禁断×契約×偽装×策略
温室の件から三日が経った。たった三日だが、雪乃にとってはとてつもなく長く感じられる時間だった。
実康と貴哉はかなり忙しい身らしく、顔を合わせるのは朝だけだった。とはいえ、それは偶然で、出張によっていないことのほうが多いとの話だ。今日も土曜だというのに、二人揃ってワイシャツにネクタイ姿で朝食をとっている。
「仕事?」
「ああ。でも、明日は休みだから、息抜きに出かけよう」
「ホント?」
「ずっと家の中じゃ息が詰まるだろう? それに嫌がらせも受けているみたいだし。そのあたりも聞きたい」
「…………」
「嫌か? 嫌なら行かないけど」
「いいえ」
反射的に激しくかぶりを振り、そう答えていた。貴哉が安堵したように息をついている。
「父さんも一緒に行く?」
「せっかくの休みなんだから、二人で出かけてきたらいい」
実康がそう答えた時、横から京香が口を挟んだ。
「あら、私はご一緒したいわ」
一瞬で空気が凍るのを感じたものの、貴哉が眉間にしわを刻んで否定した。
「それはこっちが断る」
「あら、どうしてよ」
「母さんが同行していい記憶がまったくない。こっちが行きたいところは大反対の挙げ句に拗ねて不機嫌になるし、折れて追随したら退屈なショッピングばかりで辟易だ。雪乃と二人で出かける」
「子どもでもあるまいし、兄妹で出かけるなんて気持ち悪くない?」
「宇條家にゆかりのある場所に案内するだけだ」
兄妹という言葉が雪乃の胸を鋭く刺すが、貴哉は気にならないようで表情を変えることなく言い返している。そして言い終えると立ち上がった。
「父さん、そろそろ時間だ、行こう」
促されて実康も腰を上げる。
「雪乃、お前も早く部屋に戻れ」
貴哉は雪乃に向けてきつい口調で言い、実康とともにダイニングルームを出て行った。
「まったく困ったものね。子どもの頃はかわいかったのに、今では憎たらしいことばかり。やっぱり持つべきは女の子だわ。雪乃さんが来てくれてよかったわ」
「……そう言っていただけて光栄です」
控えめに答えると、京香は微笑んだ。そのまなざしはねっとりした感じで、好意的なものなのかそうでないのかよくわからない。
「ホントよ。さてと、私も予定があって出かけるので失礼するわね」
京香は颯爽とダイニングルームから去っていった。
雪乃も自分の部屋に戻り、机に向かう。さすがにここに来て五日だ。ウジウジ悩んでいてもなにも始まらない。ネットで映画やドラマ、それから動画共有サイトで配信される動画を見て気分転換をしていた。
映画がサブスクで配信されるタイミングが早いので、気になっていたものを追いかけているとあっという間に時間が過ぎる。雪乃はテレビの前に座り、サブスクのチャンネルを押した。
大人気アニメの監督が手掛けたという映画が画面に展開される。映像も音楽も素晴らしい。
本物の風景のような映像が広がる。木々の木漏れ日、水面を揺らす風、靡く棚田、夕日や星などの光がキラキラと輝いている。
腹の底に響くような重低音から、つんざくような衝撃音がして、息つく暇のない展開にドキドキしてしまう。かと思えば、泣けてくるような切ないシーンにジンとなる。
ヒロインの心の強さに感銘し、彼女を守ろうとする仲間たちの優しさにほろりとなり、二時間半のアニメはまったく長さを感じさせない感動的なものだった。
時計を見ると十一時半を少し過ぎた頃合いで、さっき朝食を食べたと思うのに、もうこんな時間かと驚いた。
午後はなにを見ようかとラインナップを眺める。本当はこんなことをしたいわけではない。大学に行きたいし、外でのんびり羽を伸ばしたい。だが、温室であんなことがあった以上、貴哉がいいと言うまではおとなしく部屋にこもっていようと思うのだ。
(いつまでなんだろう。ひと月? それとも半年くらい? 一年とかだったら無理)
親しい友達もいないので遊びの約束が入るわけではないけれど、ただじっとこもっているのはつらすぎる。そもそも母の綾子が亡くなって、まだ十日も経っていないのだ。
