禁断×契約×偽装×策略
そっと部屋から出る。ハウスキーパーには会わないように気をつけながら進み、玄関を出た。庭を見渡すと、屋敷の奥、木々の隙間から屋根が見える。それが温室であることは一目瞭然。雪乃はそちらに向かって歩いた。
「わ、大きい」
こんな広い敷地と大きな屋敷だから、温室もそれなりの大きさなのだろうと想像していたが、それをはるかに超えるものだった。雪乃には見ただけでどれくらの平米かなどわからないが、二十畳あったマンションのリビングダイニングルームと同じか少し小さいくらいに思うので、五十平米から六十平米くらいではないかと思われる。
前面ガラス張りで、天井窓は中央が開閉できるようになっている。雪乃は見た瞬間気持ちが弾んで、急いでドアノブを掴んで開けた。
「すごい」
全面ガラス張りなので外からでも様子がわかったが、中に入ると溢れるようなユリの香りが迫ってきて驚いた。入り口付近はカサブランカが飾られている。真っ白の花弁が美しい。進むほどその甘い香りはむせ返るほど強くなる。一輪でも気づくほどカサブランカの香りは強いが、それが十数株も並んでいるとかなりのものだ。
「あれ、色付きもある。初めて見た」
ピンク色や黄色の大きな花弁が特徴的だ。カサブランカとは『白い家』という意味なので、色のある種類が存在することを雪乃は知らなかった。
「あ……」
鉢の部分に名前が付いている。
ピンク系には、マルコポーロ、ルーブル、マイアミ、ティバー、ベルガモなど。赤系には、パラッツォ、バルバレスコ、アカプルコなど。赤白系には、アカプルコ、スターゲーザー。黄色は、コンカドールとある。これほど種類があることもまた雪乃は知らなかった。
さらに奥に進むと胡蝶蘭が並んでいる。その他にはハイビスカスなども。その次の一角で雪乃は驚
いて立ち止まった。
「これもすごい」
赤、濃いピンク、薄いピンク、黄色、白、二色になっているポインセチアがたくさん並んでいた。
「ポインセチアって冬じゃないの? 温室だから? まだ九月なのにこんなに咲いてるなんて。きれい」
少しずつ前進しながらポインセチアを見ている。だが、いきなりドンと背中が押された。
「!」
つんのめり、バランスを取ろうとするそこへ、右足がなにかに引っかかり、そのまま前に倒れ込んだ。
「い……つぅ……いた!」
背中にさらなる痛みが起こる。誰かに踏みつけられている。なにが起こっているのかわからなかったが、その痛みで理解した。
「愛人の娘がのこのこと。汚らわしい」
「その図太い神経、信じられない」
少なくても二人いる。雪乃は恐怖のあまり、立ち上がることも振り返ることもできなかった。
「あ、うっ!」
足を左右に動かして、より痛みを増すために圧を強めている。このままでは本当に背骨を踏み折られそうな気がして、急いで立ち上がろうと両手をついて踏ん張った。
「痛い!」
今度はその手を踏みつけられた。
「汚らわしい愛人の娘が住む場所じゃないと思うけど! ここにいたらこーいう目にいっぱい遭うこと、しっかり覚えておくことね」
「それに、あんたを見下しているのは私たち女だけじゃないから。自分の股の奥が心配なら、さっさと出て行くことね」
あはははは! と高笑いが上がり、雪乃の手を踏みつけていた足が離れた。雪乃が女たちの顔を見るために振り返ろうと顔を上げたところに、バシャリと冷たい水がかけられた。と、同時に笑う声が遠ざかっていく。雪乃はあまりのことに言葉を失い、起き上がったはいいが、茫然自失の状態でその場に座り込んでしまった。
(な、に……これ)
ぽたり、ぽたり、と雫が落ちる。それを見ていると、自然と涙が込み上げてくる。
(なんで、なんでこんな目に遭わないといけないの? 私がなにをしたの?)
