもわかった。

「貴哉は?」
「貴哉さんは部下だと思っていました。それこそ、滅多には来られなかったです」

 嘘だが、そう言わないと恐ろしいことになりそうで、つい言ってしまった。

「そうなの」

 緊張のあまり反射的に視線を上げて京香を見ると、目が合った。口角を上げて微笑んでいる。

「きょうだいが欲しいってよく言っていたから、妹がいると知って世話を焼きに出向いていたのかと思っていたわ。勘違いしていたみたい」
「…………」

「私はあなたにとって継母(ままはは)で、世間で言われる難しい関係だけど、でも生まれてくる子にはなんの罪もないし、子どもには親を選ぶ権利も、生まれることへの選択権もないのだから、気にすることはないわよ。私はただ知りたいだけで尋ねているにすぎないから。だって、嫌なら呼び寄せることに同意するはずがないじゃない。赤ん坊でもないし、大学生なら、もう十分一人でやっていけるでしょう?」

「……は、い」

「私ね、女の子が欲しかったのよ。男の子は早くに母親の傍を離れちゃうと思って。実際その通りになったわ。貴哉は活発な子で、小学中学と運動部に入ってほとんど家にいなかったし、高校に入ったら態度がずいぶん冷たくなって。母親とベタベタする気はないとか言って避けるみたいな態度でね。まったく可愛げがないわ。だからあなたが来て、うれしいのよ。私とあなたは血がつながっていないけど、夫の子なら私の子も同然でしょ。まだ実のお母様を亡くして時間が経っていないけれど、寂しく思わないでいただきたいわ」

 饒舌に話す京香はそこまで一気にしゃべると、グラスのミネラルウォーターを飲み、腕時計を確認してからすっと立ち上がった。

「私、これから知人に電話をしないといけないので失礼するわね。ごゆっくり」

 にっこり微笑んでダイニングルームをあとにする。雪乃はその背に向けて会釈をしてからスプーンを口に運んだ。

「…………」

 ドリアは中途半端に冷めてぬるくなっていて、チーズも固まっていて、おいしく感じられなかった。アツアツはさぞおいしかっただろうに。そう思うと残念だった。

 残したら悪いと頑張って食べ、部屋に戻ろうとダイニングルームに出て廊下を歩いていると、話し声が聞こえてきた。

「呼び寄せる旦那様も旦那様だけど、のこのこやってくる娘も娘よね。本妻が住んでる本宅よ? まったく気がしれないわ」
「やめなさいよ、聞かれるわよ」
「ないわよ。自分の部屋から出ないって」
「違うって、今、お昼を食べにダイニングルームにいるのよ」
「そうよ、いつ出てくるかわからないから、今は(・・)やめたほうがいいわ」

 声の感じから三人でしゃべっているのだろうか。あるいはそれ以上なのか。

「そうなんだ。でも大丈夫よ。私、別に好かれたいなんて思ってないし、嫌われたってどうにもできないじゃない。そもそも時間給のアルバイトよ? 嫌なら断ればいいのよ」
「それはそうだけど」
「でも、貴哉さんがずいぶん気に入ってるっていうわよ」
「気に入ってる? 妹だからでしょ?」
「えー、そうかな、愛人が産んだ子よ? 普通、嫌わない?」
「気持ち悪ぅ~」

 雪乃は居たたまれなさと、なにを言われているのか気になって動けずにいたが、気持ち悪いという言葉に息が詰まってたまらなくなり、足音を消しつつ急いで階段に向かった。

 彼女たちが雪乃に気づいたかどうかはわからないが、いずれにしても惨め極まりない。なによりも、なにもできない自分自身への嫌悪感がひどい。

 実康や貴哉がしきりに言う「事情は必ず話すから」というその『事情』はいつ教えてもらえるのだろうか。早く教えてもらえれば、こんなにつらい思いをしなくて済むだろうに。

 歯を食いしばって部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。
 平日の真っ昼間からベッドの上などと、そう自虐するもこれが現実だ。