(お母さんはお父さんの正体……というか、宇條グループの総帥ってこと、知っていたのかなぁ)
ぼんやりしていると、遠くで時計の音がしていることに気づいた。雪乃はその音に反応し、部屋の壁に掛けられている時計を見た。針は正午を示している。
(お昼に行かなきゃ)
ここに来た時は誰かが知らせに来てくれたが、今は呼ばれなくても時間が来ればダイニングルームに出向いている。
雪乃はテレビを消して立ち上がり、部屋を出た。
「お嬢様、ちょうどいいところに」
初めて見る顔だ。胸元の名札に視線をやると『三浦』とある。
「数日前、奥様がこちらにいらしたと思うのですが」
「奥様? ええ、いらっしゃいました」
そう答えると、三浦はうれしそうにぱっと顔を明るくした。
「その時、イヤリングを落とされたみたいなのです」
「イヤリング?」
「はい。お気に入りのイヤリングで、失くしたとずっと探しておられて。お屋敷中くまなく探したのですが見つかりませんでした。あとはお嬢様と貴哉様の部屋だけなのですが、お二方の部屋の鍵は指紋認証ですので、了解をいただかないと入れないものでして」
なにが言いたいのかようやく察した。
「毎日掃除してもらってますけど、そんな話は聞きませんでしたよ?」
「念のために確認をさせてほしいのです。それを奥様に報告したくて。お食事の用意はできていますので、お嬢様はお昼ご飯に行ってください。私は床を見せてもらったらすぐに出ますので」
貴哉に三人以外は部屋に入れるなと言われている。温室のこともある。ここは断るべきだろうと悩むが。
「お願いいたします、お嬢様」
「…………」
「拝見させていただいて、なければないと奥様に申し上げるだけですので。どうか」
指を絡ませる形で手を合わせて懇願する姿に、雪乃はやむないと思った。彼女には彼女の仕事や立場もあるだろう。断って叱られたら気の毒だ。
「そうですか、わかりまいた」
「ありがとうございます!」
「どうぞ」
雪乃は扉を大きく開き、三浦を中に通して自分はダイニングルームに向かった。
昼食はデミグラスソースがかかったオムライスだった。中はキノコが入っていて、芳ばしくておいしかった。デザートはプリン。ぺろりと食べ終え、部屋に戻る。三浦の姿はなかった。
当然か、そう思って、ふと机の引き出しが半分くらいあいていることに気づいた。自分であけた覚えがないし、そもそもあけたら閉じる。だとすればさっき招き入れた三浦だろうが、床だけ確認したいと言ったのに引き出しに触れているとなると不穏なものを感じる。
なにか物色していたのだろうか。いや、それはないだろう。顔も名前もオープンな状態、雪乃が昼食をとっていた時間に部屋にいたのだから、そこに盗難があれば真っ先に、そして確実に疑われる。そんな愚かなことはしないだろうし、わざわざあけっぱなしになどしないだろう。
(まさかね)
雪乃は苦笑気味に引き出しを閉じようとした。
(ん?)
引き出しの中に見慣れない袋がある。長さは二十センチくらいだろうか。もごもごと動いていて形が定まらない。
(なに、これ)
中に生き物がいることは間違いないだろう。小さなネズミかとも思うが、膨れ方がいびつで、もっと小さな生き物のように思う。
(虫?)
このまま放置して貴哉に見てもらおうかと思いつつも、机の中にあること自体が気持ち悪い。入れたのは間違いなく三浦だ。彼女を呼び寄せて処分させようかとも思うが。
(どうしよう)
迷いつつもさらに近づいた。すると口を縛っている紐が緩んでいたのか、より強くその周辺が動き、中から細い糸のようなものが見えたかと思ったら、黒光りする虫がスルリと出てきた。
「!」
三センチくらいはあるだろう黒光りする大きなゴキブリだ。そして口が開いたことで外を目指して続々と同じくらいの大きさのゴキブリが出てきて、見る見る引き出しの中全体に散らばっていく。
雪乃は両手で口を押さえ、震えながら後退った。と同時に、視界が滲んだ。
(こんなところ、いられない……いたくないっ!)