ここに行きたいと言ったこともなければ、望んだこともない。飯塚にいきなり呼び止められ、車に乗れと言われ、半ば強引に連れてこられたのだ。
母を喪って悲しみに暮れているところにこの仕打ちだ。なにがなんだかわからず、半ばパニック状態で思考が追いつかない。悲しくて、悲しくて、そっとしていてほしいというのに。両手で顔を覆い、溢れてくる涙をただ流すだけだった。
それからどれくらい経っただろうか。ようやく自分を取り戻し、雪乃は立ち上がった。
ぶち撒けられた水が髪や服を伝って流れ落ちていくが気にはならなかった。ただ、早く自分の部屋に逃げ込みたかった。自分を取り戻したら、彼女らの言葉を思い出したのだ。
――それに、あんたを見下しているのは私たち女だけじゃないから。自分の股の奥が心配なら、さっさと出て行くことね。
よもや屋敷の中で使用人が主の娘を強姦するとは思えないが、あぁ言われた以上、一人でいる時に男性使用人と鉢合わせするのは嫌だ。まだここに来てたったの一日で、どんな人間が出入りしているのかまったく知らないから余計に怖い。
急いで温室を出て屋敷に入り、階段を駆け上がる。すれ違う者たちが驚いた表情でこちらを見ているのが視界に入ったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
わずかな距離のはずなのに、やたらと遠く感じる。ようやく部屋の前にたどり着き、扉を開けようとしてハッと振り返った。雪乃に与えられた部屋の正面は貴哉の部屋だ。危険がないようにこの場所を選んだのだろう。
(どうして……私)
怒りが湧いてくる。それは自分自身に対する怒りだった。
貴哉は雪乃を守ろうとしてくれている。温室には行くなと忠告してくれたのに、わざわざ自らのこのこと出向いて行った自分に対して。
(貴哉さん)
後悔で胸が張り裂けそうだ。
扉の電子ロックを解除し、雪乃は部屋の中に入った。その足でパウダールームに向かい、服をすべて脱ぎ捨てた。そしてバスルームに入って熱いシャワーを頭からかぶる。しばらく経つと体が温まってきて、少しだけほっとした。
髪と体を洗い、バスルームを出て服を着る。髪を乾かしてすべてが終わると安堵が深くなった。雪乃はベッドに寝転がり、白い天井を見上げた。
(お屋敷の中も安全ではないとなると、ホントにこの部屋に閉じこもっていないといけないんだわ。息が詰まりそう。というか、いったいいつまで我慢すればいいんだろう。せめてゴールを教えてくれたら気持ちも違うのに)
はあ、とため息をついた時、扉を叩く音が聞こえた。
(誰か来た)
落ち着いた心が途端に恐怖に怯え始める。この時間に屋敷にいる者の中に味方がいるとは思えない――と思いかけ、貴哉がくれた資料に書かれた三人は味方だと思い直した。
各務、吉沢、佐久間、この三人のうちの誰かであってほしいと願うが。
「雪乃さん、私よ」
刹那に全身が凍りつくほどの恐怖に襲われた。
(奥様……)
コンコンコン、とノック音が続く。
(どうしよう)
「雪乃さん!」
京香の声が大きくなったので、雪乃は反射的に駆けだしてしまっていた。そして扉を開ける。そこには目を大きく見開き、焦りを浮かべた京香がいた。
「あの」
「雪乃さん、ハウスキーパーに水をかけられたのですって?」
「え……あ、それは」
「ずぶ濡れのあなたが歩いていったのを何人も見ているし、廊下に水が点々と落ちているわ。屋敷内ではそんなことはできないから、温室でしょう?」
「…………」
「顔は見た?」
「…………」
なんと言っていいのかわからず黙っている雪乃に対し、京香は、はあ、と大きく息を吐きだした。
「見ていないのね? わかったわ。それはこちらで見つけ出して、クビにするから安心してちょうだい。派遣会社にもきつく言って賠償させるわ」
「賠償?」
「当然じゃないの。派遣先の人間に水をかけるなんて非常識だし、そもそも暴力よ。傷害罪で訴えてやってもいいんですからね。状況が聞きたいのだけど、中に入ってもいいかしら? それともリビングルームに移動する?」
