※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。
「帰りますか」
「はい」
残された紗良と静流はお会計を済ませると、街灯がポツリと点灯し始めた街へとくりだした。
「紗良さん、手を繋いでもいいですか?」
「そういえば街中で手を繋ぐのは初めてですね」
「そうですね。ずっと人目を避けていましたからね」
架空の妻を演じていた頃とは違う。
街中で堂々と手を繋いで歩けるし、この人が自分の恋人……いや、婚約者だと胸を張って言うことができる。
紗良は差し出された左手を握った。静流の薬指にはもう指輪ははめられていなかった。
新しい指輪は婚姻届を出すまでは大事にしまっておくことにしたからだ。
「吉住くんの言ったこと、あながち間違いでもないんです」
「……え?」
「最初は愛妻家だとアピールするつもりで、架空の妻への賛辞を口にしていたのですが……。途中から何を言えば紗良さんの可愛い反応を引き出せるのか楽しむようになっていました」
紗良の口が屈辱でわなわなと震えた。
「……悪趣味!!」
ああ、なんて人を好きになってしまったのだろう!
「ひどいっ!!人でなし!!傲慢!!変態っ!!」
「罵倒は甘んじて受け入れましょう」
静流は眼鏡のフレームをおさえ、紗良からの攻撃を静かに聞き流した。
ひとしきり静流をなじり終わると紗良から急速に勢いが失われる。
「これからは普通の愛妻家になってくださいね……?」
「はい。私が溺愛する妻は紗良さんひとりです」
怒った手前言いにくいが、静流の狂妻家ぶりをもう拝めなくなると思うと少し寂しいような気もした。
紗良と静流は顔を見合わせ、お互いに笑い合った。
これから二人の新しい生活が始まる。