ウォークインクローゼットに飛び込み、大きな鞄がないか探す。
(あった)
黒のボストンバッグを見つけた。雪乃は急いで引っ張り出して、財布やスマートフォン、下着や服などを詰め込んで部屋から飛び出した。
血相を変えて廊下を走る雪乃をすれ違う使用人たちが驚いた顔で見ているのがわかる。だがかまっている余裕はない。一秒でも早くここから逃げ出したくて、それ以外もう考えられなかった。
靴を履いて玄関を出て、再び駆け出す。門扉の近くまで行ったところで、駐車場の門が開き、車が入ってきた。
「雪乃さん、どうしたの?」
車が止まったかと思うと、後部座席の窓が開き、京香が顔を出して声をかけてくる。立ち止まった雪乃は無意識のうちにかぶりを振っていた。
京香が車から降りてきて雪乃の目の前までやってきた。
「血相変えて、なにかあったの?」
「…………」
「なにかあったのでしょう? どこへ行くつもり? 主人や貴哉から、ここにいるように強く言われているでしょうに」
「すみません。私、このお屋敷にはいられません」
「なぜ?」
問われてまた激しくかぶりを振った。
「自分が招かねざる者だということはわかっています。でも、私、望んで来たわけじゃない。いきなり声をかけられて、車に乗るように言われて、連れてこられたんです。ここに私の居場所はありませんし、いたくありません」
「また誰かあなたに嫌がらせをしたのね。あれだけ強く注意したのに。わかったわ。あなた、カードは持ってる?」
雪乃は意味がわからず、小首を傾げた。
「クレジットカードよ」
「あっ、いいえ、持っていません。お小遣いは振り込んでもらっていたので……」
「そう。ちょっと待って」
京香は手にしているハンドバッグを開き、革のカードポーチを取り出した。さらにそのカードポーチから一枚、黒いクレジットカードを抜き取る。
「これ、使ってちょうだい。上限がないから金額を気にせず使えるし、暗証番号は私の誕生日の十二月二十日、一二二〇だから」
「いいえっ、受け取れません。少しだけど貯金がありますから」
「そのお金も、もとはといえば主人のものじゃなくて?」
図星をさされて雪乃は言葉を失った。確かにそうだ。母の遺産は実康が与えたものであるし、相続の手続きは貴哉に任せてしまって、現状どうなっているのかわからない。自分の口座に入っている金も実康からもらった小遣いだ。だから自分の金だとはとても言えない。それに雪乃は今まで家事に手を取られていたのでアルバイトもしたことがなかった。
「先立つものは必要よ。それに、狭いホテルに泊まるのも息が詰まるしね。高級ホテルに泊まるといいわ」
「ですが」
「好意を無下にしてはいけないわよ」
雪乃は差し出されたクレジットカードをじっと見つめた。断って心証を悪くするのもどうかと思う。だが、京香は迷っている雪乃の手を掴んでクレジットカードを握らせた。
「あ……」
「必要なければ使わなかったらいいだけの話。お守り代わりに持っているだけで心強いでしょ。気をつけてね」
「……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、雪乃は身を翻して駆け出した。
実康と貴哉はかなり忙しい身らしく、顔を合わせるのは朝だけだった。とはいえ、それは偶然で、出張によっていないことのほうが多いとの話だ。今日も土曜だというのに、二人揃ってワイシャツにネクタイ姿で朝食をとっている。
「仕事?」
「ああ。でも、明日は休みだから、息抜きに出かけよう」
「ホント?」
「ずっと家の中じゃ息が詰まるだろう? それに嫌がらせも受けているみたいだし。そのあたりも聞きたい」
「…………」
「嫌か? 嫌なら行かないけど」
「いいえ」
反射的に激しくかぶりを振り、そう答えていた。貴哉が安堵したように息をついている。
「父さんも一緒に行く?」
「せっかくの休みなんだから、二人で出かけてきたらいい」
実康がそう答えた時、横から京香が口を挟んだ。
「あら、私はご一緒したいわ」
一瞬で空気が凍るのを感じたものの、貴哉が眉間にしわを刻んで否定した。
「それはこっちが断る」
「あら、どうしてよ」
「母さんが同行していい記憶がまったくない。こっちが行きたいところは大反対の挙げ句に拗ねて不機嫌になるし、折れて追随したら退屈なショッピングばかりで辟易だ。雪乃と二人で出かける」
「子どもでもあるまいし、兄妹で出かけるなんて気持ち悪くない?」
「宇條家にゆかりのある場所に案内するだけだ」
兄妹という言葉が雪乃の胸を鋭く刺すが、貴哉は気にならないようで表情を変えることなく言い返している。そして言い終えると立ち上がった。
「父さん、そろそろ時間だ、行こう」
促されて実康も腰を上げる。
「雪乃、お前も早く部屋に戻れ」
貴哉は雪乃に向けてきつい口調で言い、実康とともにダイニングルームを出て行った。
「まったく困ったものね。子どもの頃はかわいかったのに、今では憎たらしいことばかり。やっぱり持つべきは女の子だわ。雪乃さんが来てくれてよかったわ」