雪乃は慌てて扉を大きく開き、部屋の中に招き入れた。
「急いで揃えたにしては素敵ね。貴哉が力を入れていたからねえ。たとえ半分であっても血がつながっている妹がいると知ってうれしかったんじゃないかしら」
「…………」
京香はドレッサーやシンプルな造りの大人用の学習机に軽く触れながらじっくり見て回った。
雪乃がその動きを目で追い、話があるから部屋に入ったのでは、と思った矢先、まるで心を読んでいるかのように振り返った。
「ごめんなさいね、大事なお話をするためなのに見入ってしまって」
「いえ、そんな」
「それで、どんな状況だったのかしら。人数とか、わかる?」
雪乃はかぶりを振った。二人はいたが、それ以上のことはわからない。それにヘタに刺激したくもなかった。行動に移したのは二人でも、他の使用人たちにだって快く思われていないだろうから。
「庇わなくていいのよ」
「いいえ、咄嗟のことでよくわからなかったんです。足音は複数でしたが、それが何人だったのかは後ろ向きだったので……」
「そう。わかったわ。とにかく、誰かやったか突き止めるから安心してちょうだい」
眉間にしわを寄せて窺うように見つめてくる京香の様子に訝しさはない。雪乃は自分の中にある京香への偏見や恐怖に疑問が湧いてくるのを感じた。
この人は本当に私の命を狙っているのか、と。
(やっぱり貴哉さんが私を逃がさないために嘘をついてるんじゃ?)
だが、貴哉と過ごした時間は雪乃にとってかけがえのないものだ。たとえ、真実を伏せてあんな真似をしたとはいえ、過去が消えるわけではない。
(わからない)
不安が増大する。そんな雪乃の気持ちを知ってか知らずか、京香は雪乃の右肩に手を置いた。
「なにかされたらすぐに言ってちょうだいね。誰しも思うことはあるでしょうけど、人に危害を加えるなど許されないことだから」
「……はい」
「あなたがずぶ濡れのかっこうで歩いていると報告を受けて驚いたのだけど、思っていたよりかはしっかりして安心したわ。錯乱していたらどうしようかと心配だったものだから。では、失礼するわね」
京香はにっこり微笑み、部屋をあとにした。その背を、雪乃は言葉なく見送るだけだった。
「わ、大きい」
こんな広い敷地と大きな屋敷だから、温室もそれなりの大きさなのだろうと想像していたが、それをはるかに超えるものだった。雪乃には見ただけでどれくらの平米かなどわからないが、二十畳あったマンションのリビングダイニングルームと同じか少し小さいくらいに思うので、五十平米から六十平米くらいではないかと思われる。
前面ガラス張りで、天井窓は中央が開閉できるようになっている。雪乃は見た瞬間気持ちが弾んで、急いでドアノブを掴んで開けた。
「すごい」
全面ガラス張りなので外からでも様子がわかったが、中に入ると溢れるようなユリの香りが迫ってきて驚いた。入り口付近はカサブランカが飾られている。真っ白の花弁が美しい。進むほどその甘い香りはむせ返るほど強くなる。一輪でも気づくほどカサブランカの香りは強いが、それが十数株も並んでいるとかなりのものだ。
「あれ、色付きもある。初めて見た」
ピンク色や黄色の大きな花弁が特徴的だ。カサブランカとは『白い家』という意味なので、色のある種類が存在することを雪乃は知らなかった。
「あ……」
鉢の部分に名前が付いている。
ピンク系には、マルコポーロ、ルーブル、マイアミ、ティバー、ベルガモなど。赤系には、パラッツォ、バルバレスコ、アカプルコなど。赤白系には、アカプルコ、スターゲーザー。黄色は、コンカドールとある。これほど種類があることもまた雪乃は知らなかった。
さらに奥に進むと胡蝶蘭が並んでいる。その他にはハイビスカスなども。その次の一角で雪乃は驚
いて立ち止まった。
「これもすごい」
赤、濃いピンク、薄いピンク、黄色、白、二色になっているポインセチアがたくさん並んでいた。
