※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。
その日の勤務を終えた紗良は、心ここに在らずの状態でエレベーターを待っていた。
(まさか周平が戻ってくるなんて……)
昔の苦々しい記憶が蘇るようだった。同じ会社で働いている以上、多少の噂話は耳に入ってくるが出来れば直接会いたくなかった。
気晴らしに服でも買いに行こうか。そろそろ秋の新作が街に出回る頃だ。それとも新しい茶葉でも仕入れようか。
紗良はやってきたエレベーターに乗り込みむと一階のボタンを押した。エントリーゲートを抜け、街に繰り出そうとスマホを手に取った瞬間、怪しい影がひとつ忍び寄ってくる。
「紗良、今帰りか?」
「周平……」
紗良はトートバッグの持ち手を握りしめると、片手を上げた周平の脇を意図的に素通りした。
「冷たいな」
あからさまに避けられ、周平は苦笑した。紗良は仕方なくその場に立ち止まった。
「優しくする理由が……ないもの」
苦々しいものが口の中に広がっていく。
待ち伏せなんかされて喜んで抱きつくとでも思ったのか?
「私、彼氏がいるの。もう周平とは恋人でもなんでもないんだから気安く話しかけないで」
紗良はそう言うと周平を振り返ることなくエントランスを早足で駆け抜けた。
周平に聞きたいことは山ほどあった。
どうして離婚したのか。転勤先の福岡で何があったのか。奥さんと子供はどうしたのか。
昔と変わらない周平の横顔を見たら、ジクジクと心の古傷が痛み出した。自分ではすっかり治ったものだと思っていたのに、実際にはまだカサブタで些細な衝撃でも血が滲み出してくる。