「……そう言っていただけて光栄です」
控えめに答えると、京香は微笑んだ。そのまなざしはねっとりした感じで、好意的なものなのかそうでないのかよくわからない。
「ホントよ。さてと、私も予定があって出かけるので失礼するわね」
京香は颯爽とダイニングルームから去っていった。
雪乃も自分の部屋に戻り、机に向かう。さすがにここに来て五日だ。ウジウジ悩んでいてもなにも始まらない。ネットで映画やドラマ、それから動画共有サイトで配信される動画を見て気分転換をしていた。
映画がサブスクで配信されるタイミングが早いので、気になっていたものを追いかけているとあっという間に時間が過ぎる。雪乃はテレビの前に座り、サブスクのチャンネルを押した。
大人気アニメの監督が手掛けたという映画が画面に展開される。映像も音楽も素晴らしい。
本物の風景のような映像が広がる。木々の木漏れ日、水面を揺らす風、靡く棚田、夕日や星などの光がキラキラと輝いている。
腹の底に響くような重低音から、つんざくような衝撃音がして、息つく暇のない展開にドキドキしてしまう。かと思えば、泣けてくるような切ないシーンにジンとなる。
ヒロインの心の強さに感銘し、彼女を守ろうとする仲間たちの優しさにほろりとなり、二時間半のアニメはまったく長さを感じさせない感動的なものだった。
時計を見ると十一時半を少し過ぎた頃合いで、さっき朝食を食べたと思うのに、もうこんな時間かと驚いた。
午後はなにを見ようかとラインナップを眺める。本当はこんなことをしたいわけではない。大学に行きたいし、外でのんびり羽を伸ばしたい。だが、温室であんなことがあった以上、貴哉がいいと言うまではおとなしく部屋にこもっていようと思うのだ。
(いつまでなんだろう。ひと月? それとも半年くらい? 一年とかだったら無理)
親しい友達もいないので遊びの約束が入るわけではないけれど、ただじっとこもっているのはつらすぎる。そもそも母の綾子が亡くなって、まだ十日も経っていないのだ。
(お母さんはお父さんの正体……というか、宇條グループの総帥ってこと、知っていたのかなぁ)
ぼんやりしていると、遠くで時計の音がしていることに気づいた。雪乃はその音に反応し、部屋の壁に掛けられている時計を見た。針は正午を示している。
(お昼に行かなきゃ)
ここに来た時は誰かが知らせに来てくれたが、今は呼ばれなくても時間が来ればダイニングルームに出向いている。
雪乃はテレビを消して立ち上がり、部屋を出た。
「お嬢様、ちょうどいいところに」
初めて見る顔だ。胸元の名札に視線をやると『三浦』とある。
「数日前、奥様がこちらにいらしたと思うのですが」
「奥様? ええ、いらっしゃいました」
そう答えると、三浦はうれしそうにぱっと顔を明るくした。
「その時、イヤリングを落とされたみたいなのです」
「イヤリング?」
「はい。お気に入りのイヤリングで、失くしたとずっと探しておられて。お屋敷中くまなく探したのですが見つかりませんでした。あとはお嬢様と貴哉様の部屋だけなのですが、お二方の部屋の鍵は指紋認証ですので、了解をいただかないと入れないものでして」
なにが言いたいのかようやく察した。
「毎日掃除してもらってますけど、そんな話は聞きませんでしたよ?」
「念のために確認をさせてほしいのです。それを奥様に報告したくて。お食事の用意はできていますので、お嬢様はお昼ご飯に行ってください。私は床を見せてもらったらすぐに出ますので」
貴哉に三人以外は部屋に入れるなと言われている。温室のこともある。ここは断るべきだろうと悩むが。
「お願いいたします、お嬢様」
「…………」
「拝見させていただいて、なければないと奥様に申し上げるだけですので。どうか」
指を絡ませる形で手を合わせて懇願する姿に、雪乃はやむないと思った。彼女には彼女の仕事や立場もあるだろう。断って叱られたら気の毒だ。
「そうですか、わかりまいた」
「ありがとうございます!」
「どうぞ」
雪乃は扉を大きく開き、三浦を中に通して自分はダイニングルームに向かった。
昼食はデミグラスソースがかかったオムライスだった。中はキノコが入っていて、芳ばしくておいしかった。デザートはプリン。ぺろりと食べ終え、部屋に戻る。三浦の姿はなかった。
当然か、そう思って、ふと机の引き出しが半分くらいあいていることに気づいた。自分であけた覚えがないし、そもそもあけたら閉じる。だとすればさっき招き入れた三浦だろうが、床だけ確認したいと言ったのに引き出しに触れているとなると不穏なものを感じる。
なにか物色していたのだろうか。いや、それはないだろう。顔も名前もオープンな状態、雪乃が昼食をとっていた時間に部屋にいたのだから、そこに盗難があれば真っ先に、そして確実に疑われる。そんな愚かなことはしないだろうし、わざわざあけっぱなしになどしないだろう。
(まさかね)
雪乃は苦笑気味に引き出しを閉じようとした。
(ん?)