「ポインセチアって冬じゃないの? 温室だから? まだ九月なのにこんなに咲いてるなんて。きれい」
少しずつ前進しながらポインセチアを見ている。だが、いきなりドンと背中が押された。
「!」
つんのめり、バランスを取ろうとするそこへ、右足がなにかに引っかかり、そのまま前に倒れ込んだ。
「い……つぅ……いた!」
背中にさらなる痛みが起こる。誰かに踏みつけられている。なにが起こっているのかわからなかったが、その痛みで理解した。
「愛人の娘がのこのこと。汚らわしい」
「その図太い神経、信じられない」
少なくても二人いる。雪乃は恐怖のあまり、立ち上がることも振り返ることもできなかった。
「あ、うっ!」
足を左右に動かして、より痛みを増すために圧を強めている。このままでは本当に背骨を踏み折られそうな気がして、急いで立ち上がろうと両手をついて踏ん張った。
「痛い!」
今度はその手を踏みつけられた。
「汚らわしい愛人の娘が住む場所じゃないと思うけど! ここにいたらこーいう目にいっぱい遭うこと、しっかり覚えておくことね」
「それに、あんたを見下しているのは私たち女だけじゃないから。自分の股の奥が心配なら、さっさと出て行くことね」
あはははは! と高笑いが上がり、雪乃の手を踏みつけていた足が離れた。雪乃が女たちの顔を見るために振り返ろうと顔を上げたところに、バシャリと冷たい水がかけられた。と、同時に笑う声が遠ざかっていく。雪乃はあまりのことに言葉を失い、起き上がったはいいが、茫然自失の状態でその場に座り込んでしまった。
(な、に……これ)
ぽたり、ぽたり、と雫が落ちる。それを見ていると、自然と涙が込み上げてくる。
(なんで、なんでこんな目に遭わないといけないの? 私がなにをしたの?)
ここに行きたいと言ったこともなければ、望んだこともない。飯塚にいきなり呼び止められ、車に乗れと言われ、半ば強引に連れてこられたのだ。
母を喪って悲しみに暮れているところにこの仕打ちだ。なにがなんだかわからず、半ばパニック状態で思考が追いつかない。悲しくて、悲しくて、そっとしていてほしいというのに。両手で顔を覆い、溢れてくる涙をただ流すだけだった。
それからどれくらい経っただろうか。ようやく自分を取り戻し、雪乃は立ち上がった。
ぶち撒けられた水が髪や服を伝って流れ落ちていくが気にはならなかった。ただ、早く自分の部屋に逃げ込みたかった。自分を取り戻したら、彼女らの言葉を思い出したのだ。
――それに、あんたを見下しているのは私たち女だけじゃないから。自分の股の奥が心配なら、さっさと出て行くことね。
よもや屋敷の中で使用人が主の娘を強姦するとは思えないが、あぁ言われた以上、一人でいる時に男性使用人と鉢合わせするのは嫌だ。まだここに来てたったの一日で、どんな人間が出入りしているのかまったく知らないから余計に怖い。
急いで温室を出て屋敷に入り、階段を駆け上がる。すれ違う者たちが驚いた表情でこちらを見ているのが視界に入ったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
わずかな距離のはずなのに、やたらと遠く感じる。ようやく部屋の前にたどり着き、扉を開けようとしてハッと振り返った。雪乃に与えられた部屋の正面は貴哉の部屋だ。危険がないようにこの場所を選んだのだろう。
(どうして……私)
怒りが湧いてくる。それは自分自身に対する怒りだった。
貴哉は雪乃を守ろうとしてくれている。温室には行くなと忠告してくれたのに、わざわざ自らのこのこと出向いて行った自分に対して。
(貴哉さん)
後悔で胸が張り裂けそうだ。
扉の電子ロックを解除し、雪乃は部屋の中に入った。その足でパウダールームに向かい、服をすべて脱ぎ捨てた。そしてバスルームに入って熱いシャワーを頭からかぶる。しばらく経つと体が温まってきて、少しだけほっとした。
髪と体を洗い、バスルームを出て服を着る。髪を乾かしてすべてが終わると安堵が深くなった。雪乃はベッドに寝転がり、白い天井を見上げた。