(せめて大学くらい通わせてくれたら気も紛れるのに)

 父親がいず、母親も働いている様子もない。そんな家庭環境に周囲は言わずとも気づいている様子で、担任の先生も生徒たちも、どこか一歩引いている感じがした。時々親しげに話しかけてくるクラスメートもいるにはいたが、それは仲良くなろうというよりも雪乃がどんな生活をしているのか興味がある、という感じだった。おそらくそれも、自分の親か、友達を通したその親か、大人の話からの興味だったのだろう。家庭環境に触れる話が多かったし、はぐらかしているうちにいつの間にか傍に来なくなっていた。だから雪乃は人一倍警戒心が強くなったし、第三者の胸の内に怯えて避けるようになっていった。

 家に帰って家事や勉強をすれば気が紛れる。綾子に代わって掃除や洗濯、料理をするのが好きだった。母親の背徳に気づきながらも、自分の置かれている状況を作り出した張本人であることを理解しながら、それでも綾子の笑顔を見たかった。喜んでほしかった。

 綾子の傍にいると安心できた。二人で行く予定のない旅行の話をしたり、食べる予定もない高級ホテルのレストランでフルコースのメニューを選ぶ話をしたり。そんな他愛もない話題でも、盛り上がって楽しかった。

 それに自分がいなければ綾子が大変なことになる。そう思うと、自分を奮い立たせられたし、自分の存在意義を実感できた。

 今、それらの思い出や満足していた過去の自分全てが否定されている。嫌悪されている。それは明らかに、今まで避けてきた事実を突きつけられるという現実だった。

 惨めだ。限りなく。

 雪乃は天井を眺めながら、もぬけの殻のようになっている自分を責めた。

(私って……こんなに他力本願で、無気力だったかなぁ。確かにアクティブではないけど、パッシブでもないと思うんだけど)

 見つめる白い天井に、綾子の笑顔が浮かんだ。そして気づいた。

(そっか、お母さんのためって思って頑張ってたんだ、私)

 綾子のためだと思えばどんなにつらいことでも耐えられた。友達ができなくても、遊びに行けなくても、家事や看病をしなければいけなくても頑張れたことに、今、理解した。と同時に、そのかけがえのない存在を失ってしまったことと、かけがえのない存在がいない世界で今後生きていくことの不安を改めて思い知らされた。

 はあ、とため息が出る。

(私には、お母さんしかいなかったんだ。そっかぁ……)

 視界が滲んだかと思うと、ぽろぽろと涙が溢れてこぼれ落ちる。これからどうすればいいのだろうと思えば思うほど、実康や貴哉が言う得体のしれない問題への恐怖、片親を同じくする貴哉と肉体関係を持ってしまったことへの背徳、自分の命が狙われているという話への恐怖がせりあがってきて愕然とする。

(恐怖ばかりだわ。頭がどうにかなりそう。しかも、部屋に押し込められて、自由に出歩くな、なんて)

 実康と貴哉を信じて事情を話してもらえるまで、ただ待つしかないのだろうが、その貴哉への信頼が揺らいでいるのは事実だ。

(奥様が本当に死まで願っているのか、疑問だし。だって……)

 敵意など感じなかったし、むしろ気遣ってくれている口ぶりだ。もちろん、演技ということもあるだろう。しかしながら、いくら嫌いでも命まで取ろうとはしないのでは、と思う。もしかしたら、言うことを聞かせるため、貴哉が大げさに言っているだけなのではないか、という気がしてくる。

 気が滅入ってくる。ここに来て、まだ一日しか経っていないというのに。

(こんなことでは病気になりそう。お屋敷の中は安全だから連れてきたんでしょ? だったら、部屋に閉じこもりっきりでなくていいわよね。ちょっとくらいなら)

 脳裏に京香が話していた温室が浮かぶ。どれくらいの大きさで、どんな花が飾られているのか気になる。それに、多くを我慢しなければいけないのだから、せめて花くらい愛でたいし、それくらい許されるだろう。雪乃はベッドから下りて立ち上がった。


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