引き出しの中に見慣れない袋がある。長さは二十センチくらいだろうか。もごもごと動いていて形が定まらない。
(なに、これ)
中に生き物がいることは間違いないだろう。小さなネズミかとも思うが、膨れ方がいびつで、もっと小さな生き物のように思う。
(虫?)
このまま放置して貴哉に見てもらおうかと思いつつも、机の中にあること自体が気持ち悪い。入れたのは間違いなく三浦だ。彼女を呼び寄せて処分させようかとも思うが。
(どうしよう)
迷いつつもさらに近づいた。すると口を縛っている紐が緩んでいたのか、より強くその周辺が動き、中から細い糸のようなものが見えたかと思ったら、黒光りする虫がスルリと出てきた。
「!」
三センチくらいはあるだろう黒光りする大きなゴキブリだ。そして口が開いたことで外を目指して続々と同じくらいの大きさのゴキブリが出てきて、見る見る引き出しの中全体に散らばっていく。
雪乃は両手で口を押さえ、震えながら後退った。と同時に、視界が滲んだ。
(こんなところ、いられない……いたくないっ!)
ウォークインクローゼットに飛び込み、大きな鞄がないか探す。
(あった)
黒のボストンバッグを見つけた。雪乃は急いで引っ張り出して、財布やスマートフォン、下着や服などを詰め込んで部屋から飛び出した。
血相を変えて廊下を走る雪乃をすれ違う使用人たちが驚いた顔で見ているのがわかる。だがかまっている余裕はない。一秒でも早くここから逃げ出したくて、それ以外もう考えられなかった。
靴を履いて玄関を出て、再び駆け出す。門扉の近くまで行ったところで、駐車場の門が開き、車が入ってきた。
「雪乃さん、どうしたの?」
車が止まったかと思うと、後部座席の窓が開き、京香が顔を出して声をかけてくる。立ち止まった雪乃は無意識のうちにかぶりを振っていた。
京香が車から降りてきて雪乃の目の前までやってきた。
「血相変えて、なにかあったの?」
「…………」
「なにかあったのでしょう? どこへ行くつもり? 主人や貴哉から、ここにいるように強く言われているでしょうに」
「すみません。私、このお屋敷にはいられません」
「なぜ?」
問われてまた激しくかぶりを振った。
「自分が招かねざる者だということはわかっています。でも、私、望んで来たわけじゃない。いきなり声をかけられて、車に乗るように言われて、連れてこられたんです。ここに私の居場所はありませんし、いたくありません」
「また誰かあなたに嫌がらせをしたのね。あれだけ強く注意したのに。わかったわ。あなた、カードは持ってる?」
雪乃は意味がわからず、小首を傾げた。
「クレジットカードよ」
「あっ、いいえ、持っていません。お小遣いは振り込んでもらっていたので……」
「そう。ちょっと待って」
京香は手にしているハンドバッグを開き、革のカードポーチを取り出した。さらにそのカードポーチから一枚、黒いクレジットカードを抜き取る。
「これ、使ってちょうだい。上限がないから金額を気にせず使えるし、暗証番号は私の誕生日の十二月二十日、一二二〇だから」
「いいえっ、受け取れません。少しだけど貯金がありますから」
「そのお金も、もとはといえば主人のものじゃなくて?」
図星をさされて雪乃は言葉を失った。確かにそうだ。母の遺産は実康が与えたものであるし、相続の手続きは貴哉に任せてしまって、現状どうなっているのかわからない。自分の口座に入っている金も実康からもらった小遣いだ。だから自分の金だとはとても言えない。それに雪乃は今まで家事に手を取られていたのでアルバイトもしたことがなかった。
「先立つものは必要よ。それに、狭いホテルに泊まるのも息が詰まるしね。高級ホテルに泊まるといいわ」
「ですが」
「好意を無下にしてはいけないわよ」
雪乃は差し出されたクレジットカードをじっと見つめた。断って心証を悪くするのもどうかと思う。だが、京香は迷っている雪乃の手を掴んでクレジットカードを握らせた。
「あ……」
「必要なければ使わなかったらいいだけの話。お守り代わりに持っているだけで心強いでしょ。気をつけてね」
「……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、雪乃は身を翻して駆け出した。