(お屋敷の中も安全ではないとなると、ホントにこの部屋に閉じこもっていないといけないんだわ。息が詰まりそう。というか、いったいいつまで我慢すればいいんだろう。せめてゴールを教えてくれたら気持ちも違うのに)
はあ、とため息をついた時、扉を叩く音が聞こえた。
(誰か来た)
落ち着いた心が途端に恐怖に怯え始める。この時間に屋敷にいる者の中に味方がいるとは思えない――と思いかけ、貴哉がくれた資料に書かれた三人は味方だと思い直した。
各務、吉沢、佐久間、この三人のうちの誰かであってほしいと願うが。
「雪乃さん、私よ」
刹那に全身が凍りつくほどの恐怖に襲われた。
(奥様……)
コンコンコン、とノック音が続く。
(どうしよう)
「雪乃さん!」
京香の声が大きくなったので、雪乃は反射的に駆けだしてしまっていた。そして扉を開ける。そこには目を大きく見開き、焦りを浮かべた京香がいた。
「あの」
「雪乃さん、ハウスキーパーに水をかけられたのですって?」
「え……あ、それは」
「ずぶ濡れのあなたが歩いていったのを何人も見ているし、廊下に水が点々と落ちているわ。屋敷内ではそんなことはできないから、温室でしょう?」
「…………」
「顔は見た?」
「…………」
なんと言っていいのかわからず黙っている雪乃に対し、京香は、はあ、と大きく息を吐きだした。
「見ていないのね? わかったわ。それはこちらで見つけ出して、クビにするから安心してちょうだい。派遣会社にもきつく言って賠償させるわ」
「賠償?」
「当然じゃないの。派遣先の人間に水をかけるなんて非常識だし、そもそも暴力よ。傷害罪で訴えてやってもいいんですからね。状況が聞きたいのだけど、中に入ってもいいかしら? それともリビングルームに移動する?」
雪乃は慌てて扉を大きく開き、部屋の中に招き入れた。
「急いで揃えたにしては素敵ね。貴哉が力を入れていたからねえ。たとえ半分であっても血がつながっている妹がいると知ってうれしかったんじゃないかしら」
「…………」
京香はドレッサーやシンプルな造りの大人用の学習机に軽く触れながらじっくり見て回った。
雪乃がその動きを目で追い、話があるから部屋に入ったのでは、と思った矢先、まるで心を読んでいるかのように振り返った。
「ごめんなさいね、大事なお話をするためなのに見入ってしまって」
「いえ、そんな」
「それで、どんな状況だったのかしら。人数とか、わかる?」
雪乃はかぶりを振った。二人はいたが、それ以上のことはわからない。それにヘタに刺激したくもなかった。行動に移したのは二人でも、他の使用人たちにだって快く思われていないだろうから。
「庇わなくていいのよ」
「いいえ、咄嗟のことでよくわからなかったんです。足音は複数でしたが、それが何人だったのかは後ろ向きだったので……」
「そう。わかったわ。とにかく、誰かやったか突き止めるから安心してちょうだい」
眉間にしわを寄せて窺うように見つめてくる京香の様子に訝しさはない。雪乃は自分の中にある京香への偏見や恐怖に疑問が湧いてくるのを感じた。
この人は本当に私の命を狙っているのか、と。
(やっぱり貴哉さんが私を逃がさないために嘘をついてるんじゃ?)
だが、貴哉と過ごした時間は雪乃にとってかけがえのないものだ。たとえ、真実を伏せてあんな真似をしたとはいえ、過去が消えるわけではない。
(わからない)
不安が増大する。そんな雪乃の気持ちを知ってか知らずか、京香は雪乃の右肩に手を置いた。
「なにかされたらすぐに言ってちょうだいね。誰しも思うことはあるでしょうけど、人に危害を加えるなど許されないことだから」
「……はい」
「あなたがずぶ濡れのかっこうで歩いていると報告を受けて驚いたのだけど、思っていたよりかはしっかりして安心したわ。錯乱していたらどうしようかと心配だったものだから。では、失礼するわね」
京香はにっこり微笑み、部屋をあとにした。その背を、雪乃は言葉なく見送るだけだった。